浅野長矩 浅野長矩の概要

浅野長矩

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浅野 長矩
浅野 長矩
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文7年8月11日1667年9月28日
死没 元禄14年3月14日1701年4月21日
改名 犬千代(幼名)、長矩
別名 又一郎、又市郎(通称
諡号 梅谷
戒名 冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士
墓所 高野山悉地院(無量光院)
官位 従五位下内匠頭
幕府 江戸幕府
播磨赤穂藩主[1]
氏族 浅野氏
父母 父:浅野長友、母:内藤忠政の娘・波知
兄弟 長矩長広(大学)
正室:浅野長治の娘・阿久里
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家系

赤穂浅野家は広島藩浅野家の傍流の一つで、浅野長政の三男・長重を祖とする。長政が慶長11年(1606年)に、長男・幸長紀伊37万石とは別に、自らの隠居料として支給された常陸真壁に5万石を慶長16年(1611年)の長政の死後、長重が継いだことに始まる。長重は元和8年(1622年)、常陸笠間に転封する。寛永9年(1632年)に長重が死去すると嫡男・長直が跡を継ぐ。正保2年(1645年)長直は赤穂へと転封となる。長直は、赤穂城築城、城下の上水道の設備、赤穂塩開発などをおこない、藩政の基礎を固めた藩主として知られる。長直の後は嫡男・長友が継承、そして長友の嫡男が長矩である。(系譜も参照

生涯

赤穂藩主

寛文7年8月11日1667年9月28日)、浅野長友の長男として江戸鉄砲洲(現東京都中央区明石町)にある浅野家上屋敷(現在聖路加国際大学がある場所)において生まれる。母は長友正室で鳥羽藩主・内藤忠政の娘・波知。幼名は祖父・長直、父・長友と同じ又一郎

寛文11年(1671年)3月に父・長友が藩主に就任したが、その3年後の延宝3年1月26日1675年2月20日)に長友が死去。また生母である内藤氏の波知も寛文12年12月20日1673年2月6日)に亡くなっており、長矩は幼少期に父も母も失った。

延宝3年3月25日(1675年4月19日)、長矩は満7歳時(数えで9歳)に赤穂浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となる。同年4月7日5月1日)には4代将軍・徳川家綱に初めて拝謁し、父の遺物備前守家の刀を献上。さらに同年閏4月23日(6月16日)には、三次藩主・浅野長治の娘・阿久里姫との縁組が江戸幕府に出願され、8月8日9月27日)になって受理された。これにより阿久里は延宝6年(1678年)より赤穂藩の鉄砲洲上屋敷へ移った。

延宝8年(1680年)6月26日、叔父の内藤忠勝が増上寺にて、永井尚長に刃傷に及ぶ。忠勝は切腹、長矩も謹慎する。

同年8月18日1680年9月10日)に従五位下に叙せられ[注釈1 1]、さらに21日には祖父・長直と同じ内匠頭の官職を与えられた[注釈1 2]

天和元年(1681年)3月、幕府より江戸神田橋御番を拝命。(1681年)天和2年3月28日1682年5月5日)には幕府より朝鮮通信使饗応役の1人に選ばれ、長矩は、来日した通信使の伊趾寛(通政大夫)らを8月9日に伊豆三島(現静岡県三島市)にて饗応した。なおこの時三島宿で一緒に饗応にあたっていた大名は、のち赤穂藩が改易された際に城受け取り役となる備中足守藩主・木下公定であった。

天和3年2月6日1683年3月4日)には、霊元天皇勅使として江戸に下向予定の花山院定誠千種有能饗応役を拝命し、3月に両名が下向してくるとその饗応にあたった。このとき高家吉良義央が勅使饗応指南役として付いていたが、浅野は勅使饗応役を無事務め上げている。なおこの際に院使饗応役を勤めたのは菰野藩主・土方雄豊であった。雄豊の娘は後に長矩の弟・浅野長広と結婚している。この役目の折に浅野家と土方家のあいだで縁談話が持ち上がったと考えられる。

勅使饗応役のお役目が終わった直後の5月に阿久里と正式に結婚。またこの結婚と前後する5月18日には家老・大石良重大石良雄の大叔父、また浅野家の親族)が江戸で死去している。大石良重は若くして筆頭家老になった大石良雄の後見人をつとめ、また幼少の藩主浅野長矩を補佐し、2人に代わって赤穂藩政を実質的に執ってきた老臣である。

この年の6月23日8月15日)にはじめて所領の赤穂に入り、大石良雄以下国許の家臣達と対面した。以降、参勤交代で1年交代に江戸と赤穂を行き来する。 江戸在留中の貞享元年8月23日(1684年9月24日)に弟の長広とともに連名で山鹿素行に誓書を提出しているが、翌年に素行は江戸で亡くなる。

同年(1684年)8月28日、又従兄の稲葉正休[注釈 1]が江戸城にて、堀田正俊に刃傷に及ぶ。正休はその場にて老中らに斬殺される。長矩、遠慮の儀を老中・戸田忠昌へ伺ったところ「然るべき」との指図あり出仕遠慮した。

貞享4年(1687年)6月5日、江戸の赤穂藩邸が火付けされ、女中の仕業と判り帰国が遅れる。2人を拷問のすえ斬罪にした(第七項も参照)。元禄2年(1689)年1月19日にも藩邸が放火され老中・大久保忠朝に報告する。翌元禄3年12月23日1691年1月21日)に本所の火消し大名に任命され、以降、しばしば火消し大名として活躍した[注釈 2]

元禄6年(1693年12月22日1694年1月17日)には備中松山藩水谷家が改易になったのを受けて、その居城である松山城の城請取役に任じられた。これを受けて長矩は、元禄7年2月18日1694年3月24日)に総勢3500名からなる軍勢を率いて赤穂を発ち、備中松山(現在の岡山県高梁市)へと赴いた。2月23日3月18日)、水谷家家老・鶴見内蔵助より同城を無血で受け取った。長矩は開城の翌日には赤穂への帰途についたが、名代として筆頭家老・大石良雄を松山城に在番させ、翌年に安藤重博が新城主として入城するまでの1年9か月の間、浅野家が松山城を管理することになる。

また元禄7年8月21日(1694年10月9日)、阿久里との間に子がなかったため、弟の長広を仮養子に迎え入れるとともに新田3,000石を分知して幕府旗本として独立させた。さらに翌元禄8年12月29日1696年2月2日)には長矩が疱瘡をわずらって一時危篤状態に陥ったため、長広を正式に養嗣子として万が一に備えた。なお「長矩危篤」の報は原元辰(足軽頭)を急使として大石良雄ら国許の重臣にも伝えられた[注釈 3]

しかしその後、長矩は容態を持ち直して、元禄9年5月頃(1696年6月頃)には完治した。この前後の5月9日6月8日)火消し大名としての活躍から本所材木蔵火番に任じられる。元禄11年8月1日(1698年9月4日)に再び神田橋御番を拝命。さらに元禄13年6月16日1700年7月31日)には桜田門御番に転じた。同年11月14日12月23日)には弟・長広と土方雄豊の娘の婚儀が取り行われた。

そして元禄14年2月4日1701年3月13日)、2度目の勅使饗応役を拝命することとなる[2]

殿中刃傷

浅野長矩は、幕府から江戸下向が予定される勅使の御馳走人に任じられた。その礼法指南役は天和3年(1683年)のお役目の時と同じ吉良義央であった。しかしこの頃、吉良は高家の役目で上京しており、2月29日まで江戸に戻ってこなかった。そのため吉良帰還までの間の25日間は、長矩が自分だけで勅使を迎える準備をせねばならず、この空白の時間が浅野に「吉良は不要」というような意識を持たせ、2人の関係に何かしら影響を与えたのでは、と推測する説もある。

一方、東山天皇の勅使の柳原資廉高野保春、霊元上皇の院使・清閑寺熈定の一行は、2月17日3月26日)に京都を立った。勅使の品川(現東京都品川区)到着の報告を受けて長矩も3月10日4月17日)、伝奏屋敷[注釈 4]へと入った。3月11日4月18日)、勅使が伝奏屋敷へ到着した。まず老中・土屋政直と高家・畠山基玄らが勅使・院使に拝謁し、この際に勅使御馳走人の浅野も紹介された。翌3月12日4月19日)には勅使・院使が登城し、白書院において聖旨・院旨を将軍・徳川綱吉に下賜する儀式が執り行われた。さらに翌日の3月13日4月20日)、将軍主催の能の催しに勅使・院使が招かれた。この日までは長矩は無事役目をこなしてきた。

そして元禄14年3月14日(1701年4月21日)。この日は将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答するという儀式(勅答の儀)が行われる、幕府の1年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日であった。

この儀式直前の巳の下刻(午前11時40分頃)、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて、吉良義央が留守居番梶川頼照と儀式の打ち合わせをしていたところへ長矩が背後から近づき、吉良義央に切りつけた。梶川が書いた『梶川筆記』に拠れば、この際に浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだとされる。しかし浅野は本来突くほうが効果的な武器であるはずの脇差で斬りかかったため、義央の額と背中に傷をつけただけで致命傷を与えることはできず、しかも側にいた梶川が即座に浅野を取り押さえたために第3撃を加えることはできなかった。騒ぎを見て駆けつけてきた院使饗応役の伊達宗春(村豊)や高家衆、茶坊主たちも次々と浅野の取り押さえに加わり、高家の品川伊氏畠山義寧の両名が吉良を蘇鉄の間に運んだ。長矩もまたその場から連行された。こうして浅野の吉良殺害は失敗に終わった。長矩が連れて行かれた部屋は諸書によって違いがあるが、おそらく中の口坊主部屋と考えられる(『江赤見聞記』『田村家お預かり一件』などが「坊主部屋」と明記している)。

別室にて医師の治療を受けた吉良義央は「浅野内匠頭は、乱心したのではないか」と答えている[3]。もし長矩がこれに同意して認めれば、乱心しての発作的な事件となり、軽微な処分(蟄居・他家お預けなどで助命。長広による家督継承)で済んだのではないかと山本博文[4]は考察している。なお、勅使饗応は相役の伊達宗春が、畠山義寧などの指導を受けながら務めを果たしている。

取調

捕らえられた長矩が取り調べに対し、何と答えたかについての確かな史料はない。それどころか、取り調べが行われたかどうかすら確かな史料からは確認できない。

幕府目付多門重共が書いた『多門筆記』(多門は虚言癖があると言われており、その筆記の取扱いには注意を要する)によると、多門が目付として長矩の取り調べを行った。その際に長矩は

「上へ対し奉りいささかの御怨みこれ無く候へども、私の遺恨これあり、一己の宿意を以って前後忘却仕り討ち果たすべく候て刃傷に及び候。此の上如何様のお咎め仰せつけられ候共、御返答申し上ぐべき筋これ無く、さりながら上野介を打ち損じ候儀、如何にも残念に存じ候。」

とだけ述べ、吉良に個人的遺恨があって刃傷に及んだことは述べたが、刃傷に至る詳しい動機や経緯は明かさなかったという。あとは

「上野介はいかがに相成り候や」

と、吉良がどうなったかだけを気にしている様子だったという。これに対して多門は長矩を思いやって

「老年のこと、殊に面体の疵所に付き、養生も心もとなく」と答えると、長矩に喜びの表情が浮かんだとも書いている。

処断決定

午の下刻(午後1時50分頃)、奏者番陸奥一関藩主・田村建顕の芝愛宕下(現東京都港区新橋4丁目)にあった屋敷にお預けが決まり、田村は急いで自分の屋敷に戻ると、桧川源五・牟岐平右衛門・原田源四郎・菅治左衛門ら一関藩藩士75名を長矩身柄受け取りのため江戸城へ派遣した。未の下刻(午後3時50分頃)、一関藩士らによって網駕籠に乗せられた長矩は、不浄門とされた平川口門より江戸城を出ると芝愛宕下にある田村邸へと送られた。

この護送中に江戸城では、長矩の処分が決定していた。将軍・綱吉は朝廷と将軍家との儀式を台無しにされたことに大激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家5万石の取り潰しを即決した。前述の『多門筆記』によると、若年寄加藤明英稲垣重富がこの決定を目付の多門に伝えたが、多門は

「内匠頭五万石の大名・家名を捨て、お場所柄忘却仕り刃傷に及び候程の恨みこれあり候は、乱心とても上野介に落ち度これあるやも測りがたく(略)大目付併私共再応糾し、日数の立ち候上、いか様とも御仕置き仰せつけられるべく候。それまでは上野介様も、慎み仰せつけられ、再応糾しの上、いよいよ神妙に相い聞き、なんの恨みも受け候儀もこれなく、全く内匠頭乱心にて刃傷に及び候筋もこれあり候はば、御称美の御取り扱いもこれあるべき所、今日に今日の御称美は余り御手軽にて御座候」

と抗議したと書いている。これを聞いて加藤と稲垣も「至極尤もの筋。尚又老中方へ言上申すべし」と答え、慎重な取り調べを老中に求めてくれたというが、結局は大老側用人柳沢吉保が「御決着これ有り候上は、右の通り仰せ渡され候と心得べし」と称して綱吉への取次ぎを拒否したため、即日切腹が確定したのだと同書中で述べている。

江戸城内や幕府の行事における刃傷事件はそれまでにも何件も発生していたが、即日切腹の例は浅野長矩が初めてであった。ここまで綱吉が切腹を急いだのは、政治的意味合いがあったとする説がある。長矩の母方の叔父・内藤忠勝と又従兄・稲葉正休が同じような事件を起こしたことがある(後述)にも拘わらず、近親者が同様の事件を起こしたことから、それまでの処罰の軽さがこの事件の一因となったと考え、苛烈な処断となったとする説がある。

長矩切腹

浅野内匠頭終焉の地

以下は一関藩の『内匠頭御預かり一件』による。

申の刻(午後4時30分頃)に田村邸についた長矩は、出会いの間という部屋の囲いの中に収容され、まず着用していた大紋を脱がされた。その後1汁5菜の料理が出されたが、長矩は湯漬けを2杯所望した。田村家でも即日切腹とは思いもよらず、当分の間の預かりと考えていたようで、長期の監禁処分を想定し、長矩の座敷のふすまを釘付けにするなどしていたという。申の下刻(午後6時10分頃)に幕府の正検使役として大目付庄田安利、副検使役として目付・多門重共、同・大久保忠鎮らが田村邸に到着し、出合の間において浅野に切腹改易を宣告した。これに対して浅野は「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有難く存知奉り候」と答えたという。

宣告が終わるとただちに障子が開けられ、長矩の後ろには幕府徒目付が左右に2人付き、庭先の切腹場へと移された。庄田・多門・大久保ら幕府検使役の立会いのもと、長矩は磯田武大夫(幕府徒目付)の介錯で切腹した。享年35。

なお、比較的資料の価値が高い『内匠頭御預かり一件』には、長矩の側用人・片岡高房と礒貝正久宛てに長矩が遺言を残したことが記されている。それによれば「此の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむことを得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という遺言であったという。尻切れになっている謎めいた遺言であるが、これが原文なのか、続く文章は幕府をはばかって田村家で消したのか、真相は不明である。

その後、田村家から知らせを受けた浅野家家臣の片岡高房、糟谷勘左衛門(用人250石役料20石)、建部喜六(江戸留守居役250石)、田中貞四郎(近習150石)、礒貝正久(近習150石)、中村清右衛門(近習100石)らが田村邸に赴き、介錯に失敗し首を二度斬りされた長矩の遺体を確認した。彼らが遺体を引き取り高輪泉岳寺に埋葬された。(首を二度斬りしたため周囲に血が飛び散り、かかったという浅野長矩の「血染めの梅」が泉岳寺に現存する。)

長矩切腹を聞いた江戸の町人や浪人が、赤穂藩邸に押し入り暴れる者が続出した。人数は四、五十人にも及び、その中には、鉄砲洲の対岸から舟で乗り付け上屋敷に傾れ込む者まで出現した。大垣藩や浅野本家の広島藩から警護のものが派遣されている。堀部武庸も暴徒の撃退に加わり、金品強奪や破壊から藩邸を守った(『堀部武庸日記』。書簡にも同様の内容がある)[5]

田村家上屋敷跡にあった追悼碑は撤去されたが[6]、田村邸から50mほど離れた場所に「浅野内匠頭終焉之地」碑が残っている。また、理由不明ながら碑が後ろ向きに建てられていたが[7]、現在は再設置され、修正されている(画像参照)。

後史

元禄赤穂事件

長矩の遺臣たちの吉良邸討ち入りは、赤穂事件の項を参照のこと。

周囲の反応

朝廷

  • 当事者であった柳原資廉は、『関東下向道中記』において事件当日、「馳走人浅野内匠、乱気。次の廊下にて吉良上野介を斬る。勅答の儀に役を放りて凶事をおこす。言語に絶するなり」と率直な感想が記されている。また、吉良が刃傷で出血した事については「穢れ事に及ぶ事でもなく、苦しからず」としている。
  • 『基煕公記』では義央が刃傷され即日、浅野が切腹となったことについて書かれた書状を東山天皇が見た際の様子については「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と記し、のちに、近衛基煕が高野保春と事件の顛末と切腹処分について話した際に、高野も「心中、歓悦している」と述べたことなどが書かれている[8]正親町公通も東山天皇が長矩の切腹処分につき幕府の迅速な対応を喜ばれたと記している[9]

徳川一門

  • 高松藩松平頼常は、「内匠頭乱心同然ノ仕業二ツキ、御仕置二仰付ラレ候」と述べている[10]
  • 尾張藩の記録には、「只殿中狼藉ノ趣ニテ切腹ナレバ誰二対シ恨ヲ述ン」とあり、『易水連快録』では「長矩ハ益ナキ事ヲ仕出シ申サレ候へバ、先祖末代マデノ不義ニト唱へケル」と記されている[11]

赤穂浅野氏のその後

将軍綱吉が死去した宝永6年(1709年)8月には、広島浅野宗家にお預けとなっていた長矩の実弟の浅野大学長広が綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710年)9月16日に改めて、安房国朝夷郡平郡に500石の所領を与えられ、旗本に復した。また、これとは別に浅野宗家からも300石を支給され続けた。これにより、赤穂浅野家(浅野大学家)は旗本ながら御家再興を果たした。そして、長矩が藩主であった頃に赤穂藩から分与されていた赤穂新田3,000石から減封の上、播磨からも移封ではあるが、浅野大学家(長広系)は存続することとなった[12][13]。以降、赤穂浅野家は旗本として存続し、明治維新を迎えた。維新後の明治元年(1868年)9月23日からは旧幕府の推挙により、明治天皇より改めて禄高300俵を賜り[14]浅野長栄弁官の支配とされた。赤穂浅野家は、浅野長栄の孫である長楽の代まで存続したが、長楽が妻帯しないまま1986年(昭和61年)に病死し、これにより断絶となった[15][16]


注釈

  1. ^ 従五位下叙位の口宣案(辞令)。
    口宣案
    上卿 小倉大納言
    延寳八年八月十八日 宣旨
    源長矩
    宜叙從五位下
    藏人頭左近衞權中將宗顯
    訓読文
    上卿(しゃうけい) 小倉大納言
    延宝8年(1680年)8月18日宣旨。
    源長矩、宜しく従五位下に叙すべし。
    蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕(松木宗顕)、奉(うけたまは)る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)
  2. ^ 内匠頭任官の口宣案(辞令)。
    口宣案
    上卿 小倉大納言
    延寳八年八月十八日 宣旨
    從五位下源長矩
    宜任内匠頭
    藏人頭左近衞權中將宗顯
    訓読文
    上卿 小倉大納言。
    延宝8年(1680年)8月18日宣旨。
    従五位下源長矩、宜しく内匠頭に任ずべし。
    蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕、奉る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)

出典

  1. ^ 正林の祖母と長矩の祖母が姉妹(共に板倉重宗の娘)。
  2. ^ 元禄11年9月6日1698年10月9日)に発生した江戸の大火の際、吉良義央は鍛冶橋邸を全焼させて失ったが、このとき消防の指揮を執っていたのは浅野長矩であった。長矩が吉良家の旧邸を守らなかったことで吉良の不興を買い、後の対立につながったのではないかなど、刃傷の遠因をこの時に求めようとする説もある。
  3. ^ 原はのちに殿中刃傷の報を国許に伝える最初の急使にも選ばれている。
  4. ^ 千代田区丸の内1-4日本工業倶楽部
  5. ^ 同様に織田家藩邸のある通りも避けている。
  6. ^ ただし金丸父子の忠見氏・中山氏との血縁はない。
  7. ^ 竜田(片桐家)浪人の家祖・堀部次郎左衛門が妻の叔父・小崎五郎左衛門(1,500石)を頼って正保四年(1647年)に熊本に来たとされる。
  1. ^ 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年、14-15頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 26頁。
  3. ^ 「上野介返答ニハ、拙者何之恨請候覚無之全内匠頭乱心ト相見へ申候」(「多門伝八郎覚書」)
  4. ^ 山本博文『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本−確かな史料に基づいた、最も事実に近い本当の忠臣蔵!』中経出版 2003など
  5. ^ 谷口眞子「赤穂浪士の実像」41ページ
  6. ^ 環二通りの建設工事による(2011年、東京都)
  7. ^ 『図説 忠臣蔵』(西山松之助監修/河出書房新社))
  8. ^ 「『応円満院基煕公記』百五十二(元禄十四年自正月至三月)」。 
  9. ^ 『正親町公通卿雜話』45p(東京大学・文学部宗教学研究室)
  10. ^ 『新集赤穂義士史料』より「義士関係書状」
  11. ^ 堀田文庫『易水連快録』
  12. ^ 泉(1998) p.278
  13. ^ 山本(2012a) 第七章三節
  14. ^ 『冷光君御伝記 播磨赤穂浅野家譜』
  15. ^ 泉岳寺浅野家墓碑
  16. ^ 義士銘々傳より(発行:泉岳寺)、wikipedia「浅野長広」項目も参照
  17. ^ 山本博文『江戸の「事件現場」を歩く』
  18. ^ 足立栗園『赤穂義士評論 : 先哲』積文社
  19. ^ a b 三上参次編 国立国会図書館デジタルコレクション『寛政重修諸家譜』第2集 364p 国民図書
  20. ^ 『土芥寇讎記』東京大学史料編纂所所蔵
  21. ^ a b 戴文捷・綱川 歩美・鈴木 圭吾「『土芥寇雄記』に求められた君主像」
  22. ^ 佐藤宏之「『土芥寇讎記』における男色・女色・少年愛 : 元禄時代を読み解くひとつの手がかりとして 」
  23. ^ 『諫懲記後正』
  24. ^ 『冷光君御伝記』
  25. ^ 「忠臣蔵で江戸を探る脳を探る」月刊『TOWN-NET』、1998-99年
  26. ^ 立川昭二『江戸 病草紙―近世の病気と医療 (ちくま学芸文庫)』
  27. ^ 『和名類聚抄』
  28. ^ 『黄帝八十一難経』
  29. ^ 宮澤誠一 『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』 三省堂
  30. ^ a b c 赤穂市『赤穂市史 第5巻』
  31. ^ 廣山堯道『赤穂塩業史』
  32. ^ 山下恭『近世後期瀬戸内塩業史の研究』思文閣出版
  33. ^ 木哲浩「赤穂藩における藩札の史料収集と研究」(日本銀行金融研究所委託研究報告 No . 4)
  34. ^ ひょうごのため池 兵庫県庁
  35. ^ 『上郡民報』2016年12月・2017年1月合併号
  36. ^ a b 西播磨県民局 光都土地改良センター『西はりま 地域をまもる水物語』
  37. ^ 相生市史編纂専門委員会 編『相生市史』第4巻 相生市
  38. ^ 兵庫県たつの市「赤穂浅野家資料」。再度の散逸防止のため非公開(教育事業部歴史文化財課)
  39. ^ 白峰旬「元禄14年の脇坂家による播磨国赤穂城在番について--播磨国龍野藩家老脇坂民部の赤穂城在番日記の分析より」
  40. ^ wikipedia記事「広島藩」「伊達政宗」なども参照
  41. ^ 「當家銘刀「美濃千寿院」ヲ選ビシカド「斯様ナ節に用フ可キニ非ズ」等激シク叱責受クル」(「北郷杢助手控之写」)
  42. ^ 「田村家家伝文書」(一関市博物館)
  43. ^ 一関藩『内匠頭御預かり一件』
  44. ^ 『伊達治家記録』(だてじけきろく)より「肯山公治家記録」
  45. ^ 山本博文「赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)」(吉川弘文社、2013年)
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  47. ^ a b 熊本県立図書館蔵『御家譜続編』
  48. ^ 「寛文七年 極月廿七日 浅野内匠頭書状」(永青文庫所蔵)
  49. ^ 堀内伝右衛門『堀内伝右衛門覚書』
  50. ^ 堀内伝右衛門『赤穂義臣対話』
  51. ^ a b c d e 堀内伝右衛門『堀内伝右衛門覚書』
  52. ^ 堀内伝右衛門『赤穂義臣対話』
  53. ^ a b 「肥後細川家侍帳」「肥後細川藩拾遺」
  54. ^ 泉岳寺から放棄された細川家の鐘は、明治に二束三文で海外に流出した。駒澤大学名誉教授・廣瀬良弘『禅宗地方展開史の研究』(ウイーン美術館)
  55. ^ 井田泰人「熊本時代の大塚磨について」近畿大学民俗学研究所、民俗文化 (28)、2016年
  56. ^ 龍野藩家老の脇坂民部『赤穂城在番日記』に、「6月25日 昨夜(6月24日の夜)、左次兵衛が乱心にて、貞右衛門を切り殺した。」という記録がある
  57. ^ 同日記に「赤穂の子供が赤穂城の堀で釣りを行っている」ほかの記述があり、刃傷事件後には「老中・阿部正武へ明後日(6月27日)早飛脚にて大坂を経由して江戸へ遣わし公儀の沙汰待ちの所存」の旨が記載。
  58. ^ 内匠頭遺品の赤穂市への返還問題があり、たつの市は、赤穂市が主幹する「忠臣蔵サミット」参加の対象外。『平成19年 忠臣蔵サミット』資料より「忠臣蔵ゆかりの地」(赤穂市)






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