「ペデスタル作戦」立案とオハイオ
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「オハイオ (タンカー)」の記事における「「ペデスタル作戦」立案とオハイオ」の解説
1942年当時、イギリスは地中海で戦争の最中であり、北アフリカにおいてドイツアフリカ軍団とイタリア軍に対し交戦中であった(北アフリカ戦線)。そしてこの戦いを遂行するにあたって不可欠だったのは、枢軸軍の補給路の真ん中に位置するマルタ島の存在であった。マルタ島へ十分な軍需品、航空機、燃料が補給されている限り、北アフリカのドイツ軍とイタリア軍に大きな物資不足を強いることができていた。 しかし1941年12月以降、補給上の脅威であるマルタ島を無力化すべくドイツ空軍が連日猛爆撃を加えた。1942年2月に約1,000トン、3月に約2,000トンを超える爆弾がマルタ島に投下された。3月と4月には、バトル・オブ・ブリテンで1940年の1年間にロンドンへ投下された量の2倍の爆弾がマルタ島へ落とされた。1942年1月1日から7月24日までの間で爆撃がなかった日は僅かに1日しかなく、マルタ島の継戦能力は日を追うごとに弱まっていった。 枢軸軍の攻撃が一時的に弱まった間を突いて、軍需品と航空機の補給が行われた。例えば、島の防衛のために洋上の空母からホーカー ハリケーンやスーパーマリン スピットファイア戦闘機を発艦させてマルタ島へ補給する作戦(一連の活動は「クラブラン」と呼ばれた)などが行われたが、食料や燃料などその他物資は極度の不足をきたしていた。マルタ島の食料自給率は低く、補給がほとんど途絶えてからは食料品の配給量が健康維持に必要な最低量すら下回ったため、栄養失調に陥ったり腸チフスに罹患する者も発生した。食料以外にも、燃料、水、日用品、嗜好品、医療品といったあらゆる物品が窮乏していた。 それまで行われたマルタ島への補給作戦は、そのほとんどが失敗に終わっていた。例えば、ハープーン作戦(ジブラルタルから)やヴィガラス作戦(アレクサンドリアから)は、空と海からの攻撃によって商船の多くが沈められ、護衛艦艇も被害を受けていた。特に、ハープーン作戦で失われた船の中にはオハイオの姉妹船ケンタッキー(SS Kentucky)もいた。ケンタッキーはドイツ空軍の空襲で航行不能になり放棄に至ったものである。放棄されたケンタッキーは、最終的にイタリア海軍の軽巡洋艦ライモンド・モンテクッコリとエウジュニオ・ディ・サヴォイア(英語版)、駆逐艦2隻によって撃沈された。 ハープーン作戦とヴィガラス作戦失敗後の1942年6月18日、地中海艦隊司令長官はウィンストン・チャーチル首相に対し、これ以上マルタ島へ補給船団を送ることに対する疑問の電報を送った。だが、マルタ総督ジョン・ヴェレカーから、物資不足によりマルタ島が降伏を余儀なくされるのは9月であるという予想が報告され、議論の末にチャーチル首相と国防委員会は最後のマルタ島向け輸送船団の派遣を決めた。 それから3日後、ノルウェーのオスロ出身のセベレ・ピーターセン船長の下でオハイオはクライド川河口まで航海していた。1942年5月初めに、ピーターセン船長はテキサス州ガルベストンへオハイオを移動させるようにという無線連絡を受け取った。そして、オハイオには船尾に5インチ単装平射砲1基、船首に3インチ単装高角砲が搭載された。その後、オハイオはテキサス州ヒューストンのシンクレア・ターミナルへ移動し、103,576バーレル(16,467.3㎥)のガソリンを積み込んだ後で5月25日にイギリスへ向けて出航した。オハイオはスコットランドのボーリング(英語版)で荷揚げ後、沖合に出て投錨し指示を待った。 ここで、ピーターセン船長はイギリス軍事輸送省長官フレデリック・リーザー(英語版)から、船長への個人的な招待状を受け取った。同日、テキサコ本社は戦時輸送本部(英語版)からオハイオを徴用すると通告を受けた。それを受けて、テキサコの船舶部長T・E・ブキャナンは、オハイオに現在位置から移動しないように命じた。英米両国間の協議の後、2週間後にオハイオをイギリス軍事輸送省とテキサコ・ロンドン代理店の職員が訪れてオハイオのイギリス人船員への引き渡しを通告した。ピーターセン船長やアメリカ人船員は不満を感じたものの従うほかなく、荷物を纏めて船をイギリス人船員に引き渡した。 彼らは知らなかったが、1942年1月以降、イギリス政府はアメリカ政府との間でマルタ島への補給船団のために大型・高速の石油タンカーを提供してくれるよう交渉していた。大量の石油を積載しつつ、敵の攻撃を避けるためにイギリス商船隊(英語版)が保有するいかなるタンカーよりも速い16ノットで航行できる性能が求められていた。前年の真珠湾攻撃以降、日本との間で太平洋戦争に突入していたアメリカにとっても貴重な大型タンカーをイギリス側に引き渡すことについては、アメリカ海軍などから強い反対を受けた。しかしながら、同年4月までにイギリス側は2隻の大型タンカーの提供を受けるという承諾をアメリカ側から取り付けることに成功した。そしてその2隻こそ、前述のケンタッキーそしてオハイオだったのである。 7月10日、ピーターセン船長はなんの公式な式典も好意もなしにオハイオを引き渡した。前夜にアメリカからイギリスへと船籍を移されていたオハイオは、アメリカの商船旗が降ろされ、代わって「赤雑巾」のあだ名を持つイギリス商船旗が掲げられた。運航に当たって7月25日にオハイオは便宜上イーグル・オイル・アンド・シッピング・カンパニー(英語版)に引き渡された。同社は軍事輸送省から、オハイオが船団運航に重要であり、それにあたっては乗員の勇気と素質によるところが大きい旨を告げられた。 オハイオの運航要員が集められるにつれて、オハイオが参加する船団が大規模なものであることが明らかになっていった。オハイオの船長には、建造中の他船の船長になる予定を急遽変更されたダドリー・メーソン(英語版)が、機関長にはジミー・ワイルドが任命された。オハイオがイギリス船籍になって48時間後、新たな乗員が編成を完結した。任務の重要性から乗員はいずれもイーグル社船隊で経験豊富な者が選抜され、乗員77名のうち24名は陸軍・海軍から派遣された操砲要員であった。オハイオはその後グラスゴーのキング・ジョージ5世ドック(英語版)へ移動し、煙突後部にボフォース40mm単装機関砲1門、また各所にエリコン20mm単装機銃6門が増設され、従来からの備砲と合わせてタンカーとしては異例の重武装となった。
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