「ペレストロイカの父」
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「アンドレイ・サハロフ」の記事における「「ペレストロイカの父」」の解説
1986年ミハイル・ゴルバチョフからの電話によって流刑が解除され、モスクワに戻る。以後、ペレストロイカの進展を支持し、ソ連人民代議員大会が創設されると1989年に科学アカデミーから人民代議員へ選出される。人民代議員大会では急進改革派の地域間代議員グループの指導者の一人であり、アナトリー・サプチャークやガリーナ・スタロヴォイトワらとヨーロッパ=アジア・ソビエト共和国連邦(ロシア語: Союз Советских Республик Европы и Азии)を提唱してその憲法草案をゴルバチョフに送付していた。アフガニスタン侵攻を批判するなど良心と勇気に基づく発言は人々の尊敬を集め、「ペレストロイカの父」と称された。 1988年には欧州議会が、サハロフを記念した「サハロフ賞」を創設し、言論及び思想の自由の擁護に尽くした人々や組織に賞を贈っている。 亡くなる2ヶ月前となる1989年10月、読売新聞社主催の「第2回ノーベル賞受賞者日本フォーラム」に出席するため最後の来日。海部総理大臣にも会っている。東京で第125代天皇や日本政府要人と会見したあと北海道札幌市を訪れ、地元の高校生らと対話した。
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