反メイソン党の指名
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「1832年アメリカ合衆国大統領選挙」の記事における「反メイソン党の指名」の解説
反メイソン党の指名候補は次の者達であった。 ジョン・マクレーン、オハイオ州出身、合衆国最高裁判所陪席判事 リチャード・ラッシュ、ペンシルベニア州出身、元アメリカ合衆国財務長官 ウィリアム・ワート、メリーランド州出身、元アメリカ合衆国司法長官 反メイソン党として最初の候補者は1828年春の選挙に出馬した。ソロモン・サウスウィックがニューヨーク州知事選の候補者となり、投票総数の12%を得た 。反メイソン党は1830年9月11日から18日、ペンシルベニア州フィラデルフィアで開催された国民集会で全国的に組織化された。10州およびミシガン準州から96人の代表が集まった。当時、「集会」は共通の関心を議論するために人々を集めるものとして革新的な手段であった。当時の他の集会としては、農業あるいは社会に関するものを動機としたものがあった。1年ちょっと後に、反メイソン党はアメリカ合衆国の歴史で初めて国政選挙の候補者を指名する集会を開いた。 反メイソン党の最初の指名集会は1831年9月16日から28日まで、ボルティモアのアセネウム(公共図書館)で開かれた。この時は13州(メリーランド州とデラウェア州以外は全て自由州)から111名の代表が出席した。集会が公式に開催される前の数日間代表達はドアを閉めて会合し、幾つかの最初の決議を行った。大統領候補指名投票が何度か行われ、ワートがマクレーンを破って指名された。 集会は26日に開会され、27日には委員会の報告を聴講した。28日は公式の指名投票で大統領と副大統領の候補者選びに使われた。投票中は代表の名前がそれぞれ呼び出され、その後に特別の投票箱に投票用紙を入れた。ワートが180票を獲得して指名され、ラッシュには1票、棄権2票であった。エイモス・エルメーカーが108票で副大統領候補となり、ジョン・C・スペンサー(集会の議長)が1票、棄権2票であった。 集会の公式議事録は1831年10月1日と8日の「ナイルズ・ウィークリー・レジスター」に掲載された。
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