浅野長矩 治世

浅野長矩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/20 09:21 UTC 版)

治世

  • 当時の赤穂藩で導入されていた塩水濃縮法による入浜塩田法を他家・他藩にも教え、他藩の者たちが学びにくることを許可し、受け入れていた。そのことを示す事例として、以下のようなものがある。
    • 延宝8年(1680年)に製鉄技術調査のために中国地方を訪ねた陸前(現宮城県)本吉郡馬龍村の佐藤三右衛門が帰路に、たまたま赤穂に立ち寄り、塩作りの様子を目にした。本吉郡内では古来から製塩が行われていたが、海水をそのまま釜で煮る原始的な方法で莫大な薪を消費していたため、三右衛門は、人手も燃料も効率のよい播州流製塩法を導入しようと、3年後の天和3年(1683年)2月16日に弟の五郎七ら3人で藩の許可を得て仙台を出発、赤穂に5月末まで逗留し、塩煮法を学んだ。帰りには浜子2人を2年間の約束で連れ帰り、翌貞享元年(1684年)にも再来穂した五郎七らが浜大工を雇い入れている。その時のこれらの雇用契約を赤穂の大年寄や庄屋が承認した文書が現存している[30]。三石衛門らが営んだ塩田は、それまで仙台藩で行われていた海水直煮法のおよそ3倍の成果があり、新製法を導入して2年で借金を返済し、その後も多くの利潤を上げ、三石衛門は大番士に出世した。そして、赤穂の製塩技法は東北各地に伝播していったという[31]。天和3年(1683年)になって浅野長矩は初めて所領の赤穂に入っているが、佐藤三右衛門らが赤穂藩で上記のように受け入れられ、赤穂藩内でも税収に大きく関わり、重要だったこうした製塩技法を学ぶことができたのは、当時の藩主であった浅野の許可が必要であったとされる[30]
      • ただ、この時期すでに入浜塩田法は赤穂のみならず瀬戸内の諸藩に広まり、播磨備前備中備後安芸周防長門阿波讃岐伊予の10か国でこうした入浜塩田法が行われ、「十州塩田」と総称されていた[32]。そのため、赤穂藩はこうした製塩技法を秘匿しておく必要性がないと判断した可能性がある。
  • 藩札の導入の開始についても早期から着手していた。藩札の導入は寛永7年(1630年)に発行した備後福山藩、寛文元年(1661年)に開始した越前福井藩などが最初といわれているが、1700年・1800年代に藩札を導入し発行し始めた諸藩が多い中、赤穂藩は延宝8年(1680年)から藩札の導入を開始していた。この時期は、浅野長矩が藩主であった時期であり、こうした藩札の導入については、藩主の決定と幕府への届け出が必要であった。また、名目上として藩札を発行し、藩札の専一流通を規定した藩は数多いが、赤穂藩ほど徹底していた例は稀で、赤穂藩では領地が山に囲まれた地形だったこともあり、領外との取引を行う商人などを除き、領内での藩札の専一流通が確実に行われていたことが史料などによって確認されている[33]。なお、藩札は領内の通貨不足への対応や財政赤字を補填するため目的などで発行されるため、赤穂藩と浅野長矩はこうしたことや藩札の専一流通による領内の金融政策の掌握などを目的として、諸藩に先駆けて早い時期から藩札の導入を試みたと考えられている。
  • 現在の兵庫県のため池の数が全国で一番多いということからわかるように、播磨は古来から年間降水量が全国平均の約半分ほどの雨が少ない瀬戸内式気候であり、こうした気候や地形などにより慢性的な水不足などに陥りやすい地域であったことから、昔から治水事業が盛んに行われていた[34]。そのため、浅野長矩もその治世で、以下のような治水事業・築造を行っていた。
    • 与井の土手:千種川の水害を防ぐために作った堤防[35]
    • 赤松のたくみ池[36]
    • 鳳宮池[36]
    • 山野里大池:元禄年間に浅野長矩によって築造されたとされる。後に、地域の米作りや治水に大きな業績と偉業を果たした浅野長矩に感謝の意を表すために、寛政12年(1800年)に山野里の村人たちが大池を臨む池畔に浅野長矩公供養碑を建立している。
    • 瓜生大池:瓜生村・上村・菅谷村の百姓が毎年の水不足で困っているという百姓の悩みを聞いて、浅野の殿様が大きな池を掘り、掘り出した土で新たに田畑を開墾することにしたという伝説が残る。史料としては、小林楓村の『相生史話』に収録されている延享4年(1747年)「播磨国赤穂郡瓜生村差出明細帳」に「一、溜池三ヶ所、内、字大池、一ヶ所、長九十六間、根置二十一間、馬踏四間、但田方七町五反歩程の用水に懸申候…覚え、一、新田畑は元禄十二年卯新開浅野内匠頭様御検地」とあるように、浅野長矩が瓜生大池を始めとしたため池3か所を築造し、瓜生大池には96間の土手、根置(土手の下部)は21間、馬踏(土手の上部)は4間の堤防を築いたこと。新しい田畑などを元禄12年に開き、その後、差出検地(領民が石高を申告する検地方法)を行ったことが記録として残っており、実際に浅野長矩が築造し、赤穂郡瓜生村において新しく開墾された田畑などを検地していたことがわかっている[37]

注釈

  1. ^ 従五位下叙位の口宣案(辞令)。
    口宣案
    上卿 小倉大納言
    延寳八年八月十八日 宣旨
    源長矩
    宜叙從五位下
    藏人頭左近衞權中將宗顯
    訓読文
    上卿(しゃうけい) 小倉大納言
    延宝8年(1680年)8月18日宣旨。
    源長矩、宜しく従五位下に叙すべし。
    蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕(松木宗顕)、奉(うけたまは)る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)
  2. ^ 内匠頭任官の口宣案(辞令)。
    口宣案
    上卿 小倉大納言
    延寳八年八月十八日 宣旨
    從五位下源長矩
    宜任内匠頭
    藏人頭左近衞權中將宗顯
    訓読文
    上卿 小倉大納言。
    延宝8年(1680年)8月18日宣旨。
    従五位下源長矩、宜しく内匠頭に任ずべし。
    蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕、奉る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)

出典

  1. ^ 正林の祖母と長矩の祖母が姉妹(共に板倉重宗の娘)。
  2. ^ 元禄11年9月6日1698年10月9日)に発生した江戸の大火の際、吉良義央は鍛冶橋邸を全焼させて失ったが、このとき消防の指揮を執っていたのは浅野長矩であった。長矩が吉良家の旧邸を守らなかったことで吉良の不興を買い、後の対立につながったのではないかなど、刃傷の遠因をこの時に求めようとする説もある。
  3. ^ 原はのちに殿中刃傷の報を国許に伝える最初の急使にも選ばれている。
  4. ^ 千代田区丸の内1-4日本工業倶楽部
  5. ^ 同様に織田家藩邸のある通りも避けている。
  6. ^ ただし金丸父子の忠見氏・中山氏との血縁はない。
  7. ^ 竜田(片桐家)浪人の家祖・堀部次郎左衛門が妻の叔父・小崎五郎左衛門(1,500石)を頼って正保四年(1647年)に熊本に来たとされる。
  1. ^ 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年、14-15頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 26頁。
  3. ^ 「上野介返答ニハ、拙者何之恨請候覚無之全内匠頭乱心ト相見へ申候」(「多門伝八郎覚書」)
  4. ^ 山本博文『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本−確かな史料に基づいた、最も事実に近い本当の忠臣蔵!』中経出版 2003など
  5. ^ 谷口眞子「赤穂浪士の実像」41ページ
  6. ^ 環二通りの建設工事による(2011年、東京都)
  7. ^ 『図説 忠臣蔵』(西山松之助監修/河出書房新社))
  8. ^ 「『応円満院基煕公記』百五十二(元禄十四年自正月至三月)」。 
  9. ^ 『正親町公通卿雜話』45p(東京大学・文学部宗教学研究室)
  10. ^ 『新集赤穂義士史料』より「義士関係書状」
  11. ^ 堀田文庫『易水連快録』
  12. ^ 泉(1998) p.278
  13. ^ 山本(2012a) 第七章三節
  14. ^ 『冷光君御伝記 播磨赤穂浅野家譜』
  15. ^ 泉岳寺浅野家墓碑
  16. ^ 義士銘々傳より(発行:泉岳寺)、wikipedia「浅野長広」項目も参照
  17. ^ 山本博文『江戸の「事件現場」を歩く』
  18. ^ 足立栗園『赤穂義士評論 : 先哲』積文社
  19. ^ a b 三上参次編 国立国会図書館デジタルコレクション『寛政重修諸家譜』第2集 364p 国民図書
  20. ^ 『土芥寇讎記』東京大学史料編纂所所蔵
  21. ^ a b 戴文捷・綱川 歩美・鈴木 圭吾「『土芥寇雄記』に求められた君主像」
  22. ^ 佐藤宏之「『土芥寇讎記』における男色・女色・少年愛 : 元禄時代を読み解くひとつの手がかりとして 」
  23. ^ 『諫懲記後正』
  24. ^ 『冷光君御伝記』
  25. ^ 「忠臣蔵で江戸を探る脳を探る」月刊『TOWN-NET』、1998-99年
  26. ^ 立川昭二『江戸 病草紙―近世の病気と医療 (ちくま学芸文庫)』
  27. ^ 『和名類聚抄』
  28. ^ 『黄帝八十一難経』
  29. ^ 宮澤誠一 『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』 三省堂
  30. ^ a b c 赤穂市『赤穂市史 第5巻』
  31. ^ 廣山堯道『赤穂塩業史』
  32. ^ 山下恭『近世後期瀬戸内塩業史の研究』思文閣出版
  33. ^ 木哲浩「赤穂藩における藩札の史料収集と研究」(日本銀行金融研究所委託研究報告 No . 4)
  34. ^ ひょうごのため池 兵庫県庁
  35. ^ 『上郡民報』2016年12月・2017年1月合併号
  36. ^ a b 西播磨県民局 光都土地改良センター『西はりま 地域をまもる水物語』
  37. ^ 相生市史編纂専門委員会 編『相生市史』第4巻 相生市
  38. ^ 兵庫県たつの市「赤穂浅野家資料」。再度の散逸防止のため非公開(教育事業部歴史文化財課)
  39. ^ 白峰旬「元禄14年の脇坂家による播磨国赤穂城在番について--播磨国龍野藩家老脇坂民部の赤穂城在番日記の分析より」
  40. ^ wikipedia記事「広島藩」「伊達政宗」なども参照
  41. ^ 「當家銘刀「美濃千寿院」ヲ選ビシカド「斯様ナ節に用フ可キニ非ズ」等激シク叱責受クル」(「北郷杢助手控之写」)
  42. ^ 「田村家家伝文書」(一関市博物館)
  43. ^ 一関藩『内匠頭御預かり一件』
  44. ^ 『伊達治家記録』(だてじけきろく)より「肯山公治家記録」
  45. ^ 山本博文「赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)」(吉川弘文社、2013年)
  46. ^ a b c d e f 中島康夫「赤穂義士御預始末 永青文庫特別展」中央義士会、57号、2007年
  47. ^ a b 熊本県立図書館蔵『御家譜続編』
  48. ^ 「寛文七年 極月廿七日 浅野内匠頭書状」(永青文庫所蔵)
  49. ^ 堀内伝右衛門『堀内伝右衛門覚書』
  50. ^ 堀内伝右衛門『赤穂義臣対話』
  51. ^ a b c d e 堀内伝右衛門『堀内伝右衛門覚書』
  52. ^ 堀内伝右衛門『赤穂義臣対話』
  53. ^ a b 「肥後細川家侍帳」「肥後細川藩拾遺」
  54. ^ 泉岳寺から放棄された細川家の鐘は、明治に二束三文で海外に流出した。駒澤大学名誉教授・廣瀬良弘『禅宗地方展開史の研究』(ウイーン美術館)
  55. ^ 井田泰人「熊本時代の大塚磨について」近畿大学民俗学研究所、民俗文化 (28)、2016年
  56. ^ 龍野藩家老の脇坂民部『赤穂城在番日記』に、「6月25日 昨夜(6月24日の夜)、左次兵衛が乱心にて、貞右衛門を切り殺した。」という記録がある
  57. ^ 同日記に「赤穂の子供が赤穂城の堀で釣りを行っている」ほかの記述があり、刃傷事件後には「老中・阿部正武へ明後日(6月27日)早飛脚にて大坂を経由して江戸へ遣わし公儀の沙汰待ちの所存」の旨が記載。
  58. ^ 内匠頭遺品の赤穂市への返還問題があり、たつの市は、赤穂市が主幹する「忠臣蔵サミット」参加の対象外。『平成19年 忠臣蔵サミット』資料より「忠臣蔵ゆかりの地」(赤穂市)






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