「SEMPO SUGIHARAという外交官は存在しない」とは? わかりやすく解説

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「SEMPO SUGIHARAという外交官は存在しない」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:05 UTC 版)

杉原千畝」の記事における「「SEMPO SUGIHARAという外交官は存在しない」」の解説

リトアニア人々には千畝(ちうね)という名前が発音しにくかったことから、千畝は、呼びすいように名を音読みにして「せんぽ」と名乗っていた。そのため、リトアニアでは「センポ スギハラ」という名前が定着していた。戦後リトアニア人々が「センポ スギハラ」にお礼言いたい日本の外務省問い合わせるものの、本名ではなかったため、外務省そのような外交官はいないと答えるしかなかった。しかし、リトアニア政府協力もあり、数名リトアニア人杉原千畝に会うことができた。 戦後ソ連収容所から帰国果たした後、千畝は1947年昭和22年)に外務省辞職幸子夫人によると岡崎勝男外務事務次官から口頭で「例の件」の責任免官理由として告げられたという。 政府の公式見解では、1946年昭和21年)から外務省のみならず行政組織全体に対して行われていた「行政整理臨時職員令昭和21年勅令40号)」に基づく機構縮小によるリストラ一環当時外務省職員三分の一退職)における千畝自身による依願退職とされている。またビザ発給後も1945年昭和20年)のソ連による収容所送還まで、チェコスロヴァキアの在プラハ総領事館総領事代理ドイツの在ケーニヒスベルク総領事館総領事代理ルーマニアの在ブカレスト日本公使館一等通訳官などを歴任し7年間に渡り外務省勤務し続ける中で昇給昇進をして、1944年昭和19年)には勲五等瑞宝章受章していること、退職金年金支給されていることから、杉原にとって不名誉な記録存在しないというのが現在まで政府の公式見となっている。 しかし、元イスラエル大使都倉栄二は、「当時ソ連課の若い課長代理として活躍していた曽野明」が、「今後日本アメリカソ連の両大国との関係が非常に大切になってくる。特にソ連一筋縄ではいかぬ相手であるだけに、わが国将来考えるならば、一人でも多くソ連係の人材を確保しておくべきである」と述べたことを証言しており、他ならぬこの都倉は、千畝から3ヶ月遅れてシベリア抑留から復員したにもかかわらず外務省勤務即刻認められ、「ソ連関係の調査局第三課にこないか」と曽野から誘われている。さらに、杉原乗船した同じ復員船帰国した部下新村徳也は、帰国同時に外務省外局終戦連絡中央事務局勤務することができた。 戦後、千畝の消息尋ねユダヤ人協会からの問い合わせに対して外務省は旧外務省関係者名簿杉原姓は三名かいなかったにもかかわらず、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官過去においても現在においても存在しない」と回答していた。 また家族以外で「カウナス事件」に立ち会った唯一の証人である新関欽哉(後の駐ソ大使)は千畝の死の翌1987年昭和62年)、「NHKテレビコラムで、『私の見たベルリン最後』という話」をし、「まだ駆け出し外交官であり、責任ある地位にはついていなかったが、いろいろ劇的な場面居合わせたので」、それをまとめた回想録第二次世界大戦下 ベルリン最後の日』(1988) を刊行した。しかし、同書ではリトアニア領事館杉原千畝言及しているにもかかわらず日本公使館ユダヤ難民殺到するという前代未聞外交事件一行触れていない。 新関は、第二次大戦末期陥落したベルリン在住数十名の日本人とともに満洲経由帰国する満洲では荷物引取交渉のために2週間満州里滞在し、この時新関協力したのが佐藤ハルビン副領事である。佐藤は、在欧時代ケーニヒスベルク在勤し、杉原補佐した人物として、千畝のロシア語書簡ワルシャワ軍事博物館)でも言及されている。新関に関しては、「千畝手記」の抹消部分に「公邸来賓寝室には、たまたま外交官試験出の語学研修生N君が、泊まり客として居合わせ」たとされており、戦後も千畝と同じく藤沢市居住また、杉原モスクワ駐在員時代には駐ソ大使であった帰国後すぐに「外務省政務第三課配属され」た新関は、「この課はソ連関係を担当してお」り、「そのころの最も重要な仕事は対ソ和平問題であった」としている。渡欧時に語学研修生で、敗戦時にはベルリン大使館三等書記官に過ぎなかった新関は、帰国するとすぐに外務省ソ連課に迎えられた。 また千畝退職時に外務省筋から「杉原ユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」などという根拠のない噂が流された時も、新関はそれを打ち消すことをしなかった。歴史学者杉原誠四郎は、「この人物は押し寄せるユダヤ難民掻き分けるようにして領事館入り、そして領事館一泊した」のだから、「この噂が根も葉もないことであることを、新関欽哉まっさき証言しなければならない道義的立場にある」と批判している。 外務省曽野明が「あらゆる抵抗排除しソ連関係職員確保懸命に努力したとするまさにその時期に依願退職求められ杉原千畝は、26歳時にソヴィエト聯邦國民経済大観』を外務省から刊行しロシア問題エキスパートとして頭角あらわし北満鉄道買収交渉成功させるなど、省内でその名を知らぬ者はいなかった。「外務省きってのロシア通」と考えられいただけに、千畝の排除を「戦後人員整理」に帰す政府見解に関して疑いを持つ研究者少なくなかった歳川隆雄は、日本の外務省内には血縁関係者が多く入省時の語学研修にもとづく派閥が省内人事や外交政策にも影響があるとして、外務省人事問題点指摘している。高橋保渡欧日記に、「杉原千畝氏の家に招かれ食事共にする。そこに鴻巣書記生亀井トルコ商務官田中書記生など来る。非常に面白いが、色々外務省欠点人事など例の如く話す」とあり、杉原手記に「万事勉強不足有名な外務省」と述べられているように、千畝自身実際能力業績よりも血縁関係学閥優先される外務省人事システム疑問持っていた。外務省退職解雇)後、かつての外務省同僚たちが「杉原ユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」と噂していることを知ると、普段温厚な杉原は本気で怒り以後杉原外務省関係者絶縁した杉原は、大公使への道を開く文官高等試験キャリア採用試験)の受験をするために、「子供教育の関係上」という口実繰り返し帰国願い申請したが、外相より「一等通譯官杉原千畝賜暇帰朝許可ス」とされたのは、ミッドウェー海戦半年後の1942年昭和17年12月2日になってからであり、枢軸国側敗色濃い欧州からの帰国実現しないまま、敗戦迎えた。 千畝自身は、カウナス事件に関して、以下のように述べている。「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビーザ発給が、博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請い容れる同時にそれは、本省訓令無視であり、従って終戦後引揚げ昭和二二四月の事)、帰国同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い出に、つながるからであります」。

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