「ページ先生の秘密」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 07:26 UTC 版)
「ウォルター・ページ」の記事における「「ページ先生の秘密」」の解説
明治の初期、鉄道が日本で開業した頃は、列車の運行計画はページを含めたお雇い外国人らが作成していた。当初は、運行区間も短く列車本数も少なかったため、列車の運行計画を作成することはそれほど難しいことではなかったが、次第に開業区間が伸びて列車本数が増えてくると、列車の運行計画を図示した「列車ダイヤ」(ダイヤグラム)を用いるのでなければ、運行計画の作成が困難となっていった。 列車ダイヤは、横軸に時間、縦軸に距離(駅)を取って、そこに斜めの線で列車の運行を示した図である。ページらお雇い外国人は、おそらくダイヤグラムを作成して運行計画を行っていたのであろうと推定されているが、正確な実情は判明していない。通説では、日本で初めてダイヤグラムを用いて運行計画を行ったのはページであり、彼は自室にこもって秘密裏にダイヤグラムを使った運行計画を作成すると、日本人職員には時刻表の形式に書き改めたものだけを示していた、とされる。このため、ページは日本の「列車ダイヤの祖」とされる。 日本人の職員は、双方向の列車がちょうどよい時刻に駅ですれ違うことのできるうまい運行計画を、どうやって作成できるのか不思議に思っていたが、ある日ページが留守にしている機会に部屋を調べたところ、ダイヤグラムの紙片を発見し、その意味を解読したために日本人にも運行計画ができるようになった、という「ページ先生の秘密」という話が伝えられている。これにさらに尾びれを付けた話として、この秘密が暴かれたページは存在意義を失って、解任されてすごすごと帰国した、とまで書かれているものもある。しかし、当時の鉄道関係のお雇い外国人の多くは当初の3年契約の期限満了とともに解雇されて帰国しているのに対し、ページは無期限に雇用を延長されて定年まで勤めあげており、解任されて帰国したという事実はない。また、カナダに移住してからのページに対して日本から送られた書簡で、日本の運行計画関係者とページがなおも親交があることを示唆する文が見つかっており、ページの秘密を「盗んだ」ということとは整合していない。「ページ先生の秘密」の伝承は、鉄道業界の都市伝説であり、事実ではないとする見解が有力となっている。 なお、残されている資料として、ページが作成した1882年(明治15年)3月の名古屋 - 岐阜間の列車ダイヤ、日本人が作成した同年5月の武豊 - 大府間機関車運用図表があり、この頃には日本人にもダイヤグラムを用いて運行計画を作成する技術が伝わっていたものとされる。また1884年(明治17年)10月に山陽鉄道が刊行した『英国鉄道論』という翻訳書に列車ダイヤのことを解説した記述があるため、この時点ではダイヤグラムを用いた運行計画は、完全に公知のものとなっている。
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