州知事に対する永遠の候補者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 23:18 UTC 版)
「マーカス・モートン」の記事における「州知事に対する永遠の候補者」の解説
1820年代と1830年代の政治的状況は極めて流動的だった。民主党が非常に派閥化し、3つの主要なグループが党の支配権を巡って互いに争っていた。モートンの支持基盤は主に農夫、工業や造船業の労働者で構成されており、また近年移って来たばかりの移民もいた。セオドア・ライマンが支配した2つ目の派閥は商人や裕福な海岸関連の人々で構成され、ホイッグ党の主張に反対していた。3番目の派閥は初期に党をうまく支配していたものであり、デイビッド・ヘンショーを頭に、橋の議論の政治的な側面でジョン・クインシー・アダムズの派から分離して来たものだった。ヘンショーは党を纏めあげる主要な推進者であり、一方モートンは永遠の州知事候補者となり、1828年から1843年まで毎回立候補した。党は、モートンの友人であるジョン・カルフーンの組織化力で支持されていた。カルフーンはジョン・クインシー・アダムズとアンドリュー・ジャクソンの下でアメリカ合衆国副大統領を務めていた。モートンは概して選挙運動を行わず、判事としての中立性という立場を維持することに注力していた。 モートンはリンカーンが州知事だった期間(1825年-1834年)の大半で、選挙ではそこそこの結果を残せなかった。これは主に国民共和党に対する反対が砕け散っており、自由橋党や反メイソン党でそれが実証されていたからだった。反メイソン党は特に1832年の選挙で民主党票のかなりの数を吸い上げていた。国民共和党と民主党の双方が反メイソン党を解党に追い込もうとした試みもあったが、どちらも成功しなかった。モートンはやや反メイソンに傾いていたが、ヘンショーはフリーメイソンであり、モートンは反メイソン党が選挙でそこそこの結果を残したにも拘わらず、その潜在的な力を認識していなかった。その結果、民主党は国民共和党の候補者を選挙で破るだけの力に欠けていた。民主党は1832年と1833年も破れた。労働者の党が、大政党に労働問題に関心がないことを攻撃して支持を引き出していた。モートンは繰り返し落選したことでかなり失望してきており、1832年には知事選から降りることも検討した。ヘンショーがモートンを説得して戦い続けさせた。1831年、モートンは友人のカルフーンが無効化を支持したことで袂を分かった。それはカルフーンが奴隷制度を支持しているからだと考えた。このこともマサチューセッツ民主党の崩壊に繋がった。ヘンショーはカルフーンと南部民主党の側に就いた。 1839年以前にモートンが善戦したのは1833年の選挙であり、リンカーンが再選を辞退したときだった。ウースターの下院議員ジョン・デイビス(国民共和党として出馬)やジョン・クインシー・アダムズ(反メイソン党として出馬)を主要な対抗馬とし、労働者の党の候補者を含めて4人の争いとなったが、どの候補者も必要な過半数を得られなかった。州議会は、アダムズがデイビスのために退き下がった後で、得票数が多かったデイビスを選んだ。 1830年代後半までに奴隷制度廃止運動家が州内でも政治的な力を持つに至った。ホイッグ党もモートンを含めた民主党も他の政治的な目標を追求する中でこの問題を避けていたが、奴隷制度廃止運動家は選挙に出る候補者からこの問題に関する公式の声明を常に求めるようになった。モートンは個人的に奴隷制度に反対する者として知られており、奴隷制度に関する質問には回答が揺れ動いていたにも拘わらず、1837年と1838年の選挙では得票を伸ばした。これらの選挙での対抗馬はエドワード・エヴァレットであり、彼も奴隷制度に反対したが、1826年に奴隷所有者の権利に同調する発言をしたことがあり、それがエヴァレットを攻撃する材料に使われていた。民主党内のモートンの派閥も歴史家のジョージ・バンクロフトの組織力で力を得ており、モートンが推進する動きが党の低いレベルの指導者が選ばれる方法を変えることになった。デイビッド・ヘンショーは1837年にボストン港の税徴収官という地位に就くために政治的な要職からは引退したので、この貴重な庇護者と言う地位を巡って党内闘争を始めさせた。モートンはその後継者の候補の1人だったが、最終的に辞退し、ジョージ・バンクロフトを推薦した。バンクロフトは州の西部の出身であり、民主党に労働者からの支持を惹きつけることになった。
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