「ペール・フランク」 音楽院の教授、作曲家期とは? わかりやすく解説

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「ペール・フランク」 音楽院の教授、作曲家期 (1872年–1888年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 09:34 UTC 版)

セザール・フランク」の記事における「「ペール・フランク」 音楽院の教授、作曲家期 (1872年1888年)」の解説

フランク名声今や演奏家として国民音楽協会会員として、そして少ないながら忠実な弟子たち存在によって広く知れ渡っていた。1872年授業再開したパリ音楽院ブノワオルガン科の教授から退官すると、フランク後任として推されることになる。誰が推薦人であったのかについては不確かな点がある。サン=サーンステオドール・デュボワそれぞれ異な時期に自らの関与認めており、それはカヴァイエ=コルも同様である。確実なのはフランクの名前が候補者一覧の一番上記載されていたということ、そしてこの推薦によってフランク任用必要なフランス国籍を有していないことが公になってしまったという、きまりの悪い事実であったフランクの父のニコラジョゼフ息子音楽院入学させるべくフランスへ帰化させていたが、これはフランス政府成人として忠誠宣言しなければならない21歳までの期限付きだったということフランク知らなかったのであるフランク自身は父による国籍変更の手続き以後、ずっと自分フランス国民であると考えていたにもかかわらず実際知らぬ間に元の国籍であるベルギーへと戻され人生大半過ごしていた。すぐさまフランク再度帰化申請の手続き入り1872年2月1日予定されていた任用1873年へと変更になったフランクの下に集った弟子多く音楽院学んでいた者か、在籍中学生であった中でもヴァンサン・ダンディエルネスト・ショーソンルイ・ヴィエルヌアンリ・デュパルクらはとりわけ有名である。この集団徐々に師弟間で相通ずる尊敬愛情によって固く結ばれるようになっていった。ダンディはこれを新たな門弟個々に、しかし誰もが師のことを「ペール・フランク Père Franck」すなわち「父フランク」と呼ぶようになったことと関連付けている。一方フランク教員生活において緊張強いられる場面経験していた。彼はオルガンによる演奏即興技術同等に作曲指導を行う傾向があった。また、音楽院認可した公式の教科書参考書軽視する姿勢により、彼の指導方法合理的でないとみなされていた。さらに彼の一部学生からの人気嫉妬感じ教員現れローマ大賞など各種賞の選考においてフランク教え子はそうした教授陣から偏見交じり審査を受けることもあった。ヴァラフランクが「彼の信じ単純な本質理解されなかった(中略)彼自身が常に親切な雰囲気向けられていると感じていた音楽院の中でさえ、彼はいかほど不快な類の指摘受けたことだろうか。」と記している。 フランク立場長年温めていた楽曲構想楽譜起こせるようなものとなっていた。彼は『至福』の作曲中断してオラトリオ贖罪』(1871年作曲1874年改訂)、交響詩アイオリスの人々』(1876年)、オルガンのための『3つの小品』(1878年)、『ピアノ五重奏曲』(1879年)などや他の多く小規模作品取り組んだ。『至福』は最終的に1879年初演迎えることとなったが、これはフランクの他の多く合唱曲管弦楽曲場合同じく成功しなかった。作品全体としてではなく細分化された上で抜粋だった上、適当なオーケストラがなかったためにピアノ伴奏演奏された。さらにダンディでさえ指摘しているのは、フランクゴスペル至福中に表現される美徳対比される罪悪を、音楽的に表現出来てなかったらしいということである。「この《理想罪悪》(もしこのような表現が可能であればの話であるが)の擬人化フランク本性あまりにかけ離れており、彼はそうしたものを適切に表現することができなかった。」その結果生じたヴァラ述べるところの「単調な印象」は、フランク忠実な門下生にすら『至福』の一つ作品としての存続可能性について推測させるに及んだ1880年代になり、フランク気づく様式的に主張異なる2群の板挟みとなっていた。一方最初に慣れ親しんだスタイルからの変化を好まなかった妻のフェリシテであり、他方はおそらく彼が影響与えるのと同じように彼自身にも驚くべき影響与えていた弟子たちである。ダンディ次のような言葉引用されている。「(フランクは)どの調性的関係を選択するのか、展開部をどう進行させるべきか考えあぐねた際、いつも弟子たち相談して彼らと疑問点共有し、彼らの意見を聞くことを好んだ。」その一方フランク弟子のひとりはフランク夫人次のように(一部的を射た発言をしたと物語っている。「彼に向けられる敵意生んでいるのは全部あなたたち弟子なのよ。」加えてサン=サーンスフランク及びその一派との反りが合わなくなってきており、国民音楽協会においてもいくらか軋轢生じていた。 これらのいざこざフランクの心をどれだけ疲弊させたのか、確かなことはわからない。しかし、彼のより「卓越した楽曲こうした時期生み出されたことは確かである。交響詩の『呪われた狩人』(1882年)と『鬼神ジン)』(1883年-1884年)、ピアノのための『前奏曲、コラールとフーガ』(1884年)と『交響的変奏曲』(1885年)、そしてオペラ『ユルダ』(1886年)である。これらの作品多く少なくともフランク生前行われた初演時には並み成功となるか否かといった程度であった。しかし、1879年の『ピアノ五重奏曲』は注目を集めるとともに思考喚起する作品であるとされた。批評家はこの作品には「不穏な生気」が宿り、「劇場的といってよい程の不気味さ」を湛えていると評した。ただし、サン=サーンスはこの作品を特に嫌悪していた。 1886年の『ヴァイオリンソナタ』は、ベルギーヴァイオリニストであるウジェーヌ・イザイ結婚祝いとして作曲されたものだった。この作品成功轟きわたることになる。イザイはこれをブリュッセルパリ演奏し、さらに演奏旅行組み込んでしばしば弟のテオ・イザイピアノ伴奏演奏した。彼がこの作品最後に演奏したのは1926年パリで、イヴ・ナット伴奏受け持った20世紀半ばヴァラはこのソナタについて次のように記している。「少なくともフランスではフランクの最も人気作品となり、室内楽曲レパートリー全体から見ても最も一般的に受容される楽曲である。」 フランクへの評価がはっきり定まらなかったことは、フランク一派が遅すぎると考えたフランク受章にも表れているかもしれない1885年8月4日フランクフランスレジオン・ドヌール勲章のシェヴァリエに叙された。彼の支持者らは憤ったダンディはこう記している。「この勲章音楽家フランス芸術に名誉をもたらす優れた作品作曲者与えられたと考えることは間違っているのか。少しもそんなことはない!」表彰が、単に10年以上勤めたオルガン教授」へとなされたのだったからである。ヴァラは「世論はこの点について同じよう過ち犯すまい」と続けて普段フランク批判的だった雑誌記述引用した。それはこの表彰が「少し遅きに失したのだとしても、『贖罪』や『至福』を書いた傑出した作曲家に対して正当にもたらされ敬意のしるし」だというものだったフランク1886年から1888年ギリシャ神話を基に手がけた交響詩『プシシェ』を発表すると、フランク家庭取り巻き弟子たちの間の衝突新たな局面突入した本人あずかり知らぬ場所でも繰り広げられいさかい内容音楽だけに留まらず題材哲学的宗教的側面にまで及んだ。この作品あまりに官能的であると考えたフランクの妻と息子は彼により広範な、もっと大衆への訴求力を持つ、そして「全体としてより商業的な音楽専念するよう希望した一方ダンディはこの楽曲神話的重要性触れ、こう述べている。「多神教徒の精神は何も持ち合わせていないが(中略それどころか、キリスト教徒恩寵感受性吹き込まれている(略)」このダンディ解釈後になって日曜教室新任教師悪童雅歌教えるように突然指示され場合感じるような、ある種当惑であった。」と解説されている。 フランク唯一の交響曲となる『交響曲 ニ短調』が出版されると、議論はますます勢い増した。曲の評判芳しくなかった音楽院オーケストラ非協力的で、聴衆冷淡批評家態度決められず、仲間作曲家多くは「全体形式をはじめ細部においても形式主義者の規則厳格な玄人及び素人慣習破壊した。」として取り乱したフランク自身弟子のルイ・ド・スーレ(-Serres)にこの曲には基となる私的な着想があったのかと問われ「いや、ただの音楽だ。純粋な音楽以外には何もない。」と答えている。ヴァラによれば交響曲用いられ様式技法良いものもそうでないものも皆、フランク思考芸術家人生中心占めたオルガン帰することが出来るという。また、彼はフランクがこの経験から学んだとも指摘している。「彼は弟子たち向かってその時以降同じよう作品2度と書くまいと述べた。」

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