「ペール・フランク」 音楽院の教授、作曲家期 (1872年–1888年)
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「セザール・フランク」の記事における「「ペール・フランク」 音楽院の教授、作曲家期 (1872年–1888年)」の解説
フランクの名声は今や演奏家として、国民音楽協会の会員として、そして少ないながらも忠実な弟子たちの存在によって広く知れ渡っていた。1872年に授業を再開したパリ音楽院でブノワがオルガン科の教授から退官すると、フランクが後任として推されることになる。誰が推薦人であったのかについては不確かな点がある。サン=サーンスとテオドール・デュボワはそれぞれ異なる時期に自らの関与を認めており、それはカヴァイエ=コルも同様である。確実なのはフランクの名前が候補者一覧の一番上に記載されていたということ、そしてこの推薦によってフランクが任用に必要なフランス国籍を有していないことが公になってしまったという、きまりの悪い事実であった。フランクの父のニコラ=ジョゼフは息子を音楽院へ入学させるべくフランスへと帰化させていたが、これはフランス政府に成人として忠誠を宣言しなければならない21歳までの期限付きだったということをフランクは知らなかったのである。フランク自身は父による国籍変更の手続き以後、ずっと自分がフランス国民であると考えていたにもかかわらず、実際は知らぬ間に元の国籍であるベルギーへと戻されて人生の大半を過ごしていた。すぐさまフランクは再度帰化申請の手続きに入り、1872年2月1日に予定されていた任用は1873年へと変更になった。 フランクの下に集った弟子の多くは音楽院で学んでいた者か、在籍中の学生であった。中でもヴァンサン・ダンディ、エルネスト・ショーソン、ルイ・ヴィエルヌ、アンリ・デュパルクらはとりわけ有名である。この集団は徐々に師弟間で相通ずる尊敬と愛情によって固く結ばれるようになっていった。ダンディはこれを新たな門弟が個々に、しかし誰もが師のことを「ペール・フランク Père Franck」すなわち「父フランク」と呼ぶようになったことと関連付けている。一方、フランクは教員生活において緊張を強いられる場面も経験していた。彼はオルガンによる演奏や即興の技術と同等に作曲の指導を行う傾向があった。また、音楽院が認可した公式の教科書や参考書を軽視する姿勢により、彼の指導方法は合理的でないとみなされていた。さらに彼の一部学生からの人気に嫉妬を感じる教員も現れ、ローマ大賞など各種の賞の選考においてフランクの教え子はそうした教授陣から偏見交じりの審査を受けることもあった。ヴァラはフランクが「彼の信じる単純な本質は理解されなかった(中略)彼自身が常に親切な雰囲気を向けられていると感じていた音楽院の中でさえ、彼はいかほどの不快な類の指摘を受けたことだろうか。」と記している。 フランクの立場は長年温めていた楽曲の構想を楽譜に起こせるようなものとなっていた。彼は『至福』の作曲を中断してオラトリオ『贖罪』(1871年作曲、1874年改訂)、交響詩『アイオリスの人々』(1876年)、オルガンのための『3つの小品』(1878年)、『ピアノ五重奏曲』(1879年)などや他の多くの小規模作品に取り組んだ。『至福』は最終的に1879年に初演を迎えることとなったが、これはフランクの他の多くの合唱曲や管弦楽曲の場合と同じく成功しなかった。作品は全体としてではなく細分化された上での抜粋だった上、適当なオーケストラがなかったためにピアノ伴奏で演奏された。さらにダンディでさえ指摘しているのは、フランクがゴスペルの至福の中に表現される美徳と対比される罪悪を、音楽的に表現出来ていなかったらしいということである。「この《理想の罪悪》(もしこのような表現が可能であればの話であるが)の擬人化はフランクの本性とあまりにかけ離れており、彼はそうしたものを適切に表現することができなかった。」その結果生じたヴァラが述べるところの「単調な印象」は、フランクの忠実な門下生にすら『至福』の一つの作品としての存続可能性について推測させるに及んだ。 1880年代になり、フランクは気づくと様式的に主張の異なる2群の板挟みとなっていた。一方は最初に慣れ親しんだスタイルからの変化を好まなかった妻のフェリシテであり、他方はおそらく彼が影響を与えるのと同じように彼自身にも驚くべき影響を与えていた弟子たちである。ダンディの次のような言葉が引用されている。「(フランクは)どの調性的関係を選択するのか、展開部をどう進行させるべきか考えあぐねた際、いつも弟子たちに相談して彼らと疑問点を共有し、彼らの意見を聞くことを好んだ。」その一方、フランクの弟子のひとりはフランク夫人が次のように(一部的を射た)発言をしたと物語っている。「彼に向けられる敵意を生んでいるのは全部あなたたち弟子なのよ。」加えて、サン=サーンスとフランク及びその一派との反りが合わなくなってきており、国民音楽協会においてもいくらか軋轢が生じていた。 これらのいざこざがフランクの心をどれだけ疲弊させたのか、確かなことはわからない。しかし、彼のより「卓越した」楽曲がこうした時期に生み出されたことは確かである。交響詩の『呪われた狩人』(1882年)と『鬼神(ジン)』(1883年-1884年)、ピアノのための『前奏曲、コラールとフーガ』(1884年)と『交響的変奏曲』(1885年)、そしてオペラ『ユルダ』(1886年)である。これらの作品の多くは少なくともフランクの生前に行われた初演時には、並みの成功となるか否かといった程度であった。しかし、1879年の『ピアノ五重奏曲』は注目を集めるとともに思考を喚起する作品であるとされた。批評家はこの作品には「不穏な生気」が宿り、「劇場的といってよい程の不気味さ」を湛えていると評した。ただし、サン=サーンスはこの作品を特に嫌悪していた。 1886年の『ヴァイオリンソナタ』は、ベルギーのヴァイオリニストであるウジェーヌ・イザイの結婚祝いとして作曲されたものだった。この作品の成功は轟きわたることになる。イザイはこれをブリュッセル、パリで演奏し、さらに演奏旅行に組み込んでしばしば弟のテオ・イザイのピアノ伴奏で演奏した。彼がこの作品を最後に演奏したのは1926年のパリで、イヴ・ナットが伴奏を受け持った。20世紀半ばにヴァラはこのソナタについて次のように記している。「少なくともフランスではフランクの最も人気の作品となり、室内楽曲のレパートリー全体から見ても最も一般的に受容される楽曲である。」 フランクへの評価がはっきり定まらなかったことは、フランク一派が遅すぎると考えたフランクの受章にも表れているかもしれない。1885年8月4日、フランクはフランスのレジオン・ドヌール勲章のシェヴァリエに叙された。彼の支持者らは憤った。ダンディはこう記している。「この勲章が音楽家、フランスの芸術に名誉をもたらす優れた作品の作曲者に与えられたと考えることは間違っているのか。少しもそんなことはない!」表彰が、単に10年以上勤めた「オルガンの教授」へとなされたものだったからである。ヴァラは「世論はこの点について同じような過ちを犯すまい」と続けて、普段はフランクに批判的だった雑誌の記述を引用した。それはこの表彰が「少し遅きに失したのだとしても、『贖罪』や『至福』を書いた傑出した作曲家に対して正当にもたらされた敬意のしるし」だというものだった。 フランクが1886年から1888年にギリシャ神話を基に手がけた交響詩『プシシェ』を発表すると、フランクの家庭と取り巻きの弟子たちの間の衝突は新たな局面に突入した。本人のあずかり知らぬ場所でも繰り広げられたいさかいの内容は音楽だけに留まらず、題材の哲学的、宗教的側面にまで及んだ。この作品があまりに官能的であると考えたフランクの妻と息子は彼により広範な、もっと大衆への訴求力を持つ、そして「全体としてより商業的な」音楽に専念するよう希望した。一方のダンディはこの楽曲の神話的重要性に触れ、こう述べている。「多神教徒の精神は何も持ち合わせていないが(中略)それどころか、キリスト教徒の恩寵と感受性を吹き込まれている(略)」このダンディの解釈は後になって「日曜教室の新任教師が悪童に雅歌を教えるように突然指示された場合に感じるような、ある種の当惑であった。」と解説されている。 フランク唯一の交響曲となる『交響曲 ニ短調』が出版されると、議論はますます勢いを増した。曲の評判は芳しくなかった。音楽院のオーケストラは非協力的で、聴衆は冷淡、批評家は態度を決められず、仲間の作曲家の多くは「全体の形式をはじめ細部においても形式主義者の規則や厳格な玄人及び素人の慣習を破壊した。」として取り乱した。フランク自身は弟子のルイ・ド・スーレ(-Serres)にこの曲には基となる私的な着想があったのかと問われ「いや、ただの音楽だ。純粋な音楽以外には何もない。」と答えている。ヴァラによれば交響曲で用いられた様式と技法は良いものもそうでないものも皆、フランクの思考と芸術家人生の中心を占めたオルガンに帰することが出来るという。また、彼はフランクがこの経験から学んだとも指摘している。「彼は弟子たちに向かって、その時以降同じような作品は2度と書くまいと述べた。」
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