日本での広がり
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「日本における喫茶店の歴史」も参照 日本には18世紀に長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれている。出島に出入りしていた一部の日本人がコーヒーを飲用していたと考えられ、出島に出入りすることが許されていた丸山遊郭の遊女の中にはオランダ人からコーヒーを贈られた者もいた。コーヒーについて言及された日本最古の本の1つと考えられている志筑忠雄の『万国管窺』にはわずかながらも記述が存在し、天明年間(1781年 - 1788年)に日本語に訳された『紅毛本草』には「古闘比以」という名でコーヒーの詳細な説明がされている。江戸幕府が敷いていた鎖国政策のため民衆にコーヒーが行き渡らず、また風味が日本人の嗜好に合わなかったため、伝来から普及までに長い時間を要した。1804年にコーヒーを飲んだ大田南畝(大田蜀山人)は、「焦げくさくして味ふるに堪ず」という感想を残した。ヨーロッパ文化に関心を抱く蘭学者や医家はコーヒーを飲んだ感想を記し、大黒屋光太夫などの国外に漂流した者も漂着先でコーヒーを飲用した。 幕末期の1856年、日本へのコーヒー輸入が開始される。19世紀初頭、蝦夷地は北方の帝政ロシアに圧迫され、ロシア軍艦が利尻島の番屋を襲撃するなどの事件が勃発していた。文化露寇と呼ばれる一連の事件に対し、幕府は東北地方の各藩に蝦夷地の防衛を命じている。だが越冬する藩士たちは猛烈な寒気とビタミンを欠いた食生活のため、多くの者が脚気や壊血病で横死した。1807年に発生した津軽藩士殉難事件では、越冬した津軽藩士100名のうち72名がひと冬の内に死亡している。だがコーヒー豆が脚気や壊血病を癒すとの風聞があり、1856年頃には、蝦夷地に駐屯する幕臣に「寒気を防ぎ、湿邪を払う」ためにコーヒー豆が支給された記録が残る。当時、コーヒーを淹れるには豆を黒くなるまで煎り、すり鉢で粗挽きした後に麻袋に入れて、湯に浸していた。こうした当時の抽出方法を成田専蔵珈琲店(青森県弘前市)が「藩士の珈琲」として再現。津軽地方の一部喫茶店で提供されている。 開国後の1864年、横浜に設けられた外国人居留地の西洋人を対象としたコーヒー・ハウスが開店した。欧風の食文化が日本で紹介されるとコーヒーも飲まれるようになり、1868年(明治元年)にコーヒー豆が正式に輸入されるようになった。翌1869年に横浜で萬国新聞を発行していた外国人エドワルズが日本初のコーヒーの宣伝広告を打ち出し、1875年には泉水新兵衛による日本人初のコーヒーの販売広告が読売新聞紙上に出された。1872年に出版された日本で最初の西洋料理解説書『西洋料理指南』では「カフヒー」の名で飲み方、淹れ方が紹介されている。 日本本土より南方にある小笠原諸島では、気候が温暖で、欧米系島民が幕末期から定住していた影響もあり、1878年と日本で最も早くコーヒーが栽培された記録がある。 しかし、明治初期にコーヒーを飲用していたのは上流階級の一部に限られ、一般層にも普及したのは明治末期から大正初期にかけての時期になってからである。コーヒーは牛乳の臭みを消す香料としても使用され、後にはコーヒー牛乳が考案される。1899年に加藤サトリが真空乾燥法によるインスタントコーヒーの製造に成功するが、当時の日本に販路は存在しておらず、アメリカに渡って1901年のパンアメリカン博覧会で発明品を公開する。 日本で最初の本格的なコーヒー店は、1888年4月に上野に開かれた可否茶館(かひいちゃかん)だとされている。ほか、1876年に下岡蓮杖が浅草で開いたコーヒー茶館、1878年12月26日の読売新聞に新聞広告を掲載した神戸元町の放香堂(1874年創業)、1886年に日本橋で開業した洗愁亭が、可否茶館より前に存在していたコーヒー店として挙げられることもある。 ブラジル移民政策を推進した実業家・水野龍は、ブラジル政府から功績を顕彰されて5年間のコーヒー豆の無償給付を受け、1913年に日本にカフェーパウリスタを設立する。1913年から1917年までの間に年7,500俵、1918年から1922年までの間に年2,500俵のコーヒーが無償で供給されたが、1923年にブラジルの政変によって無料供給は断絶し、同年の関東大震災によってカフェーパウリスタの経営は大打撃を受けた。だが、安価なコーヒーを提供したカフェ・パウリスタは大衆間へのコーヒーの普及を推進し、日本各地に店舗を持つカフェ・パウリスタの成功は地方都市のコーヒー市場を活性化させた。コーヒー店とミルクホールによってコーヒーは一般の人間にも広く飲まれるようになり、1937年/38年頃までコーヒーの黄金期が続いた。しかし、昭和初期の日本では、コーヒーは飲食店で飲まれるだけにとどまっており、まだ一般家庭の食卓に普及していなかった。第二次世界大戦の開戦により、コーヒーの輸入量は激減する。1950年に輸入が再開されるまでの間、一般家庭では大豆やユリの根などを調理した代用コーヒーが飲まれていた。 1960年に日本でもインスタントコーヒーが発売され、インスタントコーヒーは家庭でのコーヒーの消費を推進した。1958年には外山食品から世界初とされる缶コーヒー「ダイヤモンド缶入りコーヒー」が発売されるが、缶コーヒーの売れ行きは上がらなかった。上島珈琲本社は1970年の大阪万博をきっかけに缶コーヒーの売り上げを伸ばしていった。
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日本での広がり
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「ブッククロッシング」の記事における「日本での広がり」の解説
2003年頃から日本での登録が見られるようになる。東京都目黒区にある書店COW BOOKSが、ブッククロッシングのサポートを開始したことを機に、メディアでもこの活動が取り上げられるようになり少しずつ、参加者が増加した。 2007年9月には、広島県でブッククロッシングジャパン運営チームが発足し、その活動は徐々に広がりをみせている。
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日本での広がり
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日本においては外国(特にアメリカ)映画などを扱う業界では比較的以前から使われていた言葉だが、一般には馴染みの薄い言葉であった。 テレビ業界では新作放映時に視聴者をつなぎとめるため、前作の出演者から1人次の作品に残すという慣習が存在したことがあり、これを出演者のスピンオフと呼んでいたことが桜井浩子や毒蝮三太夫の対談[要文献特定詳細情報]などで語られている。具体的には、『ウルトラQ』から『ウルトラマン』への桜井、『ウルトラマン』から『ウルトラセブン』への毒蝮がそれに該当する。 マスメディアによって「スピンオフ」という言葉が頻繁に使われ、一般に知られるようになったのは2000年代の半ば[いつ?]以降である。 当時、企業の統廃合や分離が頻繁に行われ、まず、ビジネス用語としてのスピンオフが知られるようになっていた。
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