支倉常長
(支倉長経 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 05:01 UTC 版)
支倉 常長(はせくら つねなが、1571年〈元亀2年〉‐ 1622年8月7日〈元和8年7月1日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての日本の武将(仙台藩伊達氏家臣[2])。幼名は與市、初名は六右衛門長経、キリスト教洗礼名はドン・ヒリッポ・フランシスコ・ハセクラ (西:Felipe Francisco Faxicura)[2]。
- ^ 本作品中央に走る縦の剥落および無数の横皺は、仙台藩に没収されたか支倉家で秘匿する際、枠から外され、2つ折りされた上で巻かれたため生じたと推測される。
- ^ イエズス会士の主導で築かれたキリシタン風の日本語ローマ字綴りは、イベリア半島の綴り(主に当時のポルトガル語)に依拠した綴字であり、xは基本的には[ʃ]を表わしているので、xiはシの音写である(なおeの前では[s]になるのでxeはセになる)。また、vはウ音を表わしていると思えばよいが、元来vは子音[w]と母音[u]を双方表わす字であった。紀元後の俗ラテン語の中で子音[v]もこれが管轄するところとなったが、vの下部が特に丸く表記されたuの字が母音[u]を表わす独立した字として十分に確立するのは17世紀より後のことである。支倉在世当時にはまだvで[u]を表わす文化が広く残っており、vとuの書き分けもかなり広く見られるようにはなっていたものの、権威ある場面であるほど書き分けず古式通りにされる傾向があった(同じ文書内でも、全部大文字の題字では母音もVで表わすが本文内ではuを使う、というようなことがある)。つまり、FAXICVRAは概ね「ファシクラ」だと思えばよい。
- ^ このような例は内藤如安の内藤家系図にも見られる。
- ^ 『MASTERキートン』10巻の「CHAPTER 7 祈りのタペストリー」に支倉常長がもたらしたとされるタペストリーが出てくる。
- ^ /vo/ は「を」を表記するために用いられた綴りで、xは先注の通り[ʃ]であるから、 Voxu は「奥州」(陸奥国)のことである。
- ^ “Idate Masamvne”、現代風のローマ字表記では Idate Masamune だが、これは「伊達政宗」を指す。伊達がかつて「いだて」と発音されていたことについては「伊達氏」を参照。
- ^ a b “慶長遣欧使節”. 仙台市博物館. 2016年9月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『読売新聞』よみほっと(日曜別刷り)2021年2月7日1面【ニッポン絵ものがたり】サムライ大使*支倉常長像(1615年)信義伝わる波乱の傷跡
- ^ 田代希文ほか『伊達世臣家譜略記』作並清亮〈仙台文庫叢書〉、1896年9月 。[要ページ番号]
- ^ “支倉常長隊”. 支倉常長隊. 川崎町役場 地域振興課. 2016年7月6日閲覧。
- ^ 大泉 1999, p. 不明[要ページ番号].
- ^ 樫山巌『支倉常長の謎』創栄出版、1993年。ISBN 4882503255。[要ページ番号]
- ^ “常長思いハポンの地へ遡る…コリア・デル・リオ(スペイン)”. 『読売新聞』. (2015年1月15日). オリジナルの2017年9月2日時点におけるアーカイブ。 2016年7月6日閲覧。
- ^ “支倉常信・川内支倉氏について”. 臨済宗妙心寺派 桂蔵寺. 2019年6月20日閲覧。
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.51
- ^ 松田 1987, p. 不明[要ページ番号].
- ^ “声清らかに常長たたえ 昭和初期の歌が65年ぶり復活 大郷”. 『河北新報』. (2010年8月25日). オリジナルの2010年8月27日時点におけるアーカイブ。
- ^ “CiNii 図書 - 日本奥州國伊達政宗記并使節紀行”. 国立情報学研究所. 2019年6月20日閲覧。
- ^ “『伊達政宗遣欧使節記』”. 京都外国語大学付属図書館. 2019年6月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “常長像が〝泣いている〟”. 三陸河北新報社. (2010年1月4日). オリジナルの2010年11月28日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b “ロマン海遊21”. 社団法人石巻観光協会. 2013年5月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月20日閲覧。
- ^ a b c d e “メキシコの常長像 立ち往生”. 『三陸河北新報』. (2007年7月25日). オリジナルの2007年8月19日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c d e “常夏のアカプルコ?-姉妹都市の象徴「支倉常長像」は今?”. 支倉常長の足跡を追う旅. 2012年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月20日閲覧。
- ^ “来夏メキシコ友好行事”. 『三陸河北新報』. (2008年1月26日). オリジナルの2008年11月21日時点におけるアーカイブ。
- ^ “日墨交流400周年”. 在メキシコ日本国大使館. 2010年8月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月20日閲覧。
- ^ a b “常長像が海辺に“帰還” 13年ぶり、移設工事完了”. 『河北新報』. (2010年6月23日)[リンク切れ]
- ^ 石田義廣(編)「御宿」(PDF)第600号、御宿市企画財政課、2012年8月、 オリジナルの2016年8月16日時点におけるアーカイブ。
- ^ “交流発展へ「友好の証し」 メキシコに記念碑寄贈 御宿町”. 千葉日報オンライン版. (2012年7月11日) 2016年7月18日閲覧。
- ^ “南スペイン①-コリア・デル・リオにてハポン姓を想い、支倉常長像を憂う-”. 支倉常長の足跡を追う旅 (2008年7月10日). 2012年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月20日閲覧。
- ^ 大沢慶尋 (2013年6月19日). “皇太子殿下、ハポン姓の町コリア・デル・リオをご訪問!”. 学芸員・大沢の研究ノート Second Season. 2016年7月6日閲覧。
- ^ “大郷町のあゆみ”. 大郷町. 2012年4月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月20日閲覧。
- 支倉長経のページへのリンク