反メイソン
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「タデウス・スティーブンス」の記事における「反メイソン」の解説
政治の世界でスティーブンスが最初に関わったのは反メイソン党だった。1826年にアップステート・ニューヨークのフリーメイソンだったウィリアム・モーガンが失踪し、殺された後でこの運動が広まるようになった。モーガンを殺したと見られる者達も仲間のフリーメイソンであり、組織の秘密慣習を暴露する本をモーガンが発行することに同意していなかった。当時のジョン・クインシー・アダムズ大統領に対抗する候補者の筆頭がアンドリュー・ジャクソン将軍であり、ジャクソンも組織の敵対者を冷笑したフリーメイソンだったので、反メイソン運動はジャクソンに対する反対勢力と密接に関わるようになった。ジャクソンが1828年に大統領に当選した後はそのジャクソン流民主主義に対する反対勢力になった。 ジャクソンの支持者は旧民主共和党の出身者であり、結局民主党と呼ばれる存在になった。スティーブンスは仲間の弁護士(かつ後の大統領)ジェームズ・ブキャナンから民主党に加われば、政界での栄達も可能になると言われていたが、その思想が離れているジャクソンを支持できなかった。反メイソン運動がジャクソンに対抗する手段になった。フリーメイソンには身体障碍者が参加できないという個人的な理由があった可能性もある。スティーブンスは熱心に反メイソン運動を支持し、ペンシルベニア州の支持者の大半が離れて行った後まで忠実であり続けた。スティーブンスの伝記作者ハンス・トレフーシーは、スティーブンスがフリーメイソンを嫌悪していたのは、1820年代に病気になり、髪の毛が薄くなったことと(それ以後は鬘を被っていたが、付け方がおかしかった)、「その歓迎できない病気がフリーメイソンに関する謂れのない反感に繋がった可能性がある」と示唆していた。 1829年までに、反メイソン運動は政党になり、ペンシルベニア州中部の田園部では支持を得た。スティーブンスはこの運動ですぐに著名な人物となり、1830年と1831年の2回開催された全国党員集会に出席した。1831年の集会ではアメリカ合衆国最高裁判所陪席判事のジョン・マクレーンを党公認の大統領候補に推薦したが、前アメリカ合衆国司法長官のウィリアム・ワートが指名された。1832年の大統領選挙ではジャクソンが容易に再選され、反メイソン党の大敗(ワートはバーモント州でのみ勝利した)という結果は各地での党の存在そのものを否定した。ただし、ペンシルベニア州ではその後も数年間、反メイソン党がその勢力を維持した。 1833年9月、スティーブンスは反メイソン党員としてペンシルベニア州議会下院議員に1期選出され、議会のある州都ハリスバーグに入るとフリーメイソンを調査する委員会を設立しようとした。そのフリーメイソンに対抗する弁舌では州外でも注目を集め、またすぐに議会操作の熟達者にもなった。1835年、民主党の分裂に乗じてペンシルベニア州議会では反メイソン党が支配するようになった。召喚状を発行する権限を認められ、州知事ジョージ・ウォルフを初めフリーメイソンである指導的な州政治家を査問した。証人達は自己負罪に対する憲法修正第5条の権利を行使し、スティーブンスが彼らの一人を口汚く罵ったときに、それが反発を生み、党の調査を終わらせる結果になった。この騒動でスティーブンス自身は1836年に再選されず、ペンシルベニア州における反メイソンの運動そのものが終わった。それでもスティーブンスはその生涯を通じてフリーメイソンに対する敵であり続けた。
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