州知事と上院議員
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「ジョン・デイビス (マサチューセッツ州知事)」の記事における「州知事と上院議員」の解説
1833年、デイビスは国民共和党の指導者達からマサチューセッツ州知事選挙に出馬することを勧められた。対抗馬は反メイソン党の候補者である元アメリカ合衆国大統領のジョン・クインシー・アダムズと、民主党の推薦するマーカス・モートンだった。デイビスを支持する政治会派は繊維業界、アボット・ローレンスが指導する国民共和党の1派閥(後にホイッグ党となった)、さらに現職知事のリーヴァイ・リンカーン・ジュニアだった。投票の結果、デイビスは最大票を獲得したが、必要とされる過半数には達しなかった。その結果、州議会が当選者を決めることとなり、アダムズがモートンよりもデイビスを選んで撤退したときに、デイビスが当選した。議会はホイッグ党が支配しており、反メイソンであるアダムズの動きには何の報償も無く、両党が協調的な関係を築くような機会も無かった。デイビスは1834年にも再選されたが、これはジャクソン大統領の第二合衆国銀行に対する攻撃をマサチューセッツ州では概して嫌っていたことに助けられた。この知事としての2期の間、デイビスは特に指導性を発揮することもなく、リンカーンの企業寄りである財政・経済政策を継続した。州は経済的に成長し、交通インフラと工業の拡張を続けた。 1835年で任期が切れるアメリカ合衆国上院議員ナサニエル・シルスビーが再選を求めて出馬しないことを決めた。1834年12月ホイッグ党指導者のダニエル・ウェブスターからデービスに、シルスビーの後任について打診があった。これはその議席に意欲を見せていたアダムズに対抗する意味合いがあった。ウェブスターの考えでは、強い候補者であるデイビスならば、州議会での上院議員選挙でアダムズを破ることができ、空いた州知事の座にはエドワード・エヴァレットを据えることができるチャンスがあるとしていた。ウェブスターは昔からアダムズとライバル関係にあり、アダムズはこの時も反メイソン党で立っていた。州議会の下院と上院はこの2つの選択について手詰まり状態になっていたが、アダムズがジャクソンの外交政策を支持する演説を議会で行ったことが警鐘となり、多くの上院議員がデイビスに乗り換えることになった。手詰まりが解消されたのは1835年2月になってからであり、州知事に再選されていたデイビスが、上院議員に就任するために知事を辞任した。次の選挙でエヴァレットが州知事に当選した。アダムズの息子であるチャールズ・フランシスは、ウェブスターとエヴァレットがその目的を達成するために陰謀を図ったと考えたが、その考えを支持する証拠はない。ウェブスターはウェブスターで、デイビスを支持しておけば、その見返りに、ウェブスターが大統領選挙に出馬した場合に、ホイッグ党のデイビス派からの支持を得られるという読みがあった。 デイビスの上院議員としての任期は、北東部国境紛争で強硬路線を採ったこと以外に特筆すべきことはない。このイギリスとの紛争は、メイン州とイギリス領ニューブランズウィック(現在のカナダ、ニューブランズウィック州)との国境に関するものであり、1794年に結ばれたジェイ条約でも一部しか解決されていなかった。1830年代、両国が論争のあった地域に開発の手を伸ばしたので、ささいな紛争に進み、1839年には戦争に発展する可能性もあった。1820年までメイン州を包含していたマサチューセッツ州は、論争のある土地の幾らかでまだ利権を保持していた。デイビスはこの件で強硬姿勢を採り、アメリカ合衆国はその権利を主張する領土の幾らかなりとも譲歩すべきではないと主張した。 1836年、デイビスは、北部州の反奴隷制度組織から南部の奴隷州に送られた奴隷制度廃止運動の扇動的文書とされるものの洪水に対応する方法を検討するために結成された特務委員会の委員になった。その委員会ではデイビスが唯一北部州選出の議員であり、いかなる法制化にも反対したので、委員会は合意を得られなかった。ジョン・カルフーンがそのような文書を送った者を罰する法を提案したとき、デイビスは公然とそれに反対し、それは奴隷制度に反対しようとする人々に言論統制することなので、事実上違憲だと指摘した。この法案はアメリカ合衆国郵便公社の管理的な行動で事実上空論のものにされた。 デイビスが上院議員である間の1837年に、アメリカ合衆国最高裁判所で審査された「チャールズ川橋対ウォーレン橋事件」で被告の弁護に立った。原告は、ボストンとチャールズタウンとの間に1786年に建設された有料橋、チャールズ川橋の所有者であり、被告は州が1828年に認証を発行した競合する橋の所有者だった。原告は、自分たちの認証で州が川を渡すための排他的な支配権を認めていたのであり、被告に対する認証がそれに抵触するものだと主張した。デイビスと共同弁護人のサイモン・グリーンリーフは、チャールズ川橋に認められた権利は狭く解釈せねばならず、州が排他的権利を認めたのではないと論じた。裁判所の判断は被告有利となり、長官のロジャー・トーニーの採決は被告の言い分を通していた。チャールズ川橋の認証は、デイビスが次に州知事を務めていた1841年に州が取得することになった。 デイビスはその政歴の初期にはダニエル・ウェブスターと良好な関係にあった。ウェブスターは州でも国政でも政党政治に高度の影響力があり、デイビスはウェブスターの支持を求めていた。しかし1830年代後半、デイビスと他のマサチューセッツ州ホイッグ党員(特にアボット・ローレンス)は、ウェブスターが全国的に幅広い支持を得ていないと考えるようになった。1836年ホイッグ党党員集会でウェブスターがあまり支持されず、ヘンリー・クレイやウィリアム・ハリソンには対抗できなかった。このためにウェブスターとデイビスの間に亀裂が生じ、1838年には西部の土地に関する政策で対立したときにその亀裂が深まった。1842年、特に北東部国境の問題を解決したイギリスとのウェブスター=アッシュバートン条約で、ウェブスターが交渉に成功したことを祝う演説で、ローレンスを厳しく批判したときに、両者の間の亀裂は永遠のものになった。
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