科学アカデミー総裁
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「ムスチスラフ・ケルディシュ」の記事における「科学アカデミー総裁」の解説
ケルディシュは、1960年にソ連科学アカデミーの副総裁となり、1961年5月19日には科学アカデミー総裁に就任する。総裁となって間もなく、ケルディシュはソビエト連邦共産党中央委員会委員、ソビエト連邦最高会議代議員にも選ばれている。 ケルディシュが総裁となる前後は、科学アカデミーの大規模な再編が行われた時期であった。ソ連共産党中央委員会幹部会の科学アカデミー批判、更に共産党中央委員会と閣僚会議で科学アカデミーの活動の改善に関する布告がなされ、科学アカデミーから技術研究を切り離し、自然科学と社会科学の発展に集中するものとして再編されることになった。ケルディシュ総裁就任直前の再編で、科学アカデミーの傘下にあった研究所と支部の約半数が国家委員会や官庁の下へ移管され、研究所の減少に伴って予算規模も縮小していた。ケルディシュは、科学アカデミーをソ連の卓抜した学術研究機関として立て直すことを、自らに役割として課していたようである。ケルディシュの視点は、科学アカデミーが基礎科学の研究によって、技術進歩の科学的基盤の確立に積極的に寄与する、というところにあった。 ケルディシュは当初は、再編によって大幅に縮小された科学アカデミー工学部を援助して、国家の技術発展への科学アカデミーの影響力を高め、科学アカデミーの科学的権威を強化することを狙っていた。そのため、工学部が新しい技術の発展にとって重要な問題の研究に取り組むため、傘下の研究所を強化し、新たな研究所の設立を主張した。また、新たに選出されたアカデミー会員の多くを工学部に加えた。しかし、この試みは成功しなかった。1963年、共産党中央委員会と閣僚会議の布告で挙げられた科学アカデミーの主要課題に工学は含まれず、同年に改訂された科学アカデミー規約で定められた部門にも工学部はなく、結局工学部は廃止された。 それ以降、総裁としてのケルディシュは、倹約を旨とし、厳格な指導者として振る舞った。ケルディシュは、財政的な限界や実践的な要請に依拠した規律を重視し、それなしで物事を進めることをよしとしなかった。科学アカデミーの再編を招いた理由の一つが、官僚主義的な組織の膨張で、事務機構が効果的に管理できないくらい複雑化・肥大化したことであり、幹部会でその問題を知っていたケルディシュは、合理的な規模の範囲で継続的な運営をする中で、科学アカデミーの基盤を強化することに主眼を置いた。ケルディシュは、物理学者らが天体望遠鏡や粒子加速器などの大型研究施設に際限なく予算増額を要求することに対して辛辣である一方、外部からの要請に基づく研究所の復帰や新増設にも慎重であった。常に財政難に悩まされていた科学アカデミーにとっては、潤沢な資金を持つ国家委員会や官庁傘下の研究所を取り込むより、研究・指導力によって実質的な影響力を持つ方が合理的であった。アカデミーの競合相手となり得る国家委員会とも、役割分担と連携を進め、研究資金の獲得に務めた。ケルディシュの姿勢は、ソ連の組織指導者としては概ね理にかなったものだったが、「ペレストロイカの父」アンドレイ・サハロフは、科学アカデミーが党中央委員会、国家委員会、官庁の指導する巨大な官僚機構に行政面で依存している事実に大きく作用され、官僚機構の意思を尊重していた、と評している。 結果的には、ケルディシュが総裁であった時期に、再編により縮小した科学アカデミーは緩やかな成長を続けた。1971年までの7年間で、科学アカデミーの資産は2倍になった。ケルディシュは、必要な設備投資については意欲的であり、同じ7年間で科学アカデミーの設備・機械の資産価値は3.5倍に上昇した。科学アカデミーの予算に占める設備投資の比率は、ケルディシュの在職中に9%から22%に上昇し、組織の体質は変化した。 1971年には、ソ連科学の統率者として、科学の発展に多大な貢献をしたことにより、3度目の社会主義労働英雄を授与された。14年間科学アカデミーの総裁を務め、後半生は指導者としての業績が目立つケルディシュだが、60歳の誕生祝の会見では、学術研究の現場を離れ、管理運営の仕事に専念してきたことへの後悔を口にしている。
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