御徒町トンネル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/22 04:51 UTC 版)
御徒町トンネル区間は、熊谷組が土木工事を担当した。上野立坑を発進基地として御徒町立坑へと施工された。ただし御徒町立坑自体は秋葉原北部トンネル側に含まれている。 上野立坑は、上野駅前の国道4号中に建設された。通常シールドマシンを発進させる立坑はシールド発進位置そのものに建設するが、地上の建物や道路の使用状況、地下構造物などに制約されてこの位置に建設されることになった。線形の節で説明したように、上野駅構内配線に伴う分岐器挿入の必要性から、この縦坑から約26メートルに渡って大きな断面で建設する必要性があった。この区間は、開削工法、シールドトンネルで建設して後に必要な断面に切り広げる方法、山岳トンネル工法の3種類の方式を検討した。開削工法では国道4号の交通遮断が発生することや、横断歩道橋や地下道の仮受けが必要になること、交差点中に大きな設備を設置できないことなどから見送られ、またシールドトンネルの切り広げは当初検討された方法であったが、区分地上権の設定遅れによりシールドマシンを発進できる時期が不確実であったため、他の工事の影響を受けずに先行施工できる山岳トンネル工法で建設することになった。 山岳トンネル区間の施工に当たっては、地盤沈下の防止方法として凍結工法や薬液注入工法も検討されたが、施工後の処置の問題からパイプルーフ工法が選択された。パイプルーフ工法は、鋼管を圧入機で挿入してトンネルの天井や壁の部分に並べて、トンネル掘削時の防護を行う工法である。鋼管は直径812.8ミリ、厚さ12ミリのものを使用した。パイプルーフ内部では、上半部はしっかりとした地質で湧水も少ないとされたが、下部は湧水が多いと考えられたため、分割して掘削が行われ、パイプルーフを支える支保工を組み立てながら工事した。山岳トンネル区間の断面は、もっとも広い部分で内空幅15.2メートルとなっている。 山岳トンネル区間以外はシールド工法で掘削されたが、この区間は被圧地下水を有する崩壊性の滞水砂層であり、トンネル掘削の最前端である切羽の崩壊防止や地盤沈下の防止対策が必要とされた。坑内の気圧を高めることで地下水の浸透を抑えることはできるが、高い気圧を常時用いると作業環境が悪化し効率も低下する上に、近くの井戸へ圧気が噴き出したり地下室などに酸欠空気が漏れだしたりする問題を起こすことになる。そこで地盤改良のための薬液注入を行うことになった。しかし、ほとんどの区間で私有地の地下を通過するため、地表からの薬液注入は困難であった。またシールドトンネルの本坑を掘削するときに同時に薬液注入を行うと、作業が競合して工程の遅延を来す問題があった。そこで事前に断面の小さなパイロットトンネルを掘削して、そのパイロットトンネル内から薬液注入を行うことになった。 パイロットトンネルは外径3.55メートルあり、推進力960トンの小型の手掘り式シールドマシンが用意された。またトンネル壁面を覆うセグメントはスチール製のものを採用し、7ピース式の幅75センチメートルのセグメントとなった。パイロットトンネルはできるだけ本坑の中心となる場所を通すように施工されたが、掘削始点から50 - 120メートル付近において区分地上権の設定が終わっていない場所があったため、半径200メートルの曲線を4か所設けてこれを回避している。また基本的に水平に掘ったが、始点から190メートル付近の全長30メートル区間に26パーミルの上り勾配を設定した。パイロットトンネルの初期掘進区間25メートルは平均日進約1.9メートル、本掘進445メートルは平均日進約4.5メートルとなった。途中、区分地上権の設定遅れにより工事の中断もあったが、おおむね1年3か月ほどで順調にパイロットトンネルが施工された。 本来の断面でのトンネルでは、第2上野トンネルにおいてトンネル外径12.66メートルであったところを、12.5メートルに縮小している。断面決定に当たっては、最高速度を110 km/hに抑えた前提での建築限界を採用している。建設に使用するシールドマシンは、この頃既に機械化された密閉型機械掘り式が主流となっていたが、第1上野トンネルでは春日通り地下において連続地中壁を破砕する必要があったために手掘り式が採用された。この連続地中壁は、後に都営地下鉄12号線を工事する際に、在来線の高架橋の基礎に影響を与えないようにするために事前に建設されていたもので、パイロットトンネルは壁の下をくぐって通り抜けていたが、本トンネルでは上部が壁に当たるために、地中でこの壁を一部撤去して通過する必要があった。 用意されたシールドマシンは、総重量1,300トン、ジャッキの総推力は12,000トンのオープンタイプ半機械掘り形式のものであった。セグメントの分割数は11、セグメント幅は1.1メートルとされた。地山の条件が悪く、断面積が大きく、また連続地中壁の撤去作業が必要であることなどを考慮して、シールドマシン上部には、地山の中にあらかじめ貫入させることのできるカッティングムーバブルフードを装備した。また切羽の段切りができるように上段と中段にスライドデッキを装備している。途中都営地下鉄12号線交差部では、第1上野トンネルの断面上部を約1.5メートル切り欠く形で都営地下鉄12号線が通過することになるため、あらかじめこの17メートル区間についてはそれに対応した特殊な覆工を行った。また、パイロットトンネル内からの薬液注入に加えて、シールド内の空気圧を高める圧気工法を用いて地山の安定化対策としている。 本坑のトンネルは1987年(昭和62年)7月10日に初期掘進を開始した。しかしこの時点で、掘削始点から約50メートルの地点で区分地上権設定が未了の場所があり、その場所に到達してもなお交渉が妥結していなかったため工事が中断した。結果的に交渉による妥結はできず、東京都収用委員会に対して土地収用の申請を行った。1989年(平成元年)4月17日に裁決され、18か月あまりの工事中断を経て5月2日に再着工した。 都営地下鉄12号線の連続地下壁は春日通りの地下に2本並行して建設されており、上野側の地下壁は1989年(平成元年)11月25日から12月15日にかけて取り壊しを行って通過した。その後、12月25日から1月20日にかけて東京側の地下壁の取り壊しを行った。取り壊し完了後、シールドマシンを再発進させてやや前進した1990年(平成2年)1月22日15時頃に、陥没事故が発生した。 陥没事故が発生したのは、御徒町駅の北口付近の春日通りであり、道路が幅約12メートル、長さ約10メートル、深さ最大5メートルに渡って陥没した。これにより通行中の自動車2台、オートバイ1台、駐車中の自動車1台が陥没した穴に転落した。陥没と同時に噴発が発生し、約300立方メートルにおよぶ土砂が高さ10メートル、半径40メートルにわたって飛び散った。運転者および同乗者、また噴発した土砂に当たった通行中の歩行者など、17名が負傷したほか、駐車中の自動車などが損壊した。他に陥没箇所に埋められていた下水道の管路が破損して、陥没箇所に下水が流入した。 事故発生後、山手線と京浜東北線は陥没事故による高架橋への影響を懸念して一時的に運転が見合わせられ、再開後も最徐行での運転が行われた。消防・警察による救助活動と現場検証が行われたのち、周辺の清掃と土嚢や土砂による埋戻し、下水管の復旧、路面の舗装復旧などが行われ、事故翌日の1月23日の8時30分に春日通りが開通した。 事故後の原因調査では、薬液注入の不正が行われていたことが判明した。地盤の強化や止水の目的で、パイロットトンネル内からボーリングを行って薬液注入を行っていたはずであったが、実際には設計量を大幅に下回る量しか注入されていなかった。ボーリングは、設計上実施することになっていた数に比べると、平均して4 - 5本に1本程度しか実際に行っておらず、それ以外の穴は表面付近のみに穴を開けて蓋をすることでごまかしていた。実際にボーリングを行った穴では、平均すると設計量の約2.3倍の薬液注入を行ったが、総合計すると設計量の半分程度の薬液注入となった。注入穴が少なかったため、均一に分散した注入とならなかったものとされる。現場からJRに報告のために提出されたチャートや写真は偽装が行われており、薬液の納入業者も伝票偽造に協力していた。もともと、元請から下請けへの発注額に無理があり、その採算を合わせるために手抜きが行われたのではないかとされる。組織的な手抜きの指示と隠蔽工作が行われたとして、東京労働基準局上野労働基準監督署に労働安全衛生法違反で書類送検され、企業としての熊谷組と、当時の上野作業所長が罰金30万円の略式命令を受けた。 事故原因の究明と安全対策を行った後、東京都から工事の再開許可が出たのは事故から半年後の7月12日となった。その後薬液の再注入などを行って、同年9月5日にシールドマシンが秋葉原北部トンネルへ到達した。初期掘進の75メートルに対して平均日進0.9メートル、本掘進の421メートルに対して平均日進1.9メートルであった。
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