元山周辺の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)
栗林の作戦は、硫黄島最狭部にアメリカ軍を圧迫して摺鉢山と元山地区とから挟撃しようというものであったが、摺鉢山が予想以上に早く陥落し計画は水泡に帰していた。摺鉢山を攻略したアメリカ軍は3個師団全力で主陣地への進撃を開始し、海兵3個師団は、西を第5海兵師団、中央を第3海兵師団、東を第4海兵師団が進撃することとなったが、まずは第3海兵師団が進撃していた飛行場のある元山地区で激戦が繰り広げられた。飛行場一帯は歩兵第145連隊第3大隊(大隊長安荘憲瓏少佐)を主力として、戦車第26連隊第3中隊(中隊長西村功大尉)に独立速射砲第12大隊(大隊長早内政雄大尉)と海軍の高射砲や高射機関砲隊が守っていた。歩兵第145連隊は鹿児島県で編成された精鋭部隊で、硫黄島の他の部隊の多くが寄せ集めの混成部隊であったのに対して、同じ戦友同士で苦楽を共にしてきており、チームワーク抜群で団結力も強かった。訓練も行き届いており、同連隊第1大隊(大隊長原光明少佐)はアメリカ軍を上陸地点の真正面で迎え撃ち、海兵隊員が押し寄せると、さっと引いて、背後に回って攻撃するなど、老練且つ機動的な戦術で海兵隊の前進をよく阻んだ。 アメリカ軍はM4 シャーマン中戦車を元山飛行場滑走路付近に前進させてきたが、ここには早内政雄大尉率いる独立速射砲第12大隊第の一式機動四十七粍砲がトーチカ内で待ち構えていた。アメリカ軍は元山地区に1時間で3,800発の艦砲射撃を加えたが、その砲撃をトーチカ内で凌いだ独立速射砲第12大隊は、アメリカ軍のM4 シャーマン中戦車が前進してくると、側面を視認できる距離まで接近させたところで一斉に砲撃を開始した。早内も自ら速射砲を操作して数輌を撃破するなど、次々とM4 シャーマン中戦車を撃破し、アメリカ軍の戦車中隊は大損害を被って撃退された。必死のアメリカ軍は海兵隊の師団砲兵を海岸付近に展開させると、近距離から直接照準で日本軍トーチカを狙い撃つといった冒険的な戦闘を展開し、撃ち込んだ砲弾は1平方ヤード毎に3発という濃密な弾幕を形成した。そのため、独立速射砲第12大隊の速射砲も次々と撃破されて、最後に全ての速射砲を失った早内は最後の用意として準備していた爆雷を抱くと敵戦車に体当たり攻撃を敢行して戦死した。また大隊の生存者も早内の後に続き、手榴弾を手にして敵戦車に突進して戦死した。 このあとも激戦は続き、2月24日にはアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官の長男、アレクサンダー・ヴァンデグリフトJr.中佐も重傷を負う。2月25日にはアメリカ軍は元山飛行場滑走路に達し、一気に飛行場周辺を攻略するため、海兵隊員をM4 シャーマン中戦車にタンクデサントしての強攻を計画していたが、あまりにも危険なため、計画を断念して26輌のM4 シャーマン中戦車だけを滑走路に進撃させることとした。海兵隊員の支援のないM4 シャーマン中戦車に対して、歩兵第145連隊第3大隊長の安荘はあらゆる砲火を集中させるよう命令、陸軍の野砲や速射砲以外にも海軍の高射機関砲など集中砲撃を浴びせられて、たちまち3輌が撃破炎上した。それでも損害に構わず前進を続けるM4 シャーマン中戦車に対して、第3大隊の兵士が爆雷を抱いて戦車に肉薄攻撃をかけた。肉薄攻撃で擱座した味方のM4 シャーマン中戦車を救出しようと、他の戦車が肉弾攻撃してくる日本兵に砲撃を浴びせるが、日本兵は他の戦車にも肉薄攻撃を行い、この日だけで9輌のM4 シャーマン中戦車は撃破された。しかし、第3大隊の戦力消耗も激しく、アメリカ軍は翌26日には元山飛行場とその周辺に戦車を伴った約1個大隊の海兵隊で進攻してきたが、安荘率いる陸海軍混成部隊は、さらに3輌のM4 シャーマン中戦車を撃破するなど優先敢闘したものの、26日の夕方までには元山飛行場の殆どはアメリカ軍に占領され、守備隊主力の歩兵第145連隊第3大隊の生存者は大隊長の安荘以下たった50人となっていた。2月27日に栗林は安荘に撤退を命じるとともに、その抜群の功績に対して感状を授与し、その活躍は昭和天皇の上聞に達している。アメリカ軍は元山周辺の戦闘で33輌のM4 シャーマン中戦車を喪失したとされる。 上陸以降のアメリカ軍の前進速度は10m/hに過ぎなかったが。圧倒的火力で日本軍陣地を「馬乗り攻撃」で撃破して前進していくアメリカ軍を見て、市丸少将は「さながら害虫駆除のごとし」と と報告している。戦略拠点摺鉢山を失った栗林にとって取りうる戦術は限られており、アメリカ軍をできうる限り足止めするという作戦方針に修正していた。2月27日には豊田副武連合艦隊司令長官から、硫黄島に対して「翻って、我が決戦兵力の錬成並に敵次期侵攻予想地点の防御は、概ね4月末を以て完成の域に達する見込みにして、今後確信を以て作戦し得ると否とは、一に懸りて硫黄島持久反撃作戦の如何に存す」とする激励電が送られてきた。これは軍中央が硫黄島の確保を諦めて、4月末まで持ち堪えてくれと要望してきたに等しいと判断した栗林は、守備隊の残存兵力や残存陣地数、アメリカ軍の戦力などを総合的に組み合わせて試算し、元島飛行場周辺の平坦地では、最終的に日速300mまで加速したアメリカ軍の進撃速度を、北部主陣地では1/7まで低下させ、豊田の要望通りあと2ヶ月は持久可能と判断した。しかし栗林は、アメリカ軍が今までとは作戦方針を変えて、損害を顧みずにまずは中央突破を行って、各陣地を孤立化させてその後に包囲殲滅する作戦をとってくれば、アメリカ軍の進撃速度は先の想定の1.6倍になり、1ヶ月しか持ち堪えられないとする最悪の想定も行っていたが、結局アメリカ軍がとった作戦は後者の方となり、栗林の最悪の想定が的中することとなった。 東京中央放送局(現在のNHK)は1943年から「前線に送る夕」というラジオ番組を前線の将兵に向けて放送していたが、2月28日には硫黄島の将兵向けの特別番組「硫黄島勇士に送る夕」という特別番組を硫黄島に向けて放送した。番組の内容は東京都長官西尾寿造大将の冒頭あいさつから始まり、宮川静枝の朗詠、木村友衛の浪花節、井上園子や日本交響楽団の演奏に加えて、海軍司令官市丸の三女美恵子による父に向けての作文の朗読もあった。時間は午後7時45分からの15分間であったが、ラジオが聞ける環境にあった将兵は栗林以下こぞって聴取したので、その日の夜間斬りこみ攻撃は殆ど実施されなかったという。夜も更けて日も改まった午前2時15分、攻撃を再開した日本軍の砲弾が第5海兵師団の弾薬集積所に命中、たちまち弾薬が誘爆して大火災が生じた。誘爆した弾薬のなかには黄燐弾も含まれていたので、日本軍の毒ガス攻撃と誤認し警報も出されるという混乱ぶりであった。誘爆は午前7時まで続き、師団は25%の弾薬を失った。「硫黄島勇士に送る夕」はアメリカ軍も傍受しており、タイミングのよい放送に第5水陸両用軍団長のシュミットは「硫黄島勇士に送る夕」が弾薬集積所爆破の指令放送ではなかったのかと疑っていたという。 2月28日時点で硫黄島の半分はアメリカ軍の手に落ち、同日にはアメリカ海軍建設大隊により、確保された千島飛行場が修復されて観測機の使用が可能となった。海岸には軍用郵便局が開局して郵便業務を開始し、また野戦病院も構築されて200床のベッドが用意された。摺鉢山沖合には飛行艇基地も設けられて、洋上哨戒活動を開始するなど、これまでの殺伐とした戦場の光景からかなりの変化が感じられるようになっていた。そのため、アメリカ軍は栗林の緻密な想定とは全く異なって戦況に楽観的となっており、第56任務部隊司令官スミスも「あと、2−3日でこの島をとるつもりだ、激戦が行われているが、日本軍は水に不自由しており、負傷者の治療にもこと欠いている。いま、断末魔の状況さ」と従軍記者の取材に軽口をたたいていた。また、海兵隊員の多くがもはや戦闘は峠を越しており「もっと酷い戦闘が待っている」とは考えもしていなかったが、これが栗林の指揮能力や日本兵生存者の士気の過小評価であったことを、のちにスミスと多くの海兵隊員が思い知らされることになった。
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