州知事としての経歴
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「テリー・サンフォード」の記事における「州知事としての経歴」の解説
1946年から1948年までノースカロライナ大学チャペルヒル校政治研究所の支配人補であり、その後、ファイエットビルで法律実務を行った。ノースカロライナ州上院では1期(1953年-1955年)のみ議員となり、2期目は出馬しなかった。1960年にノースカロライナ州知事選挙に出馬し、民主党の予備選挙ではI・ビバリー・レイク・シニア、マルコム・ビューイ・シーウェル、ジョン・D・ラーキンスを破り、本選ではロバート・ギャビンを破って当選した。ノースカロライナ州では当時知事は1期を越えて選出されなかったので、1961年1月から1965年1月まで1期4年間のみを務めた。 サンフォードは人間が良い教育を受ければ何でも成し遂げられるという信念に動かされ:157, 194, 247, 257–258、ノースカロライナ州の公立学校に向けた予算を2倍近くにした。ノースカロライナ大学システムの統合を始めて、その支払い能力と強さを確保し、ノースカロライナ・コミュニティカレッジ・システムの創設を監督した。ノースカロライナ州知事の学校というアイディアを思いつき、州内の才能ある高校生に6週間の滞在型夏季プログラムについて公的資金を手当てした。ノースカロライナ芸術学校(現在のノースカロライナ大学芸術学校)を設立し、「音楽、演劇、舞踊およびそれに関連する分野で、高校とカレッジ双方のレベルの指導を」出身州で行うべく才能ある学生を留めて置くこととした。人種差別と戦い、ノースカロライナ州の人種統合した公立学校は当時政治的に不人気であり、危険である可能性もあったが、そこに自分の息子を送り込むことまでやった。ジョージ・エッサーの指導下にノースカロライナ州基金を創設し、貧困と戦い、州全体で人種間の平等を促進するために動いた。 これら教育プログラムに資金手当てをするために増税を行い議論を呼んだ。その中でも食品に対する増税には反対の声が上がり、サンフォードの最も忠実な支持者の数人を含め多くの者達から退行だと非難された。この食品に対する税には「テリーの税」という綽名がつき、サンフォードが推進した他の税がその人気を失くし、政治的な対向者からは強く批判された。 州知事としてのサンフォードは、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディと密接な政治的同盟者であり、それはケネディがカトリック教徒であるので疑っていたノースカロライナ州の民主党員との連携を妨げることになった。ケネディ大統領の個人的秘書だったエブリン・リンカーンは、1964年の大統領選挙のときにケネディが生きて居れば、サンフォードがその副大統領候補に選んでいたはずだったと言っていた。リンカーンが著した1968年の著書『ケネディとジョンソン』では、ケネディ大統領が、リンドン・B・ジョンソンは副大統領職を更迭されることになると彼女に告げたと報告している。リンカーンはケネディ暗殺の3日前、1963年11月19日にケネディと交わした会話の内容を、次のように伝えている。 ケネディ氏は私のオフィスの揺り椅子に腰掛け、頭をその背にもたせ掛け、左足を右の膝の上に組んでいた。彼は話しながら椅子を少し揺すっていた。緩りと沈痛な声で彼は私に「私が64年に再選されれば、政府のサービスを名誉あるものにする方向に多くの時間を割くことになるのは、貴女も分かっているだろう。私は政府の行政府と立法府を作り替え、別の分野に踏み込んで大きな進歩を成せるようにする。 ... 議会で年功序列など古くなった規則や規制の幾つかを変更すべく訴える。それをなすために、私は64年の選挙で私がやれると信じる男を副大統領候補にする必要があるだろう。 ... 私はこの会話に魅せられており、私の日記に一語一語書き記しておく。いま私は問われている。 ... 「副大統領候補として貴方が選ぶのは誰か? 」彼は真っ直ぐ前を向き、躊躇うことなく答えた。「今この時、私はノースカロライナ州のテリー・サンフォード州知事を考えている。リンドンではない」 更にサンフォードはホワイトハウスとのコネを使い、州内で経済的な上昇を加速させていたリサーチ・トライアングル・パークを拡大し、そこにIBMやアメリカ合衆国環境保護庁を誘致することに成功した。 サンフォードは極刑に頑強に反対した者でもあった。「死刑に反対する多くの声明が良く知られていたので、ノースカロライナ州の処刑順を待つ囚人達は、その慈悲を請う訴えでもそれら声明にことさら言及していた。」 サンフォードはその知事の任期が終わると、法律会社を開設した。1968年の大統領選挙では、3月31日にジョンソンが撤退する直前にジョンソンの選挙対策マネジャーを引き受けており、その後民主党がヒューバート・ハンフリーを指名すると、共和党のリチャード・ニクソンに対する選挙運動のマネジャーとなった。ジョンソンは、ハンフリーがその副大統領候補にサンフォードを選ぶことを望んだ。ある時点でハンフリーの選挙対策本部は、サンフォードが副大統領候補になりたいのかを尋ねた。サンフォードがそれを辞退し、ハンフリーは最終的にメイン州出身のエドマンド・マスキーを指名した。サンフォードはこの期間も民間の法律関連や事業関連から役職の提案を受けたが、その政治家としての前途をオープンにしたままである位置づけに興味を惹かれていた:367–385。
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州知事としての経歴
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「キム・レイノルズ」の記事における「州知事としての経歴」の解説
2017年5月24日、現職のテリー・ブランスタッドが駐中華人民共和国大使就任に伴い辞任したことを受け、副知事のレイノルズがアイオワ州知事に女性として初めて就任した。 レイノルズが州知事に就任したことにより、副知事のポストが空位となり、後任の副知事選出手続きには州最高裁(英語版)が異議を申し立てた。州連邦検事は「レイノルズのように副知事から知事に昇格した者には、後任の副知事を指名する権限は無い。」と述べた。2017年5月25日、レイノルズは州選弁護人のアダム・グレッグ(英語版)が後任の副知事に就任すると発表した。訴訟を回避するため、レイノルズはグレッグが「公的な副知事職を持たず」、彼女の職務遂行が不可能になったとしても知事に昇格することはないと表明した。 2018年にアメリカ合衆国最高裁判所が同性婚を認めたオーバーグフェル対ホッジス裁判を受け、レイノルズは同性婚が既に「決着のついた」問題であるとし、同性婚を禁止しようとする州共和党の方針に従うことを拒否した。 また、トランプ大統領の貿易・関税政策が農家を疲弊させているとし、しかし一方で彼らも最終的には利益を得ると考えている。 2018年5月には、州のエネルギー効率政策を改正する法案と、胎児心拍法(胎児の心拍が計測できる時点以降の人工中絶を禁止する法律)に署名した。これは、「全米で最も厳しい人工中絶禁止法」と言われている。しかし、胎児心拍法は2019年1月に州裁判所によって違憲判決が出された。 2018年に州知事選挙に勝利し、改めて正式な任期が2019年1月18日から開始した。同年3月27日には公立大学の「学問及び思想の自由」を擁護する法案に署名した。 また、州の最高裁判所には保守的な裁判官を任命した。 2020年3月26日、レイノルズは新型コロナウイルス感染症の流行を受け、不要不急の外科手術・歯科治療を停止することを宣言した。さらに、「4月16日以降に延期されるべき不要不急の外科手術には、人工中絶も含まれる。」と主張した。また、4月3日にはアンソニー・ファウチ医師の主張は事実に基づいていないとし、外出禁止令の履行を拒否した。 2020年6月30日には、レイノルズを乗せた車がブラック・ライヴズ・マター主張者の車と衝突した。
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