「SEMPO SUGIHARAという外交官は存在しない」
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「杉原千畝」の記事における「「SEMPO SUGIHARAという外交官は存在しない」」の解説
リトアニアの人々には千畝(ちうね)という名前が発音しにくかったことから、千畝は、呼びやすいように名を音読みにして「せんぽ」と名乗っていた。そのため、リトアニアでは「センポ スギハラ」という名前が定着していた。戦後、リトアニアの人々が「センポ スギハラ」にお礼を言いたいと日本の外務省に問い合わせるものの、本名ではなかったため、外務省はそのような外交官はいないと答えるしかなかった。しかし、リトアニア政府の協力もあり、数名のリトアニア人は杉原千畝に会うことができた。 戦後ソ連の収容所から帰国を果たした後、千畝は1947年(昭和22年)に外務省を辞職。幸子夫人によると岡崎勝男・外務事務次官から口頭で「例の件」の責任を免官の理由として告げられたという。 政府の公式見解では、1946年(昭和21年)から外務省のみならず行政組織全体に対して行われていた「行政整理臨時職員令(昭和21年勅令第40号)」に基づく機構縮小によるリストラの一環(当時の外務省職員の三分の一が退職)における千畝自身による依願退職とされている。またビザ発給後も1945年(昭和20年)のソ連による収容所送還まで、チェコスロヴァキアの在プラハ総領事館総領事代理やドイツの在ケーニヒスベルク総領事館総領事代理、ルーマニアの在ブカレスト日本公使館一等通訳官などを歴任し、7年間に渡り外務省で勤務し続ける中で昇給、昇進をして、1944年(昭和19年)には勲五等瑞宝章を受章していること、退職金や年金も支給されていることから、杉原にとって不名誉な記録は存在しないというのが現在まで政府の公式見解となっている。 しかし、元イスラエル大使の都倉栄二は、「当時、ソ連課の若い課長代理として活躍していた曽野明」が、「今後の日本はアメリカとソ連の両大国との関係が非常に大切になってくる。特にソ連は一筋縄ではいかぬ相手であるだけに、わが国の将来を考えるならば、一人でも多くのソ連関係の人材を確保しておくべきである」と述べたことを証言しており、他ならぬこの都倉は、千畝から3ヶ月も遅れてシベリア抑留から復員したにもかかわらず、外務省勤務が即刻認められ、「ソ連関係の調査局第三課にこないか」と曽野から誘われている。さらに、杉原が乗船した同じ復員船で帰国した部下の新村徳也は、帰国と同時に外務省外局の終戦連絡中央事務局に勤務することができた。 戦後、千畝の消息を尋ねるユダヤ人協会からの問い合わせに対して、外務省は旧外務省関係者名簿に杉原姓は三名しかいなかったにもかかわらず、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答していた。 また家族以外で「カウナス事件」に立ち会った唯一の証人である新関欽哉(後の駐ソ大使)は千畝の死の翌1987年(昭和62年)、「NHKのテレビコラムで、『私の見たベルリンの最後』という話」をし、「まだ駆け出しの外交官であり、責任ある地位にはついていなかったが、いろいろ劇的な場面に居合わせたので」、それをまとめた回想録『第二次世界大戦下 ベルリン最後の日』(1988) を刊行した。しかし、同書ではリトアニア領事館の杉原千畝に言及しているにもかかわらず、日本公使館にユダヤ難民が殺到するという前代未聞の外交事件に一行も触れていない。 新関は、第二次大戦末期に陥落したベルリン在住百数十名の日本人とともに満洲経由で帰国する。満洲では荷物引取交渉のために2週間満州里に滞在し、この時新関に協力したのが佐藤鉄松・ハルビン副領事である。佐藤は、在欧時代はケーニヒスベルクに在勤し、杉原を補佐した人物として、千畝のロシア語書簡(ワルシャワ軍事博物館蔵)でも言及されている。新関に関しては、「千畝手記」の抹消部分に「公邸の来賓用寝室には、たまたま外交官試験出の語学研修生N君が、泊まり客として居合わせ」たとされており、戦後も千畝と同じく藤沢市に居住。また、杉原がモスクワ駐在員時代には駐ソ大使であった。帰国後すぐに「外務省政務局第三課に配属され」た新関は、「この課はソ連関係を担当してお」り、「そのころの最も重要な仕事は対ソ和平問題であった」としている。渡欧時に語学研修生で、敗戦時にはベルリン大使館の三等書記官に過ぎなかった新関は、帰国するとすぐに外務省のソ連課に迎えられた。 また千畝退職時に外務省筋から「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」などという根拠のない噂が流された時も、新関はそれを打ち消すことをしなかった。歴史学者の杉原誠四郎は、「この人物は押し寄せるユダヤ難民を掻き分けるようにして領事館に入り、そして領事館に一泊した」のだから、「この噂が根も葉もないことであることを、新関欽哉はまっさきに証言しなければならない道義的立場にある」と批判している。 外務省の曽野明が「あらゆる抵抗を排除し、ソ連関係職員の確保に懸命に努力し」たとするまさにその時期に依願退職を求められた杉原千畝は、26歳の時に『ソヴィエト聯邦國民経済大観』を外務省から刊行してロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわし、北満鉄道買収交渉を成功させるなど、省内でその名を知らぬ者はいなかった。「外務省きってのロシア通」と考えられていただけに、千畝の排除を「戦後の人員整理」に帰す政府見解に関して疑いを持つ研究者は少なくなかった。 歳川隆雄は、日本の外務省内には血縁関係者が多く、入省時の語学研修にもとづく派閥が省内人事や外交政策にも影響があるとして、外務省人事の問題点を指摘している。高橋保の渡欧日記に、「杉原千畝氏の家に招かれ、食事を共にする。そこに鴻巣書記生、亀井トルコ商務官、田中書記生など来る。非常に面白いが、色々外務省の欠点、人事など例の如く話す」とあり、杉原手記に「万事勉強不足で有名な外務省」と述べられているように、千畝自身も実際の能力や業績よりも血縁関係や学閥が優先される外務省の人事システムに疑問を持っていた。外務省退職(解雇)後、かつての外務省の同僚たちが「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」と噂していることを知ると、普段温厚な杉原は本気で怒り、以後、杉原は外務省関係者と絶縁した。 杉原は、大公使への道を開く文官高等試験(キャリア採用試験)の受験をするために、「子供の教育の関係上」という口実で繰り返し帰国願いを申請したが、外相より「一等通譯官杉原千畝賜暇帰朝許可ス」とされたのは、ミッドウェー海戦の半年後の1942年(昭和17年)12月2日になってからであり、枢軸国側の敗色濃い欧州からの帰国が実現しないまま、敗戦を迎えた。 千畝自身は、カウナス事件に関して、以下のように述べている。「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビーザ発給が、博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和二二年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い出に、つながるからであります」。
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