福光石黒氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:16 UTC 版)
石黒氏は古代砺波郡を支配した豪族・利波臣志留志の末裔とされる一族で、平安時代末期から戦国時代初頭にかけて砺波郡において最も有力な武士団であった。現在の南砺市福光町一帯を代々拠点とし、多数の分家を輩出したが、後述するように 「田屋川原の戦い」 に敗れたことで福光における石黒家は断絶した。 そのため、 戦国時代中期以後は現在の高岡市旧福岡町地域の木舟城を拠点とする分家の活動のみが記録されている。「闘静記」には「石黒正義」なる人物がこの頃当主であり、一向一揆との戦いを主導したと記されている。 現存する越中石黒家の系図資料は全て木舟城石黒家のものであり、「田屋川原の戦い」に加わった「石黒正義」の系講は伝わっていない。ただし、石黒治男所蔵「越中石黒糸図」では倶利伽羅峠の戦いで活躍したとされる「石黒光弘」に「光房(弥太郎)」 と「光宗(二郎兵衛尉)」という二人の息子がいたとし、そのうち「光宗」の家系から木舟城石黒家が出てきたと記す。久保尚文は、「光宗」の兄「光房」とその孫「光清」もまた石黒宗家の通字である「光」を有していることから、「石黒光房-光清」の子孫こそ福光石黒家の宗家であり、石黒光義もその一員ではないかと推測している。なお、安達正雄は木舟城石黒家の系図には「左近」の称が頻出する一方で、福光石黒家の石黒光義が「右近」を称していることから、「石黒一族は砺波郡を2分して福光と木舟の両城主が所領し、福光城主を右近、木舟城主を左近と称していた」とするが、久保尚文はこの説にそぐわない事例もあることを指摘している。
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