反ユダヤ主義との結びつき
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:05 UTC 版)
「第1回十字軍」の記事における「反ユダヤ主義との結びつき」の解説
十字軍運動の盛り上がりは、反ユダヤ主義の高まりという側面をもたらすことにもなった。ヨーロッパでは古代以来、反ユダヤ人感情が存在していたが、十字軍運動が起こった時期には頻繁にユダヤ人共同体に対する組織的な暴力行為が行われた。十字軍の熱狂が始まったばかりの1096年の夏、ゴットシャルク、フォルクマーなどといった説教師に率いられた1万人のドイツ人たちは、ライン川周辺のヴォルムスやマインツでユダヤ人の殺害を行った。 この1096年の事件を逃れたドイツのユダヤ人は、宗教に寛容なポーランド王国へ逃げ込んだ。当時のポーランドの君主ヴワディスワフ1世ヘルマンとその子ボレスワフ3世クシヴォウスティは彼らを暖かく迎え入れた。ポーランドにもそれ以前から多くのユダヤ人が各地に住んでいたが、キリスト教徒との間で特筆すべきほど大きな軋轢はなかった。 十字軍運動に参加した人々[誰?]は、ユダヤ人とイスラム教徒はみなキリストの敵であるといい、敵はキリスト教に改宗させるか、剣を取って戦うかしなければならないと訴えた。聴衆[誰?]にとって@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「戦う」というのは、相手を死に至らしめることと同義であった[要出典]。カトリック教徒対異教徒という構図が出来上がると、一部の人々の目に身近な異教徒であるユダヤ人の存在が映った。なぜ異教徒を倒すためにわざわざ遠方に赴かなければならないのか、ここに異教徒がいるではないか、しかもキリストを十字架につけたユダヤ人たちが、というのが彼ら[誰?]の考えであった。 ユダヤ人を求めてドイツ人たちはライン川をさかのぼり、大きなユダヤ人共同体のあったケルンを目指した。そこでユダヤ人たちにキリスト教に改宗するか、ユダヤ教徒のまま死ぬかの二者択一を迫った。逃げ遅れたユダヤ人の多くは死んだ。群集がユダヤ人共同体に近づくと、恐怖のあまり自ら死を選ぶものもあった。彼らはユダヤ人をキリスト教徒に改宗させる目的の他に、ユダヤ人の持っている金銭を狙っていた。したがって多額の金銭をキリスト教徒に支払うことで身の安全を確保できたユダヤ人もいた。 1096年にポーランドが亡命ユダヤ人を迎え入れたことは西ヨーロッパの各地のユダヤ人共同体に伝わり、西欧から数多くのユダヤ人がポーランドへと移住した。宗教的寛容を是としたポーランドとその為政者たちは十字軍運動の熱狂には無関心であった。 十字軍運動とは直接の関係はないが、その後、ポーランドは1264年にカリシュ市で「カリシュの法令」と呼ばれる法律を発布、ユダヤ人の権利と安全を制度的に保障した。これらの歴史的経緯によりポーランドは中世[いつ?]から第二次世界大戦の時代まで、ヨーロッパで最大のユダヤ人人口を抱える国(地域)であった。
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