州知事2期目(1999年–2003年)
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「ポール・パットン」の記事における「州知事2期目(1999年–2003年)」の解説
1999年州知事選挙の後、ルイビル出身の上院議員ダン・シュームは、州営宝くじ、ケンタッキー州教育改革法、人工中絶に反対したことなど自分の投票した歴史を顧みて、支持政党を民主党から共和党に変えると宣言した。この党籍変更をパットンが知ったのが遅すぎて干渉できず、上院の議席数は民主党と共和党で同数になった。その6週間後、パデューカ出身の上院議員ボブ・リーパーも党籍変更を発表した。パットンはパデューカに行ってリーパーと会ったが、民主党に留まるよう説得できなかった。リーパーは民主党上院議長のラリー・サンダースと喧嘩した歴史があったが、その党籍変更はシュームの場合と同様、政治哲学に基づくと主張した。リーパーの党籍変更で、共和党は上院の多数派となり、これはケンタッキー州上院の歴史で初めてのこととなった。デイビッド・ウィリアムズが上院議長に選ばれ実質的な共和党の過半数を維持した。その結果、捩じれた州議会を相手に、パットンはその政策を通すためには難しい任務に直面することになった。 ウィリアムズとパットンの間の溝は、1999年州予算に関する交渉の間に恒久的なものになった。パットンはウィリアムズに、ガソリン税を1ガロン当たり7セント課し、そのうち1セントは最も舗装が進んでいない郡の道路に、すなわち過去の民主党知事によって無視されていた共和党支持の強い郡に回すと提案した。ウィリアムズはパットンに、その増税に対して上院で10票を持っていると伝えたと、パットンは言っていた。しかし、この法案が上院で票決に掛けられる前にガソリン価格が急上昇し、下院が増税を通した後でウィリアムズは約束した票を確保できなかった。パットンの内閣と共和党の重要な上院議員がパットンの予算案を成立させる妥協案に達し、税率の変更は大半が中立的になった。しかしパットンはウィリアムズが判断を誤らせるように仕組んだと考えたので、二人が和解することは無かった。 パットンと議会を対立させたもう一つの問題は、タバコマスター解決合意からの連邦資金をどう遣うかということだった。この解決合意のケンタッキー州に対する分け前は25年間で総額35億ドルだった。タバコはケンタッキー州の大きな換金作物であるので、パットンは解決額の半分は州内農家の作物の多様化に遣うべきと提案した。その金の4分の1は健康管理と反喫煙運動に遣うこととした。残り4分の1は幼児期の保育と教育に回すこととした。パットンの娘ニッキは幼児期教育に携わる者であり、彼女にとって重要なことだった。 2000年11月、ケンタッキー州の選挙民が憲法修正を承認し、奇数年には短い期間の会期、偶数年には長い期間の会期を開催するようになった。2000年と2001年の会期では、パットンの提案したことの大半が廃案になった。1期目にパットンの計画を支える豊富な資金を提供した経済好況が2001年には鈍化し、2002年には州予算が8億ドルの歳入不足になった。2002年、州議会の共和党は経済対策として公営選挙資金提供を止めるよう要求した。共和党はそれを「政治家に対する福祉施策」と呼び、それを廃止することで州は3,000万ドルを節約できると推算した。最終的にこの問題は通常会期中に2年分予算を頓挫させた。2002年4月パットンは予算を承認させるために特別会期を招集したが、議会はそれでも合意できなかった。ケンタッキー州の歴史で初めて会計年度が予算無しに始まることになった。このことでパットンは予算無しに1年間州政府を運営させられることになった。 この予算以外に2002年会期で成立しなかった法案には、少年から死刑を外す法案があった。少年に死刑判決を下した前例は、1989年にアメリカ合衆国最高裁判所で「スタンフォード対ケンタッキー州事件」に出した判決であり、ケビン・スタンフォードは、1981年にジェファーソン郡のガソリンスタンド従業員に対して強姦、ソドミー、殺人の罪で処刑されうると裁定したものだった。犯行のときにスタンフォードはまだ17歳だった。2003年、パットンはスタンフォードの判決を減刑すると発表した。パットンは実際に1997年と1999年に成人の処刑を監督しており、1962年以来の処刑を実行させた知事となった。
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州知事2期目
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「ジェイムズ・ゲアリド」の記事における「州知事2期目」の解説
2期目の最初の2年間は比較的何事もなく過ぎたが、1802年の州議会で、ゲアリドが拒否権を使った巡回裁判所に関する2法案を議会が承認した。その1つは裁判所の数を増やし、訓練を受けていない市民でも判事になれるようにするものだった。ゲアリドは増加する費用と、訓練されていない判事の見識を問題にした。また判事を指名する知事の権限を迂回できる規定にも反対した。2つめの法案は巡回裁判所の弁護士や判事がその奉仕する地区以外に住むことを認めるものだった。議会はゲアリドの2回目の拒否権を覆し、これはケンタッキー州の歴史で知事の拒否権が覆された初めてのこととなり、ゲアリドの8年間の任期では唯一だった。 1802年10月16日、スペインの行政官ドン・フアン・ベンチュラ・モラレスが、ピンクニー条約で保証されていたニューオーリンズにおけるアメリカ合衆国の利用権を取り消すと発表した。アメリカ製品に対してこの港を閉ざすことは、ケンタッキー州とミシシッピ川沿いにある他州および準州と活発な交易を行おうとしていたゲアリドの期待にとって大きな障害となった。ゲアリドはトーマス・ジェファーソン大統領に行動を促し、必要ならばニューオーリンズを奪うために26,000名の民兵を用意すると公表した。ジェファーソンは、1800年にサンイルデフォンソ秘密条約で、正式な譲渡はまだ行われていなかったものの、ルイジアナの支配権がスペインからフランスの執政官ナポレオン・ボナパルトに譲渡されていたことを知らなかった。ジェファーソンが熟考していると、ナポレオンは約1,500万米ドルでルイジアナをアメリカ合衆国に売却すると申し出た。ジェファーソンがフランスに送った特命使節ロバート・リビングストンとジェームズ・モンローがその申し出を受け入れた。この買収でケンタッキー州民の大半を喜ばせ、ゲアリドは「すばらしい成果」と絶賛した。この合意から間もなく、フランスがサンイルデフォンソ条約の義務をまだ履行していないため条約は無効であり、ルイジアナはスペインに属しているとスペイン政府が言い出した。ジェファーソンはスペインの言い分を無視し、ルイジアナを力で奪う準備をした。ゲアリドには1803年12月20日までに4,000名の民兵を用意してニューオーリンズに向かわせるよう指示した。ケンタッキー州議会は直ぐにこの軍務に志願した者に150エーカー (0.6 km2)の土地を補償する法を成立させ、ゲアリドはまもなく徴兵の準備ができたことをジェファーソンに報告した。その後スペインは考えを変えてルイジアナに対する権利主張を取り消し、2か月後には支配権がアメリカ合衆国に渡された。 ゲアリドの2期目最後の数か月は、州土地管理事務所の新登記官指名について議会との論争で明け暮れた。ゲアリドは先ず州務長官ハリー・トゥールミンを指名したが、1803年12月7日に上院がこれを拒否した。ゲアリドは次に元の対抗馬クリストファー・グリーナップを指名したが、グリーナップにはゲアリドの後を継ぐ構想があり、その指名を取り下げるよう依頼してきた。ゲアリドの次の指名者ジョン・コバーンを上院が拒否し、さらに次のトマス・ジョーンズについては重罪の疑いで告発し、将来指名職に就くことを禁じた。 ジョーンズ拒絶の後で、ゲアリドは州の大統領および副大統領選挙人を議会に選ばせる法案に拒否権を使った。この法が州憲法に違背しているという事実にも拘わらず、ゲアリドの拒否権発動で上院との関係をさらに悪化させた。上院がウィリアム・トリッグの指名を拒否した後、州内の新聞は行政と立法の確執を記事にし、上院は独自のお気に入り候補者が居り、他の者は受け入れようとしないと主張した。1804年1月に上院がウィリス・グリーンを拒絶したとき、ゲアリドはそれ以上指名する考えが無いことを宣言した。知事と上院の間で不誠実という非難が交わされ、その後でゲアリドは下院議長のジョン・アデアを指名した。上院は遂にこの選択を確認した。
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