州知事として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:42 UTC 版)
「ジョン・Y・ブラウン・ジュニア」の記事における「州知事として」の解説
ブラウンは、すでに実績ある政治指導者から特に恩恵を受けずに当選したので、多くの成功した実業家を州の要職に指名した。選挙戦中に女性1人とアフリカ系アメリカ人1人を閣僚に指名すると公約していたので、ウィリアム・E・マカナルティ・ジュニアとジャクリーン・スワイガートを指名した。マカナルティは家族と過ごす十分な時間が保てなくなると言って、1か月後に司法長官の職を辞した。ブラウンはマカナルティを元のジェファーソン郡地区判事に指名し直し、もう一人のアフリカ系アメリカ人ジョージ・W・ウィルソンを後任に指名した。また、1980年にはビオラ・デイビス・ブラウンを公衆健康看護局の執行役員に指名し、国内でも州の公衆健康看護局を指導する最初のアフリカ系アメリカ人看護師となった。最も議論を呼んだ人事は運輸省長官に指名したフランク・メッツだった。メッツはケンタッキー州の政治的伝統を破り、発注は競争入札に基づいて行われ、政治的な恩恵よりも実績を重視すると宣言した。メッツは省内の人員を削減したものの、舗装を施した道路の延長は2倍にした。 ブラウンが州知事を務めた時期は経済的に難しい時代だった。その任期中に州内失業率は5.6%から11.7%に上昇した。ブラウンは選挙での公約である増税をしないことに固執した。州の歳入が計画値よりも少なくなると、歳出を22%カットし、州職員の数を37,241 人から 30,783 人に減らしたが、その大半は転籍と自然減によってだった。これと同時に成果主義政策で残っている職員の給与を平均34%増加させた。行政職スタッフの数を97人から30人にまで減らし、8機あった州政府所有飛行機の7機を売却した。 ブラウンは州の政策を研究するために保険の専門家集団を指名し、彼らを入札に関わらせて最終的に200万ドルを節約した。また州の資金を貯蓄する銀行からも競争入札を要求しこれによって生まれた余剰利子によって一般会計に5,000万ドルの歳入を加えた。日本との対話と接触を開始し、将来の経済的関係のために足がかりを設けた。その他の知事としての業績としては政府契約に競争入札を導入し、トラックに重量と距離に拠る税を成立させたことがあった。 ブラウンはそれまでの知事と比べて州議会との交渉が少なかった。例えば、議会指導者の選択に影響力を及ぼそうとしなかった。以前の知事の大半は両院の院内総務などを自ら選んでいた。2期あった会期の1つでは、その間に休暇すら取った。その結果、議会に対して行った提案の多くが法制化されなかった。成立しなかった提案の中には、複数郡銀行法、一律税率所得税、教師のための専門家交渉、州知事が連続して任期を務められるようにする憲法修正があった。ブラウンが州外に出た時は、副知事のマーサ・レイン・コリンズが知事代行を務めたが、ブラウンの任期中に代行を務めた期間が500日以上になった。ケンタッキー州の歴史家ローウェル・H・ハリソンが発言しているように、ブラウンの干渉しないやり方は、ケンタッキー州の歴史の中でも初めて議会が知事に対して比較的強い権限を持つこととなり、この傾向はその後継者の任期にも引き継がれた。 ブラウンはその任期中にアパラチア地域委員会の共同議長を務め、南部州エネルギー委員会の議長も務めた。1981年5月、ケンタッキー大学から法学名誉博士号を贈られ、1982年5月、「年間の父」賞を贈られた。1983年9月、全国民主党が年間の民主党員に指名し、後に党の終身名誉財務官に指名された。 1982年、ブラウンは高血圧で短期間入院し、その任期末近くには、冠動脈大動脈バイパス移植術を受けた。この手術からの快復期に珍しい肺疾患を患い、数週間もの入院が続き、その一部は昏睡状態だった。一時期は脈が止まり、肺の1つが部分的に壊れた。ブラウンの事務所はその容態の重篤さを隠そうとし、新聞から攻撃された。ブラウンは快復すると喫煙をあきらめ、ジョギングを行うようになった。 ブラウンの伝記作者メアリー・K・ボンスティール・タチョーはその著作『ケンタッキー州の知事達』の中で、ブラウンの政権について「スキャンダルは何も無かった。彼もその関係者も汚職で告発されることも無かった。」と言っている。しかし、ブラウン個人にはスキャンダルがあり、その親しい仲間の幾人かにもあった。1981年、マイアミのオール・アメリカン銀行から個人預金130万ドルを引き出した件で捜査された。この銀行は法に要求されるアメリカ合衆国内国歳入庁への報告を怠った。連邦捜査局が1983年にその事実を嗅ぎ付けた時、ブラウンはラスベガスで「悪い一晩の賭け」で擦った借金を返済するために現金を降ろしたと釈明した。ブラウンはFBI捜査の中心ではなく、後にその申し立てを撤回した。 ブラウンの仲間数人も、「ザ・カンパニー」と呼ばれるレキシントンのコカインと銃の密輸団の事件に巻き込まれた。ブラウンがケンタッキー大学に入学して以来の仲間であるジェイムズ・P・ランバートは60件以上の薬物に関わる容疑で告訴された。電話の通話記録からは、知事公邸からこの捜査に関連して薬物容疑で告発された数人に電話が掛けられたことが分かった。
※この「州知事として」の解説は、「ジョン・Y・ブラウン・ジュニア」の解説の一部です。
「州知事として」を含む「ジョン・Y・ブラウン・ジュニア」の記事については、「ジョン・Y・ブラウン・ジュニア」の概要を参照ください。
- 州知事としてのページへのリンク