福利厚生と文化、スポーツの充実
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「大嶺炭田」の記事における「福利厚生と文化、スポーツの充実」の解説
大嶺炭田は幸いなことに戦災を受けることはなかったものの、終戦後、朝鮮人労働者たちの引き揚げ、連合軍捕虜の帰国、勤労報国隊の帰郷に加え、炭鉱の将来に見切りをつけた人たちの離職が相次ぎ、社宅は文字通り閑散としてしまった。そこで炭鉱の再建はまず人集めからと、山陽無煙炭鉱の労務担当者は全国を巡って求人に奔走した。1946年(昭和21年)に入ると、国の炭鉱振興政策に伴い、戦災を受けた人々や引揚者が大挙して求職するようになった。以後、他の産業の好況に対して炭鉱の斜陽化が明らかになり、若年層を中心とした離職者が増加するようになった1962年(昭和37年)頃までは、1953年(昭和28年)から1954年(昭和29年)頃にかけて山口県内に求人をかけたことがある以外は、求職者が多数で選考が大変な状況が続いた。 活気が戻って来た山陽無煙炭鉱では、白岩と豊浦の社宅の増設が急ピッチで進められた。特に豊浦社宅は約80万平方メートルの土地に約5600人が暮らすようになるまで発展した。そして1951年(昭和26年)以降の練炭需要の回復に伴い、産炭量が増加して給与も上昇していき、鉱員たちの生活にも余裕が生まれるようになった。 社宅の建設に伴って福利厚生施設も充実していった。まず戦前に設けられた豊浦病院、美祢病院は診療科の拡大と設備の充実が進められた。豊浦坑口近くには仕事を終えた鉱員が入浴できるように浴場が設けられ、また豊浦地区に3つ、白岩地区に1つ、鉱員と家族用の浴場が設けられていずれも無料で入浴できた。1950年(昭和25年)には1000人収容の豊浦会館と白岩集会場が建設され、映画、演劇、当時の一流歌手などを招いての歌謡ショーなどが催された。映画は山陽無煙炭鉱の従業員とその家族ばかりではなく、地域の人たちにも安い価格で提供され、かなり遠方からも観客を集めていたという。 スポーツ関連施設も豊浦グラウンド、白岩グラウンド、テニスコート、バレーコート、卓球場、武道館、プールなどが建設された。中でもプールは山口県下の他の地区に先駆けて建設され、住民たちによる共同清掃作業が行われていた。社宅に住む人々に生活必需品を販売する配給所は豊浦に2店舗、白岩に1店舗設けられ、その他、保育園、独身寮なども整備された。 海から離れた場所にある山陽無煙炭鉱では、戦後、夏に海へ家族連れで行くイベントが恒例となった。戦後まもなくの時期はトラックを仕立てて海への一日旅行を行ったという。後にはバスを30台から50台に分乗して海へ向かうようになった。この海への一日旅行は特に子どもたちにとっては大きな楽しみであった。また榎山炭鉱では社員と家族で春は花見と温泉、夏は海水浴に行くことが恒例であった。 5月の運動会、9月の素人演芸大会も大きなイベントであった。素人演芸大会は1928年(昭和3年)頃に始まったとされ、戦前は正月とお盆に行われ、多くの参加者を集めて盛況であったが、戦時体制が強化される中、1941年(昭和16年)頃に中断する。戦後まもなく素人演芸大会は復活し、組合が主催して出演者は約100名、見物客は800から1000人に達したと伝えられている。炭鉱労働者たちは全国各地から山陽無煙炭鉱にやってきていたため、それぞれの郷土の出し物が演じられたり、出演者それぞれの芸が披露されたりして一日中賑わった。また運動会では様々な種目の他に町内対抗の仮装大会、そして華やかかつ嗜好を凝らした応援合戦が名物であったという。 生活に余裕が生まれてくるにつれて、文化活動やスポーツが活発になっていく。前述のように山陽無煙炭鉱では1943年(昭和18年)、白岩で男性のみの楽団である南風が結成されていた。戦後、南風は個人持ちであった弦楽器はに加えて会社から管楽器の援助を受け、楽団らしい体制が整えられた。南風は社内のみならず周辺の中小炭鉱でのイベントでも活躍し、1955年(昭和30年)頃まで活動したという。また1948年(昭和23年)春には、男女のメンバーからなる山陽楽団という楽劇団が結成された。山陽楽団はかつて海軍の軍楽隊に所属していた人物もメンバーに加入しており、かなり本格的な演奏ができた。山陽無煙炭鉱としては当時、食糧難が続いていたため、周辺の農村に山陽楽団を派遣して演奏活動を行い、食料融通に役立てようとのもくろみがあった。山陽楽団は1952年(昭和27年)頃まで、近隣の農村で春と秋に流行歌や寸劇をプログラムとした演奏活動を行った。娯楽がまだ少なかった時代、演奏活動は歓迎され、常に多数の観客を集めたという。 戦後、山陽無煙炭鉱では音楽関連の他に俳句同好会などが活動を始めた。またスポーツ活動では戦後まもなく陸上競技部が結成され、その後水泳部、軟式庭球部、軟式野球部、ラグビー部などが創設され、対外試合などで活躍するようになった。山間部の美祢ではもともと釣りが盛んであり、戦後の山陽無煙炭鉱でも釣りの同好会が釣り大会の開催やバスを仕立てて海釣りを行うなど盛んに活動した。前述のように北陸方面からの季節労働者たちが、山が深くて雪が多い環境を生かしてスキーを楽しむ会を結成した。そして社宅で暮らす子どもたちの健全育成を目的として、1949年(昭和24年)6月にボーイスカウトが結成されたが、一時期活動が中断してしまった。しかし社宅の青少年たちの不良化防止が大きな課題となってきたため、1954年(昭和29年)11月に再発足した。 また山陽無煙炭鉱では主婦たちによる主婦会、子供会の活動もまた活発であった。主婦会では社宅の子どもたちの非行防止運動、良質な品物を安い価格で購入する生活を守る運動、そしてバレーボールを中心としたスポーツを通じて健康増進、会員同士の親睦を図るなどの活動を行い、大きな成果を上げた。子供会は山陽無煙炭鉱関連で約60結成され、山口県下有数の規模となり、こどもの日やクリスマスなどにはイベントを開催した。 山陽無煙炭鉱は、同じ山口県内の宇部炭田の炭鉱よりもスポーツや文化活動などが活発であった。これはまず会社が健全な文化、スポーツ活動を支援、奨励した点が挙げられる。良質な労働力確保のため、福利厚生施設の充実とともに各種慰安事業、そして文化サークルやスポーツ活動に支援を行ったのである。特に盛んなスポーツ活動はスポーツを趣味とする若い労働者が山陽無煙炭鉱に就職するきっかけにもなり、会社の事業発展にプラスとなった。また市街地に隣接していた宇部炭田の炭鉱では、近隣で各種の娯楽が充足できたのに対し、山深く、しかも大勢の従業員や家族を抱えることになった山陽無煙炭鉱では、スポーツや文化活動の充実が大きな役割を果たすことになった。そして前述のように映画上映を地域開放したり、山陽楽団が近隣の農村で演奏活動を行って好評を博するなど、山陽無煙炭鉱自体が地域の文化センターのような役割を果たしていた。
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