日本での工作活動とは? わかりやすく解説

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日本での工作活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 11:09 UTC 版)

辛光洙」の記事における「日本での工作活動」の解説

1973年元山港から工作船能登半島不法入国し、大阪方面長野県、ついで東京在日朝鮮人子連れ寡婦だった朴春仙(パク・チュンソン)の家で暮らし始めた。この時の辛の生活は石高健次1994年頃、から聞いている。によると辛は2階の1室を借りて住みこんだ。しかし来客を嫌い、2階部屋閉じこもるほど、工作活動漏洩には注意していた。外出して書籍買ってくる時は決まって日本政府白書(主に防衛軍事関係)だった。北朝鮮へ郵送物は自分では行かず代わりに行くことが多かったが、絶対に東京国際郵便局行ってくれ。近所郵便局ではだめだ」と話していたという。石高からこれらのことを聞くことができたのは、からの依頼であり、「私がかつてスパイ(=辛)と暮らしていたから」と話を切り出したという。辛はのちに対し自分工作員である旨を話しているが、土台人ではなく本人知らぬ間に協力させられていたのである1974年秋、は辛の子どもも身ごもったが、最終的に出産断念した傷心を辛は北陸方面への旅行誘った。辛は滑川市海岸1時間半くらい調べごとをし、東京帰されたので日帰り旅行となったその2、3か月後、今度九州旅行誘われ宮崎市海岸まで出かけたが、いつもは受信ばかりなのに、今回朝鮮語発信もしていた。1975年後半になると、辛光洙出張の方が多くなって家を空けることが多くなった。1976年2月辛光洙は家を出て北朝鮮3年ほど帰ることを春仙に告げた。そして、大阪での工作活動おこない、それが一段落した1976年8月以前春仙と行った滑川海岸から北朝鮮密出国した。ここまで第1回目浸透であった平壌召喚された彼は、1976年9月下旬から12月まで平壌直轄市龍城区域龍城5号招待所密閉収容され政治学習などを行い1977年1月からの半年間は工作員養成機関である金星政治軍事大学外国語班で外国語習得行ったその後万景台区域移り半年間、政治思想通信技術化学書法などの再教育を受け、さらに、78年から79年にかけては日本人化の再教育受けた。そして、1980年2月には2度目浸透工作のため、日本に再派遣された。再派遣に際して金正日朝鮮労働党書記は、直接辛光洙対し日本人拉致して北に連行し日本人として完全に変身した後、対韓国工作活動続けよ」との指示下した

※この「日本での工作活動」の解説は、「辛光洙」の解説の一部です。
「日本での工作活動」を含む「辛光洙」の記事については、「辛光洙」の概要を参照ください。

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