日本での工作活動
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1973年に元山港から工作船で能登半島に不法入国し、大阪方面、長野県、ついで東京の在日朝鮮人で子連れの寡婦だった朴春仙(パク・チュンソン)の家で暮らし始めた。この時の辛の生活は石高健次が1994年頃、朴から聞いている。朴によると辛は2階の1室を借りて住みこんだ。しかし来客を嫌い、2階の部屋に閉じこもるほど、工作活動の漏洩には注意していた。外出して書籍を買ってくる時は決まって日本政府の白書(主に防衛、軍事関係)だった。北朝鮮への郵送物は自分では行かず、朴が代わりに行くことが多かったが、絶対に「東京国際郵便局に行ってくれ。近所の郵便局ではだめだ」と話していたという。石高が朴からこれらのことを聞くことができたのは、朴からの依頼であり、「私がかつてスパイ(=辛)と暮らしていたから」と話を切り出したという。辛はのちに朴に対し自分が工作員である旨を話しているが、朴は土台人ではなく、本人は知らぬ間に協力させられていたのである。1974年秋、朴は辛の子どもも身ごもったが、最終的に出産を断念した。傷心の朴を辛は北陸方面への旅行に誘った。辛は滑川市の海岸で1時間半くらい調べごとをし、朴は東京に帰されたので日帰り旅行となった。その2、3か月後、今度は九州旅行に誘われ、宮崎市の海岸まで出かけたが、いつもは受信ばかりなのに、今回は朝鮮語で発信もしていた。1975年も後半になると、辛光洙は出張の方が多くなって家を空けることが多くなった。1976年2月、辛光洙は家を出て北朝鮮に3年ほど帰ることを春仙に告げた。そして、大阪での工作活動をおこない、それが一段落した1976年8月、以前春仙と行った滑川の海岸から北朝鮮に密出国した。ここまでが第1回目の浸透であった。 平壌に召喚された彼は、1976年9月下旬から12月まで平壌直轄市龍城区域の龍城5号招待所に密閉収容されて政治学習などを行い、1977年1月からの半年間は工作員養成機関である金星政治軍事大学の外国語班で外国語習得を行った。その後、万景台区域に移り、半年間、政治思想と通信技術、化学暗書法などの再教育を受け、さらに、78年から79年にかけては日本人化の再教育を受けた。そして、1980年2月には2度目の浸透工作のため、日本に再派遣された。再派遣に際して、金正日朝鮮労働党書記は、直接辛光洙に対し「日本人を拉致して北に連行し、日本人として完全に変身した後、対韓国工作活動を続けよ」との指示を下した。
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