ターズィエの様子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/08 08:18 UTC 版)
ヨーロッパ人が最初に目撃したのは1811年であった。舞台に必要なものは、大型のターブート(棺)や、「前に置かれる燈明台」、フサインの武器と旗である。詩人が導入部を語り、そのあと少年の合唱を背景に、フトバ(説教)のような哀歌を詠誦する。別の一組の男性合唱団が喪に服する女性の服装をして、女性や母親などの悲しみを表現する。観衆はカルバラーの土を固め麝香に浸したものを与えられ、「目もあてられないほどに悲しんで、それに額をつける」。ターズィエの費用を寄付することは功徳のある行為で、献金者はそれにより「天国に自らの宮殿を建てる」。 劇の形式は確定していないが、おおむね、上演前に長い語りがあり、一連の40から50の場面が続けて上演される。たとえその出来事が観客に知られていなくても、ドラマに緊迫感はない。というのは、上演前にそれらの出来事について、ガブリエルから預言者へ予告されたり、いくつもの夢の形であらかじめ見せられたりするからである。しかし、演技自体、特にフサインの渇きの苦しみの描写、戦闘、死にまつわるエピソードなどは極めて迫真的である。フサインの受難のできごとを象徴するために、『旧約聖書』の人物も導入される。国民の反アラブ感情も時折表面化するが、彼らの敵はなんといっても、フサイン殺害を命じたカリフ・ヤズィードと、致命傷を与えたと信じられているシャンマル、ないしはシムルである。 観客の興奮は刻一刻と高まる。しばしば、フサインの殺害者を演じる役者にリンチを加えかねないほどである。最終場面では、通常、殉教者の首級をカリフの宮殿に運ぶ行列が演じられる。道中で葬列が、キリスト教の修道院で足をとめる。と、修道院長はその首級をみて、ただちに自らの信仰を断つことを宣言し、イスラームに改宗する。首級がヤズィードの宮殿に到着したときに、偶然そこに居合わせて目撃した数人のキリスト教徒の外交官にも同じ変化が起きる。キリスト教徒のみならず、ユダヤ教徒、異教徒も、同様の影響を受ける。ライオンさえ、フサインの首級を前にして、頭を低く下げるのである。 これらのターズィエは本質的には教理をドラマ化したものである。シーア派の英雄たちの神学的発言が、劇中で絶えず引用される。しかしそれ以上に重要なことは、劇中でフサインの殉教を通して救済されるとの観念が、きわめて明確に、また強力に展開されることである。劇の一つのまさに冒頭で、ガブリエルがムハンマドに告げる(ここではハサンが弟と運命をともにしている)。「そなたの二人の孫が、卑劣な敵の手にかかり打ち果てるであろう。二人が神の掟を、何らかの形で破ったからではない。いや、宇宙の不死鳥よ!そなたの身内には誰一人、罪の穢れにそまった者はいない。むしろ彼らは、殉教者たちの顔が永遠に神に選ばれた者の輝きを表すように、イスラームを受け入れた者を救済するために犠牲になったのだ。そなたがもしや、そのような邪悪な者の罪の許しを望むのであれば、そなたの二つの薔薇が、時満たずして摘み取られることに、逆らってはいけない。」 政府軍に包囲されたフサインは、野営地で延々と会談をしたあと、ジンの援助を拒否する。と、ウマイヤ家の武将が預言者の孫を殺す有志を求める。シムルが応じて述べる。「我こそは流血の誉れ高き剣の所持者。ただこのために、母の胎を出てし者。審判の日の葛藤も心を煩わせはしない。ヤズィード(ウマイヤ朝カリフ)を崇め奉る者。神への恐れは皆無。主の大いなる御座を揺るがせ、震えさせることも可能だ。我こそアリーの子フサインの首級を上げ得る者。イスラームとは無縁。何ら懲罰を恐れることなく、軍靴で神の知恵の箱フサインの胸を、踏みにじってまいろう。 フサイン:「矢の傷、剣の傷の何と疼くことか。しかし、ああ神よ、裁きの日に、我がために我が民に慈悲を示し給え。死の時がきた。しかし、アクバル(彼の息子で、すでに殺害)がここにいない。神よ、預言者である祖父が今ここにいて、会うことができれば!」 預言者:「(登場しながら)愛しいフサインよ、迎えにきた、神の預言者、祖父が。そなたの儚い現し身の姿を見るために。愛し子よ、汝は我が民の手で、ついに殉教を遂げた!これこそ彼らからの報奨として、我が望むところ。ああ、神はありがたきかな!目をひらけ、愛し子よ。乱れた髪で祖父に目を注げ。もし心に何か望みがあれば、はっきりと告げよ。」 フサイン:「愛しいお祖父さん、もう生きるのは真っ平だ!むしろ次の世にいき、愛する人たちを訪ねたい。教友や、友人に会いたい。特に、愛する息子、アリー・アクバルに。」 預言者:「嘆くな、息子アリー・アクバルの殺害を。その死は全人類の集合の日に、我が罪深き人々のためになるであろうから。」 フサイン「アリー・アクバルの殉教が、御身の民への貢献であり、我が苦難が、御身のとなりしの業を可能にし、我が身のこのような災いが、御身の休息に寄与するのであるからには、御身の民の救済のために魂を捧げます、一度、二度ならず、千度でも。」 預言者:「嘆くな、愛しい孫よ。そなたもまた同じく、裁きの日に神への仲介者。今は渇きに喘いでいるが、明日はそなたはアル・カウサル(天国)の水の分配者。」 このようにして、カルバラーの事件の解釈に宇宙的意義が賦与される。受難劇として、キリストの死を強く想起させる。 最後の場面は我々を復活の日へと導く。預言者たちと罪人たちが墓場から立ち上がる。 書記:「(罪人たちに)皆のもの、どうだ、動転して口もきけぬな。口を閉ざした者ども。足枷や鎖、軛で身動きがとれぬ者ども。何故に煩悩と情欲の奴隷になった?何故に目方の足りぬ物を人々に売りつけた?さあ、番人、者どもを連れ去り、不滅の火の上で懲らしめるのだ。 罪人たち:「神の御使いよ!ああ、どうか好意をもって私たちを心に留めてください。私たちは衰弱していきます。走って救いにきてください。拷問を受け、悲しみだけを道連れに、この上ない苦痛を味わっています。私たちは罪人ですが、でもあなたの民であることも確かではないでしょうか?」 預言者:「大いなる神よ、慈悲を示し給え、我が民の罪に。ああ、主よ、苦悩と憂慮に悶える我に慈悲を示し給え。ああ神よ、情けを持って慈愛の松明に火をともし給え。御心によって我が民が、彼方の火に焼かれることを防ぎ給え。」 ガブリエル:「不従順な輩から身を引くのだ、主の預言者よ。この恥知らずたちを見捨て、これ以上、彼らについて語ってはならない。彼らにふさわしいのは、ただ、永遠の滅び。預言者よ、自らの持ち場に戻れ。今こそ神の正義が明らかにされるべき時であるから。」 預言者:「ああ、ガブリエル、どのようにして口を閉ざしていることに耐え得よう?どのようにして我に従う愛する者たちの、このような状態を静観し得よう?我が衣を引き裂こうとも、恥ではあるまい。ああガブリエル、採るべき最善の道を我に示したまえ。」 ガブリエル:「我が言葉に耳を傾けよ、理解力を授けられたすべての民の目標で、望みなる者よ。この窮状の打開を志すのであれば、カルバラーからフサインを呼び寄せるのだ。破滅の泥沼から罪人の足を抜き出し得るのは、ただフサインのみであるから。もしやあのノアが来て、この船の水先案内をすれば、船は必ず岸なき大洋を安全に航行するであろう。」 フサインが容赦し難い様子で登場する。彼は自分の家族が受けた苦しみへの復讐を要求し、各人が味わうことを余儀なくされた苦痛を詳述する。 預言者:「フサインよ!数々の苦しい経験をしたに違いない!誰がそのような辛い物語に耳を傾け得よう!殉教は、まぎれもなくそなたの王冠。試練はそなたを神のおそばへ導き、神とそなたの間に、強力な連携を打ち建てることであろう。これまでの艱難を嘆いてはならない。とりなしの樹に実を結ばせるのだ。そして今や、我が民の中の罪人たちのために、心を砕くのだ。」 フサイン:「ああ、この世の創造主、造り人よ、聞き入れたまえ。敵に馬から突き落とされたときにかけて、ゼイナブがシムルに慈悲を乞うたときにかけて。もっともシムルは、ゼイナブが我が目を閉じることを許さず、彼女が我がために泣くことも許可しなかったが、あの者どもの邪悪な行為を、慈悲をもって許し給え。彼らの非道を、喜びを持って許し給え。」 ガブリエルが主の裁定を発表する。「ほとんどの艱難を経験し、ほとんどの苦痛に耐え、困苦の中にあっても最も忍耐を示した者、その者に、仲介者としての特権を勝ち取らせる。」 ガブリエルが預言者に告げる。「このとりなしの鍵を我が手より、最大の試練の数々を経験した者に与えよ。」 預言者たちの中で、悲しみと苦しみをフサインと競えるのは、たたヤコブのみである。 ガブリエルが再登場し、預言者の手から裁定を受け取り、次のようなメッセージを手渡す。 「かつて誰もフサインほどの痛みと災いに苦しんだものはいない。誰も彼ほど、主に従順に仕えた者はいない。これまでに行ったすべての事柄において、誠実でない歩みをしたことのない者。汝は、その者の手に、天国の鍵を委ねよ。とりなしの業の特権は、ひとえに彼のもの。我が特別の恩寵により、フサインはすべての民の仲介者である。「 預言者:「(鍵を手渡しながら)さあ、行け、炎のなかから救出せよ。生涯にそなたのために、ほんの一滴であれ、涙を流した人のすべてを。そなたをどのような方法であれ、助けた人すべてを。そなたの廟を参詣した人、そなたに弔意を表した人のすべて、そしてそなたのために、悲劇的な詩句を綴った人のすべてを。それぞれの人を、そしてすべての人を天国へ連れて行け。」 フサイン:「ああ友よ、悲しみから救出されよ。そして祝福された者の館について来るのだ。悲しみは去った。今や歓喜と休息のとき。苦難は過ぎ去り、安楽と安堵のとき。」 罪人たち:「(天国に入りながら)神は讃むべきかな!フサインの恩寵によって幸福になり、彼の恵みによって破滅から救出された。フサインの愛情深い優しさによって、我々の道は薔薇と花々で飾られた。かつて茨や薊であった我々が、フサインの慈悲深いとりなしによって杉になれた。」
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