ジョセフ・ヒューベルトゥス・ピラティスの経歴及びその歴史とは? わかりやすく解説

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ジョセフ・ヒューベルトゥス・ピラティスの経歴及びその歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 21:42 UTC 版)

ピラティス・メソッド」の記事における「ジョセフ・ヒューベルトゥス・ピラティスの経歴及びその歴史」の解説

ジョゼフ・ヒューベルトゥス・ピラティス (ドイツ語読みではヨーゼフ・フーベルトゥス・ピラテス) は、1883年12月9日ドイツ帝国デュッセルドルフ行政管区メンヒェングラートバッハにある小さな町生まれた幼少期病弱で、リウマチ熱くる病喘息苦しみながら過ごした成人してからはヘビースモーカーであったため、喘息に関して著しく健康になることはなかった。母が自然療法医で父が体操選手であったので、病を克服したい気持ち父親対す憧れから、父親勤務するスポーツクラブトレーニング (器械体操レスリングヨガボクシング等) を行い14歳になったジョセフの体はとても鍛錬された魅力的なとなっていた。 1912年-その後も彼は東洋と西洋両方身体訓練法研究し、特にギリシャ文化彫刻美しさ、それに表現される強さ関心抱いたこの頃ジョーサーカス団と共に旅をすることになる。 1914年第一次世界大戦勃発当時ジョーは、イギリスにてボクサー護身術指導者として働いていたが、敵国人として捕われマン島収容所送られるこの頃、自ら開発していた運動プログラムを他の抑留者にも伝え始める。マン島ではある時、寝たきりで動くことも大変な患者に対して、マットレスベッドに使用されていたスプリング使ってサポート抵抗与えること考えつく。これは現在「キャディラック」と呼ばれているベッド型の器具基礎になった。 彼が行ったこの新しタイプリハビリは、後に「ピラティス・メソッド」と呼ばれる考え方始まりとなる。 1918年スペインかぜ流行しジョセフが過ごすマン島にまで影響が及ぶ。しかし、彼とともに運動続けた仲間達誰一人としてこの病に倒れる人はいなかったといわれており、後に様々な人によって語り継がれることになる。 終戦後ドイツ戻ったジョセフは、護身術指導ハンブルクにある軍警察訓練担当した。また個人顧客教え始めたこの頃のことはあまり記録されていないが、ホリスティック・メディスン、瞑想ホメオパシー、トリガー・ポイントセラピー、呼吸法モダンダンス興味持ち始めた時期であるといわれる中でもモダンダンス引きつけられた彼は、2人の有名ダンサーと共に働いていた。ムーブメント・アナリストとして有名なルドルフ・フォン・ラバン(ハンガリー)はピラティス出会って自分メソッドピラティス理論運動取り入れたとされるダンサー振付師マリー・ウィグマンジョセフ生徒であり、自身のダンスクラスのウォーミングアップピラティス考案した運動取り入れたとされる1925年ドイツ政府から新し軍隊訓練頼まれるが、当時ドイツの政治傾向好まずアメリカ移民することを決断する。ボクシング・マネージャーのナットフライシャー (アメリカ) や、後にヘビー級世界王者となるマックス・シュメリング渡米勧められたことも、ピラティス背中押したといわれるアメリカへ向かう貨物船内では、関節炎苦しむ若い看護士出会う。クララ・ゾイナーというその女性はその後ジョセフアシスタントとなると共に、ピラティス・メソッド優秀な指導者となったクララ彼にとって理想的な理解者だったが、2人正式な夫婦という関係ではなかった (ジョセフドイツで2回の結婚をしていた)。 1926年ニューヨーク到着8番街の939番地2階207号室にあったジム働き始める。近くにはリンカーンセンターや、カーネギーホールブロードウェイがあり、同じ建物内にはダンサーバレリーナ練習するためのダンス学校リハーサル・スタジオがあった (現在でも当時のまま使用されている)。 30代前半頃、ジョセフ働いていたジム引継ぐことになる。この機会クララとともに自分スタジオオープンさせ、そこで数々アスリートダンサー認められビジネスマン医者ダンサー音楽家サーカス芸人体操選手学生など、その指導多岐にわたった彼の噂は口伝え広まり、その顧客にはビビアン・リー、サー・ローレンス・オリビエ、キャサリン・ヘプバーンその他の映画スター、さらにニューヨーク富裕層達もいた。 1930年から1940年にかけて、-アメリカンバレエとモダンダンスダンサー振付師達が有名無名に関わらずジョセフの下で学んでいた。テッド・ショーンルース・セント・デニス、ハンナ・ホルム、アレグラ・ケントなどもその中にいた。ジョージ・バランシンは、自分教え子ダンサー怪我をすると、治療のためにジョセフスタジオ送っていたという (当時ジョセフはアンクル・ジョーと呼ばれていた)。コントロロジーは、口コミによって多くダンサー達の間に急速に広まっていく。 ジョセフ直々教え子達は、その後第一世代ティーチャー (またはエルダー)」と呼ばれようになった。すでにこの世去ってしまった人物では、カローラ・トリエー、イヴ・ジェントリー、ブルース・キング、ロン・フレッチャー、キャサリン・スタンフォード・グラント、ロマーナ・クリザノウスカ。多く場合、彼らはスタジオでアシスタントしながらセッション費用代わりにしていたという。アシスタント中にはジョセフの姪であるマリー・ピラティスもいた。 1930年ジョセフアメリカ市民となる。 1934年に『ユア・ヘルス (Your Health)』を出版1939年から1951年まで、ピラティス夫妻は、バークシャー・マウンテンのジェイコブズ・ピロー近く別荘毎年夏に行われるダンスキャンプでも指導していた。 1945年に『リターン・トゥ・ライフ・スルー・コントロロジー (Return to Life Through Contrology)』を出版 (彼が生前執筆した本は2冊だけであった)。この頃自身メソッド人類変えられる信じていたジョセフは、若者教育や軍のトレーニングにも取り入れてもらえるように熱心に宣伝していた。医師達に向けた実践講習運動用パンフレット作成毎週土曜日にはオリジナル器具紹介・販売するためにメイシーズ (百貨店) に行っていた。 マンハッタンにある、レノックスヒル病院整形外科医ヘンリー・ジョーダンは、ジョセフ親友でもありピラティス・メソッド可能性高く評価していた。ジョーダン医師は、ジョセフ教え子1人であるカローラ・トリエーを側に置き、ジョセフ生徒には優秀な外科医となっている者もいた。 1950年代にはピラティス・メソッドによって、乳房切除術から奇跡的な復活果たしたダンサー、イヴ・ジェントリーとのセッションから、多く医師驚き与えピラティス・メソッド病院にも取り入れ動きが始まる。しかし、病院側は医療資格持たないジョセフ受け入れ拒否売り込み甲斐なく彼のメソッド医療教育制度主流とはならなかった。彼は医学会の無理解にひどく悲しんだといわれている。 1965年百貨店ヘンリベンデルの中に2番目のスタジオ開設開設当初から1972年までは、彼の教え子1人のナヤ・コーリーが運営その後1988年閉店するまでは、キャサリン・スタンフォード・グラント (ニューヨーク大学ティッシュ校での指導もしていた) が指導していた。 1966年1月8番街スタジオがあったビルの裏手で火災発生、幸い彼らの中に死者はいなかったが、鎮火後、資料持ち出そうとしていたジョセフ誤って床板踏み抜き消防士救助されている。 80代のほとんどを研究指導費やしたジョセフは、1967年10月9日この世を去る。当時84歳だった彼は、その生涯終え寸前まであらゆるエクササイズ実行することができたといわれている。ジョセフ死後彼のスタジオ弟子1人であったロマーナ・クリザノウスカが引継ぎクララと共にスタジオ運営し続けた1968年、イヴ・ジェントリー (1901年1944年) がニューメキシコ州サンタフェに「イヴ・ジェントリー・スタジオ」を開設1971年にロマーナ・クリザノウスカがピラティス・スタジオを継ぐ。ロン・フレッチャーがロサンゼルスビバリーヒルズに「ロン・フレッチャー・スタジオ・フォー・ボディ・コントロロジー」を開設多くハリウッドのセレブレティーをはじめとする顧客集め人気となる。 1973年91になったクララ・ピラティスはスタジオで仕事引退しその後はロマーナ・クリザノウスカに全て任せていた。その後、クララ・ピラティスは1977年5月13日この世を去る。 1983年サンフランシスコのセント・フランシス・ホスピタルの著名な外科医であり、スポーツ選手とダンスリハビリテーション部門の長であったジェームス・ゲーリック医師は、初めてダンス・メディスン・クリニック (ダンサー専門外来) を作った。彼はロン・フレッチャーに協力求め初めての医療的なピラティスプログラム作り病院ピラティス設備設けた1989年、ロマーナ・クリザノウスカは2度目引っ越しの後、ピラティス・スタジオを閉める。その後彼女は、ニューヨークにあるドラゴ・ジム (体操トレーニングジム) の中に自分のスタジオスペースを作る1990年代にコントロロジーは「ピラティス」として様々なメディア等取り上げられ次第アメリカ各地浸透していく。またアメリカ国外でも広がり始める。 1996年1月ピラティス」という言葉商標登録するか否か巡り集団訴訟が起こる。この訴訟2000年10月和解という形で幕を閉じ、「ピラティス」という言葉普通名詞として扱われることとなる。その後も、コントロロジーはピラティスという名前で広まり続け世界中で多くのピラティススタジオが開設されるまた、ヘルスクラブフィットネスジム競ってピラティス採用導入し、ピラティスインストラクターを養成する講習会世界各地開かれた2009年には世界中主要国教えられており、ピラティス人口1200万人超えたニューヨーク8番街 939番地にある元祖ピラティススタジオは、ピラティスメッカとして今でも運営され続けている (2015年現在)。

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