東京箱根間往復大学駅伝競走
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歴史
創設当時の関係者達から取材した詳細な記録としては、箱根駅伝が着想されたきっかけは以下のとおりである[66]。1919年10月、東京高等師範学校出身の金栗四三(日本人初のオリンピック選手、「日本マラソン界の父」と呼ばれた)、明治大学競走部の沢田英一(明治大学の出口林次郎と札幌~東京間を22日間で走破)、東京高等師範学校体育課教授の野口源三郎(1924年パリオリンピック出場)の3人が、明治大学競走部の山口六郎次(後の国会議員、大日本体育協会常務理事)から招聘され、山口の母校である埼玉県の鴻巣で行われた小学校の運動会で審判を務めた際、東京との車中での3人の談論の中で、沢田英一がその年の6月に同窓の出口林次郎と二人で札幌・東京間の走破を成し遂げていたことを踏まえ、世界の耳目を集め、日本の長距離選手を育成するような外地での長距離走はできないものかと考えた[67][68]。このときの結論が「アメリカ大陸横断駅伝」であった。その「予選会」という位置づけで国内での駅伝大会の実施が企図された。アメリカ大陸横断コースで最も大きな障壁となるであろうロッキー山脈の走破を見据え、この「予選会」のコースとして選ばれたのが山越えをコースに含む東京-箱根間であった。金栗らは大学や新聞社を回って参加と協力を訴え、金策に苦労しながら1920年2月14日に第1回箱根駅伝を実施した。箱根駅伝は始まるが、肝心の「アメリカ大陸横断駅伝」は実現しなかった。明治大学の出口林次郎と早稲田大学の生田喜代治らは箱根駅伝の実施に協力を惜しまなかった報知新聞社を訪ねて再び計画への協力を願ったが、実現は難しいという答えしか得られなかった。二人はあきらめず毎日新聞社の資金を得て調査のため1922年にアメリカに渡った。結局「アメリカ大陸横断駅伝」の話はそのまま頓挫した。その後、出口はコーネル大学からベルリン体育大学に学び、母校明治大学で教鞭をとることになった。しかし生田は渡米5年目の1927年メキシコのカンセンシコで事業をめぐるトラブルに巻き込まれて横死している。資料によっては「アメリカに渡った学生が殺害されたため、アメリカ横断駅伝の計画はついえた」という書き方がされていることがあるが、実際には計画は早々に頓挫しており、生田の死によって駅伝計画が中止されたわけではない[69]。
別の説もある。箱根駅伝は、宿駅間を継走し文書や情報を伝達していた宿駅伝馬制(略して「駅伝」)の飛脚(現在の郵便配達制度)をもとに、手紙に見立てた襷を、東京から東海道の宿駅があった鶴見(川崎宿)、戸塚(戸塚宿)、平塚(平塚宿)、小田原(小田原宿)で引継ぎ、箱根町郵便局(箱根関所)に届けて、東京に戻るまでの速さを競う大学対抗戦のイベントとして開催されたという説もある[70]。第1回から第12回までの往路ゴール地点は箱根関所跡で、第22回(箱根神社)を除く第13回から第44回までは箱根町郵便局がゴール地点だった[71][72]。その開催目的は、東海道の要衝として置かれていた箱根関所の廃止(1869年)と、その情報通信の重要性から関所近くに建てられた箱根町郵便局開局(1871年)の50周年を記念すると同時に、寒さや雪で観光客が少なくなる冬の箱根に観光客を呼び込むためで、宿泊客を増やすために2日間に渡って開催されたという説がある。しかし第1回大会・5区箱根の山中で、慶應義塾大学の二木選手(山岳部主将)が遭難して消息が全く不明になり[73]、箱根町の青年団は松明を持って捜索し、小雪が降る寒さの中、木にしがみつき泣きじゃくる選手を発見した。時にマイナス10℃以下になる冬の箱根で、最悪の事態にならずに済んだが、この遭難により観光地箱根のイメージ悪化を懸念し、観光客を呼ぶという目的を公にすることが出来なくなり、「長距離選手を育成する」という目的になったといわれている。現在では「長距離選手を育成する」という目的が定説になっている。当初はイベントだったためルールが曖昧で、人力車夫や陸上以外の他競技の選手が走ったこともあったが、「長距離選手を育成する」という目的になることで回数を重ねるごとに陸上競技性が強くなり、1953年NHKによるラジオ放送、1987年日本テレビが中継を開始するなど放送技術の進化もあり、細かいタイムを競い合う大会になった。ルールが厳格化し競技性が強くなる過程で、駅伝という言葉の意味が「宿駅伝馬制(情報通信の手段)」から「陸上競技(リレー形式での長距離走)」に変化した。そしてその陸上競技の駅伝は、箱根駅伝を参考に全国で開催されるようになり、日本独自のスポーツとして定着した。
黎明期は現在のように開催期日が固定されていたわけではなかった。「学生の本分は勉強」という理由で、午前中に授業をした後で午後からスタートすることもあった[74]。このためにレース途中で日没となり、中でも5区の選手が暗闇の中を走らなければならなかったが、実際には地元の青年団の団員が松明を持って伴走したために事なきを得た[75]。
山登りの5区は当初はスタートとゴールしか決まっておらず、出場校は箱根山中をできるだけ近道をしようと思っていた。選手を心配した地元住民たちが松明を持って伴走するなど協力を得て近道をするチームはなく、全チームが無事に走り終える。しかし山登りのあまりの苦しさに、道端の木にしがみつき泣きじゃくる選手もいた。
1925年の第6回大会で、日本大学は選手の代わりにタスキをもらった人力車夫が走ったこともあり4人抜きを見せたが、翌年の出場を辞退した(人力車夫事件)[76]。
勤労学生の出場で二重登録による失格処分になったり、ゴール直前で失神した選手を関係者がラインまで引きずり込んだにもかかわらず失格にならなかったりと失格に関する基準も曖昧だった[77]。箱根駅伝関係の書籍に出場校の歴代全成績が掲載されているが、公式順位がついているものの実際には失格扱いになっている大学がいくつかある。かつての成績については資料によって若干の相違点が見受けられる。
第二次世界大戦前は学制の違いもあり、大学予科から大学本科まで入れると5回以上の出場が可能だった。大学専門部から予科を経て本科まで通い、最高で8回出場を果たした選手がいる。
第二次世界大戦前から終戦直後に掛けては学生数の絶対的な不足もあって、1チーム10人のメンバーを組むこと自体が困難だった[78]。そのため、戦後すぐのころまでは他の種目の選手が起用されることは決して珍しいことではなかった。同じ陸上競技である短距離や跳躍、投擲選手が起用されたことはまだいい方で、ラグビーやスキーの選手が登場した例も多かったという[79]。現在でも高校から陸上を始めた選手は多く見受けられ、第82回(2006年)・第83回(2007年)大会に出場した亜細亜大の岡田晃や第84回(2008年)・第85回(2009年)・第86回(2010年)に出場した大東文化大の清野篤のように大学から陸上競技を始めた選手もいる。1970年代ごろまでは実業団経由で入った選手も多かった。
モータリゼーション化で交通渋滞が増えてきたのが高度経済成長のころ。全国的な知名度はまだ低かったがコース沿線地域での人気は高かったため、コース周辺の交通渋滞に警察からも開催中止要請が出たこともあった[80]。主催者側と警察側との折衝で15校制や繰り上げスタートなどのルール改正がなされたことにより、中止要請は出なくなり15校制は第78回(2002年)まで続いた。
1960年代から1970年代に体育系学部を擁する大学が台頭したが、この頃は学生運動の時期と重なり好成績にも影響しているとする説もある。
歴代大会
注:出場校数に学連選抜チームは含まない。
回次 | 西暦 / 和暦 |
|
総合優勝校 | 優勝回数 | 出場 校数 |
初出場校 | 概要 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第1回 | 1920年 大正9年 |
2月14日 2月15日 |
東京高等 師範学校 |
初優勝 | 4 | 慶應義塾大学 東京高等師範学校 (現:筑波大学) 明治大学 早稲田大学 |
4校が出場。 呼びかけられた多くの大学・旧制専門学校・師範学校は選手を10人そろえられず、参加を断念。 午前中は授業を行い午後にスタートしたため、ゴールしたときには夜になっていた[81]。 | ||
第2回 | 1921年 大正10年 |
1月8日 1月9日 |
明治大学 | 初優勝 | 7 | 中央大学 東京農業大学 法政大学 |
|||
第3回 | 1922年 大正11年 |
1月7日 1月8日 |
早稲田大学 | 初優勝 | 10 | 東大農学部実科 (現:東京農工大学) 日本大学 日本歯科大学 |
|||
第4回 | 1923年 大正12年 |
1月6日 1月7日 |
早稲田大学 | 2年連続 2度目 | 9 | - | この回から夜間部在籍選手の出場が禁止される (人力車夫などが学籍を置いて出場するケースがあったため)。 | ||
第5回 | 1924年 大正13年 |
1月12日 1月13日 |
明治大学 | 3年ぶり 2度目 | |||||
第6回 | 1925年 大正14年 |
1月6日 1月7日 |
明治大学 | 2年連続 3度目 | 10 | 大会後、日本大学が3区の走者としてエントリー選手ではない選手を出したことが発覚、 順位成績取消は免れたものの、翌年の大会参加を辞退[76]。 | |||
第7回 | 1926年 大正15年 |
1月9日 1月10日 |
中央大学 | 初優勝 | 7 | ||||
第8回 | 1927年 昭和2年 |
4月9日 4月10日 |
早稲田大学 | 4年ぶり 3度目 | 5 | 大正天皇崩御の影響により4月開催。そのため参加校は5校のみとなった。 早稲田大学が初の完全制覇(総合、往路、復路の全部門で優勝)。 | |||
第9回 | 1928年 昭和3年 |
1月7日 1月8日 |
明治大学 | 3年ぶり 4度目 | 10 | 明治大学が初めて13時間台の総合成績を記録。 関西大学を特別招待。 | |||
第10回 | 1929年 昭和4年 |
1月5日 1月6日 |
明治大学 | 2年連続 5度目 | 9 | ||||
第11回 | 1930年 昭和5年 |
1月4日 1月5日 |
早稲田大学 | 3年ぶり 4度目 | 9区で日本大学が正規選手の走行不能により初の補欠による再走。 | ||||
第12回 | 1931年 昭和6年 |
1月10日 1月11日 |
早稲田大学 | 2年連続 5度目 | 10 | 関西大学を特別招待。 1区で東京文理科大学、4区で明治大学がそれぞれ正規選手走行不能のため補欠による再走を実施。 | |||
第13回 | 1932年 昭和7年 |
1月9日 1月10日 |
慶應義塾大学 | 初優勝 | 9 | 関西大学を特別招待。 | |||
第14回 | 1933年 昭和8年 |
1月7日 1月8日 |
早稲田大学 | 2年ぶり 6度目 | 11 | 拓殖大学 東洋大学 |
早稲田大学が初めて12時間台の総合成績を記録。 | ||
第15回 | 1934年 昭和9年 |
1月6日 1月7日 |
早稲田大学 | 2年連続 7度目 | 13 | 専修大学 立教大学 |
|||
第16回 | 1935年 昭和10年 |
1月5日 1月6日 |
日本大学 | 初優勝 | - | 日本大学が完全優勝。 | |||
第17回 | 1936年 昭和11年 |
1月4日 1月5日 |
日本大学 | 2年連続 2度目 | 14 | 横浜専門学校 (現:神奈川大学) |
日本大学が2年連続完全優勝。 | ||
第18回 | 1937年 昭和12年 |
1月9日 1月10日 |
日本大学 | 3年連続 3度目 | - | 日本大学が完全優勝で3連覇を達成し、当時の大会規約により優勝旗が授与された。 その後大戦による混乱で紛失し、竿だけが大学内に保管されている[82]。 | |||
第19回 | 1938年 昭和13年 |
1月8日 1月9日 |
日本大学 | 4年連続 4度目 | 12 | 戦前唯一の4連覇。 2着の明治大学が6区の走者の資格疑義(夜間部に在籍する学生で二重登録に該当)により失格、以下順位が繰り上がる[83]。 | |||
第20回 | 1939年 昭和14年 |
1月7日 1月8日 |
専修大学 | 初優勝 | 10 | ||||
第21回 | 1940年 昭和15年 |
1月6日 1月7日 |
日本大学 | 2年ぶり 5度目 | |||||
- | 1941年 昭和16年 |
- | - | - | - | 第二次世界大戦の激化により東海道・箱根路の使用が禁止され大会中止。 代替駅伝として明治神宮水泳場前-青梅熊野神社間往復駅伝を1月と11月に実施 (歴代大会には含めない)。 | |||
- | 1942年 昭和17年 |
戦時命令により日本学連が解体する。 | |||||||
第22回 | 1943年 昭和18年 |
1月5日 1月6日 |
日本大学 | 2期連続 6度目 | 11 | 青山学院 (現:青山学院大学) |
戦時中により従来の東京-箱根間大学駅伝に代わり 靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会を第22回大会として実施。 | ||
- | 1944年 昭和19年 |
- | - | - | - | 戦況激化・終戦後の混乱により再び中断。 | |||
- | 1945年 昭和20年 | ||||||||
- | 1946年 昭和21年 | ||||||||
第23回 | 1947年 昭和22年 |
1月4日 1月5日 |
明治大学 | 18年ぶり | 6度目10 | 神奈川師範学校 (現:横浜国立大学) |
駅伝大会を復活。 初めての予選会(第1回関東大学高専10マイル)を前年12月に実施。 読売新聞社が共催に入るが、「学生の大会を私企業が催すことは好ましくない」と GHQからの指導があり、後援となる。 | ||
第24回 | 1948年 昭和23年 |
1月6日 1月7日 |
中央大学 | 22年ぶり | 2度目12 | - | この年の大会からスタート・ゴールを当時の銀座の読売新聞社前(現在のプランタン銀座)とする。 | ||
第25回 | 1949年 昭和24年 |
1月5日 1月6日 |
明治大学 | 2年ぶり 7度目 | 日本体育専門学校 (現:日本体育大学) |
神奈川師範学校(現:横浜国立大学)が大会史上初の途中棄権〈3区〉。 報知新聞社が後援につく。 | |||
第26回 | 1950年 昭和25年 |
1月5日 1月6日 |
中央大学 | 2年ぶり 3度目 | 14 | - | 前年4月に新制大学が発足し、参加チームも再編の影響をうけ新しい校名で参加 (神奈川師範学校→横浜国立大学、文理科大学・東京体育専門学校→東京教育大学、 日本体育専門学校→日本体育大学、横浜専門学校→神奈川大学)。早稲田大学篠田正浩が出場。 | ||
第27回 | 1951年 昭和26年 |
1月5日 1月6日 |
中央大学 | 2年連続 4度目 | 11 | 駅伝有害論の影響により慶應義塾大学が大会参加を取りやめを決定 (不参加に因る選手数の影響もあり、慶應義塾大学は以後約10年間出場せず)。 東京農業大学が復路で失格。 | |||
第28回 | 1952年 昭和27年 |
1月6日 1月7日 |
早稲田大学 | 18年ぶり | 8度目14 | 成蹊大学 | |||
第29回 | 1953年 昭和28年 |
1月4日 1月5日 |
中央大学 | 2年ぶり 5度目 | - | NHKラジオによる全国放送を開始[84][85]。 | |||
第30回 | 1954年 昭和29年 |
1月6日 1月7日 |
早稲田大学 | 2年ぶり 9度目 | 15 | 横浜市立大学 | 3区で日本体育大学、8区で法政大学がそれぞれ正規選手走行不能のため補欠による再走を実施。 | ||
第31回 | 1955年 昭和30年 |
1月2日 1月3日 |
中央大学 | 2年ぶり 6度目 | - | 交通事情を考慮し大会日程を1月2日及び3日に変更。 | |||
第32回 | 1956年 昭和31年 |
1月2日 1月3日 |
中央大学 | 2年連続 7度目 | 東京学芸大学 | 前年11月の予選会で初めて下位成績の4校が予選会落選。予選上位15校が本大会に出場。 | |||
第33回 | 1957年 昭和32年 |
1月2日 1月3日 |
日本大学 | 14年ぶり | 7度目国士舘大学 | 第33回大会からシード権制度を初めて適用。前回大会の上位10校を予選会を免除して参加可能とする。 順天堂大学が本大会でチーム編成が不能となったため、神奈川大学が繰り上がりで出場。 | |||
第34回 | 1958年 昭和33年 |
1月2日 1月3日 |
日本大学 | 2年連続 8度目 | 順天堂大学 | 横浜市立大学が途中棄権〈9区〉。 | |||
第35回 | 1959年 昭和34年 |
1月2日 1月3日 |
中央大学 | 3年ぶり 8度目 | 16 | 埼玉大学 | 予選会5位が神奈川大学、6位が埼玉大学であったが後に計算ミスが発覚し 順位が入れ替わる事態となった為、特例で両校の出場が認められる[20][注 14]。 この大会のみ16校が出場。 | ||
第36回 | 1960年 昭和35年 |
1月2日 1月3日 |
中央大学 | 2年連続 9度目 | 15 | - | 中央大学が初めて11時間台の総合成績を記録。 | ||
第37回 | 1961年 昭和36年 |
1月2日 1月3日 |
中央大学 | 3年連続10度目 | 防衛大学校 | ||||
第38回 | 1962年 昭和37年 |
1月2日 1月3日 |
中央大学 | 4年連続11度目 | - | ||||
第39回 | 1963年 昭和38年 |
1月2日 1月3日 |
中央大学 | 5年連続12度目 | 中央大学が初の5連覇達成。 | ||||
第40回 | 1964年 昭和39年 |
1月2日 1月3日 |
中央大学 | 6年連続13度目 | 17 | 最終10区で追う中大若松軍蔵が日大高野俊雄を青物横丁で遂に捉え、中央大学が初の6連覇達成。 第40回を記念して立命館大学と福岡大学を招待(オープン参加)し全17校にて実施。福岡大学の重松森雄が2区区間賞相当(参考記録)の走りを見せた。 | |||
第41回 | 1965年 昭和40年 |
1月2日 1月3日 |
日本大学 | 7年ぶり 9度目 | 15 | ||||
第42回 | 1966年 昭和41年 |
1月2日 1月3日 |
順天堂大学 | 初優勝 | 復路スタートを全校一斉スタートに変更。 予選会会場を千葉市の検見川ロードレースコースに変更。 | ||||
第43回 | 1967年 昭和42年 |
1月2日 1月3日 |
日本大学 | 2年ぶり10度目 | 亜細亜大学 駒澤大学 |
||||
第44回 | 1968年 昭和43年 |
1月2日 1月3日 |
日本大学 | 2年連続11度目 | 大東文化大学 | ||||
第45回 | 1969年 昭和44年 |
1月2日 1月3日 |
日本体育大学 | 初優勝 | - | 日本体育大学が初優勝。 | |||
第46回 | 1970年 昭和45年 |
1月2日 1月3日 |
日本体育大学 | 2年連続 2度目 | |||||
第47回 | 1971年 昭和46年 |
1月2日 1月3日 |
日本体育大学 | 3年連続 3度目 | シード権枠を9校に変更。 | ||||
第48回 | 1972年 昭和47年 |
1月2日 1月3日 |
日本体育大学 | 4年連続 4度目 | 予選会会場を八王子市内の富士森競技場付属コースに変更。 | ||||
第49回 | 1973年 昭和48年 |
1月2日 1月3日 |
日本体育大学 | 5年連続 5度目 | 東海大学 | 日本体育大学が5連覇を達成。 自衛隊車両が大会関係車両として登場。 この回のみ、NHKは後述の理由でラジオ中継を中止している[84]。 | |||
第50回 | 1974年 昭和49年 |
1月2日 1月3日 |
日本大学 | 6年ぶり12度目 | 20 | - | 第50回を記念して全20校で実施。過去の全優勝校を参加させるためにシード9校以外で 過去に優勝した5校を招待参加とし、残り枠6を予選通過校とした。 | ||
第51回 | 1975年 昭和50年 |
1月2日 1月3日 |
大東文化大学 | 初優勝 | 15 | ||||
第52回 | 1976年 昭和51年 |
1月2日 1月3日 |
大東文化大学 | 2年連続 2度目 | 復路スタートで上位数チームを時差スタートに変更。 青山学院大学が途中棄権〈10区、ゴール前150m地点での棄権〉。 | ||||
第53回 | 1977年 昭和52年 |
1月2日 1月3日 |
日本体育大学 | 4年ぶり 6度目 | 1区から一度も首位を譲らず完全優勝。 | ||||
第54回 | 1978年 昭和53年 |
1月2日 1月3日 |
日本体育大学 | 2年連続 7度目 | 予選会会場を大井埠頭周回コースに変更。 | ||||
第55回 | 1979年 昭和54年 |
1月2日 1月3日 |
順天堂大学 | 13年ぶり | 2度目東京12チャンネルが初めてテレビ中継を行う(ダイジェスト版で、最後のゴールのみ生放送)。 | ||||
第56回 | 1980年 昭和55年 |
1月2日 1月3日 |
日本体育大学 | 2年ぶり 8度目 | 当年のモスクワ五輪有力選手であった早稲田大学・瀬古利彦を取り上げる目的で、2区終盤の約3分間をNHKテレビの全国多元リレー番組「日本の新春」内で中継[86]。中央大学が7区と8区の走者の区間エントリーミスにより、 7・8区の区間記録、復路及び総合の順位、記録が無効となる。 | ||||
第57回 | 1981年 昭和56年 |
1月2日 1月3日 |
順天堂大学 | 2年ぶり 3度目 | |||||
第58回 | 1982年 昭和57年 |
1月2日 1月3日 |
順天堂大学 | 2年連続 4度目 | |||||
第59回 | 1983年 昭和58年 |
1月2日 1月3日 |
日本体育大学 | 3年ぶり 9度目 | |||||
第60回 | 1984年 昭和59年 |
1月2日 1月3日 |
早稲田大学 | 30年ぶり10度目 | 20 | 東京大学 | 第60回を記念して全20校で実施。 本大会では過去の優勝校を無条件で参加させるのではなく、制限タイムつきでの予選会突破を 義務付けたが、対象3校(中央・慶應・明治)はいずれも予選会を突破。 | ||
第61回 | 1985年 昭和60年 |
1月2日 1月3日 |
早稲田大学 | 2年連続11度目 | 15 | - | |||
第62回 | 1986年 昭和61年 |
1月2日 1月3日 |
順天堂大学 | 4年ぶり 5度目 | |||||
第63回 | 1987年 昭和62年 |
1月2日 1月3日 |
順天堂大学 | 2年連続 6度目 | 山梨学院大学 | 日本テレビによる生中継放送が開始。 日本テレビが後援、サッポロビールが協賛につく。 最終10区で順天堂大学の工藤康弘が、突然飛び出してきた男性との接触により転倒。 | |||
第64回 | 1988年 昭和63年 |
1月2日 1月3日 |
順天堂大学 | 3年連続 7度目 | - | ||||
第65回 | 1989年 昭和64年 |
1月2日 1月3日 |
順天堂大学 | 4年連続 8度目 | 留学生選手が初めて登場。 | ||||
第66回 | 1990年 平成2年 |
1月2日 1月3日 |
大東文化大学 | 14年ぶり | 3度目伴走車(監督車)が交通事情により廃止。 | ||||
第67回 | 1991年 平成3年 |
1月2日 1月3日 |
大東文化大学 | 2年連続 4度目 | 大東文化大学が、出雲駅伝、全日本大学駅伝と合わせて史上初の大学駅伝三冠達成。 | ||||
第68回 | 1992年 平成4年 |
1月2日 1月3日 |
山梨学院大学 | 初優勝 | |||||
第69回 | 1993年 平成5年 |
1月2日 1月3日 |
早稲田大学 | 8年ぶり12度目 | |||||
第70回 | 1994年 平成6年 |
1月2日 1月3日 |
山梨学院大学 | 2年ぶり 2度目 | 20 | 関東学院大学 中央学院大学 |
山梨学院大学が初めて総合成績10時間台を記録。 第70回を記念して例年より5校多い11校を予選通過とし20校にて実施。 特例として慶應義塾大学、筑波大学が出場。 | ||
第71回 | 1995年 平成7年 |
1月2日 1月3日 |
山梨学院大学 | 2年連続 3度目 | 15 | - | 順天堂大学が途中棄権(10区)。 | ||
第72回 | 1996年 平成8年 |
1月2日 1月3日 |
中央大学 | 32年ぶり14度目 | 史上初の2校(神奈川大学〈4区〉、山梨学院大学〈4区〉)途中棄権[注 15]。 | ||||
第73回 | 1997年 平成9年 |
1月2日 1月3日 |
神奈川大学 | 初優勝 | 前年途中棄権からの優勝、予選会突破からの優勝は初めて。 監督会議にて給水の必要性が議論され、以後14キロ過ぎに給水ポイントを設置することが決まる。 | ||||
第74回 | 1998年 平成10年 |
1月2日 1月3日 |
神奈川大学 | 2年連続 2度目 | 帝京大学 | ||||
第75回 | 1999年 平成11年 |
1月2日 1月3日 |
順天堂大学 | 10年ぶり | 9度目- | 10区のコースを日本橋経由に変更。 | |||
第76回 | 2000年 平成12年 |
1月2日 1月3日 |
駒澤大学 | 初優勝 | 5区と6区のコースが一部変更。元の東海道を通るコースになる。 | ||||
第77回 | 2001年 平成13年 |
1月2日 1月3日 |
順天堂大学 | 2年ぶり10度目 | 國學院大學 平成国際大学 |
順天堂大学が史上2校目の大学駅伝三冠達成。 東海大学が途中棄権〈2区〉。 予選会会場を国営昭和記念公園に変更。 | |||
第78回 | 2002年 平成14年 |
1月2日 1月3日 |
駒澤大学 | 2年ぶり 2度目 | - | 法政大学が途中棄権(2区。スタートから最短地点(2014年現在)での途中棄権)。 | |||
第79回 | 2003年 平成15年 |
1月2日 1月3日 |
駒澤大学 | 2年連続 3度目 | 19 | 前年度成績上位校によるシード枠を10校、予選会からの出場枠を9校に増加、 さらにオープン参加として関東学連選抜チームを加えて20チームとする。 エントリー人数が16人に拡大。運営管理車の導入など大幅な変更。 | |||
第80回 | 2004年 平成16年 |
1月2日 1月3日 |
駒澤大学 | 3年連続 4度目 | 城西大学 | 第80回を記念して同年のみ関東学連選抜に代わり、日本学連選抜がオープン参加した。 この大会から、最も優秀な記録を出した選手に最優秀選手賞として、金栗四三杯が授与される。 この大会で陸上自衛隊第1師団からの車両・要員支援が終了。 読売新聞社が共催に復帰。 箱根町の要望により第80回を記念し、予選会をこの回限定として芦ノ湖畔コースで実施。 年末にかけてシンポジウムやトークショーなどの記念行事が行われた。 | |||
第81回 | 2005年 平成17年 |
1月2日 1月3日 |
駒澤大学 | 4年連続 5度目 | - | 距離を再計測し、全区間の距離表示を変更(ルート自体は変更せず)。 表彰式を東京ドームホテルで公開して開催。 箱根駅伝ミュージアムが往路ゴール脇に完成。 予選会での外国人枠は2人までに限定(実際に走るのは1人のみ)。 駒澤大学が平成初の4連覇を達成。 予選会のコースが陸上自衛隊立川駐屯地→立川市街地→国営昭和記念公園のルートに変更された。 | |||
第82回 | 2006年 平成18年 |
1月2日 1月3日 |
亜細亜大学 | 初優勝 | 中距離及びマラソンランナーの育成を目的として往路の小田原中継所を東京寄りの位置に変更。 4区が20kmを切る最短区間(18.5 km)、5区が2区や9区を上回る最長区間(23.4 km)になる。 | ||||
第83回 | 2007年 平成19年 |
1月2日 1月3日 |
順天堂大学 | 6年ぶり11度目 | 関東学連選抜が正式参加となる。 | ||||
第84回 | 2008年 平成20年 |
1月2日 1月3日 |
駒澤大学 | 3年ぶり 6度目 | 史上初の3校(順天堂大学〈5区〉、大東文化大学〈9区〉、東海大学〈10区〉)途中棄権。 関東学連選抜が4位に入り、シード枠を1校分減らしたため、次年度の予選会枠が1つ増えた。 | ||||
第85回 | 2009年 平成21年 |
1月2日 1月3日 |
東洋大学 | 初優勝 | 22 | 上武大学[注 16] | 第85回を記念して全23チームで実施。シード校9校と選抜チーム以外の13校を予選会で選考。 青山学院大学が33年ぶりの出場。 城西大学が途中棄権〈8区〉。 関東学連選抜が9位に入ったほか、3位の日本体育大学が跳躍選手の 不祥事(大麻使用歴及び偽札製作)によりシード権が剥奪されたため、次年度の予選会枠が2つ増えた。 | ||
第86回 | 2010年 平成22年 |
1月2日 1月3日 |
東洋大学 | 2年連続 2度目 | 19 | - | |||
第87回 | 2011年 平成23年 |
1月2日 1月3日 |
早稲田大学 | 18年ぶり13度目 | 早稲田大学が史上3校目の大学駅伝三冠達成。 史上2回目、当時においてコース初の総合成績10時間台を記録。 | ||||
第88回 | 2012年 平成24年 |
1月2日 1月3日 |
東洋大学 | 2年ぶり 3度目 | 東洋大学が完全優勝。 往路成績、復路成績、総合成績の全部門で記録更新。 日本テレビが特別後援となる。 | ||||
第89回 | 2013年 平成25年 |
1月2日 1月3日 |
日本体育大学 | 30年ぶり10度目 | 城西大学〈5区〉、中央大学〈5区〉が途中棄権。 | ||||
第90回 | 2014年 平成26年 |
1月2日 1月3日 |
東洋大学 | 2年ぶり 4度目 | 23 | 第90回大会を記念して、シード校10校と予選会を通過した13校の最多23校で実施。 関東学連選抜は今大会のみ編成せず。 東洋大学が完全優勝。復路成績で記録更新。 山梨学院大学が途中棄権〈2区〉。 予選会でのインカレポイント制度廃止。 | |||
第91回 | 2015年 平成27年 |
1月2日 1月3日 |
青山学院大学 | 初優勝 | 20 | 創価大学 | 関東学連選抜が関東学生連合に名称変更し、オープン参加となる。 函嶺洞門が通行禁止になったため函嶺バイパスにコース変更、 それまでの第5区・第6区の区間記録、往路・復路・総合記録は参考記録とされた。 競走路の再計測に伴い、第1区、第2区、第3区、第8区、第9区、第10区の距離表示が変更された。 青山学院大学が完全優勝。 | ||
第92回 | 2016年 平成28年 |
1月2日 1月3日 |
青山学院大学 | 2年連続 2度目 | 東京国際大学 | 青山学院大学が1区から一度も首位を譲らず完全優勝(39年ぶり)。 | |||
第93回 | 2017年 平成29年 |
1月2日 1月3日 |
青山学院大学 | 3年連続 3度目 | - | 青山学院大学が完全優勝で3連覇(80年ぶり)、史上4校目の大学駅伝三冠達成。 完全優勝をしての三冠は史上初。 中央大学が予選会11位で敗退。連続出場記録が87で途切れた。 総合成績による第5区の貢献度が大きすぎる等の理由により 往路の小田原中継所を箱根寄りの位置に変更。 4区が20.9km、5区が20.8kmになる。 それまでの第4区・第5区の区間記録、往路・総合記録は参考記録とされた。 | |||
第94回 | 2018年 平成30年 |
1月2日 1月3日 |
青山学院大学 | 4年連続 4度目 | 青山学院大学が史上6校目の4連覇。初優勝からの4連覇は史上3校目(56年ぶり)。 現コース初の総合成績10時間台を記録。 | ||||
第95回 | 2019年 平成31年 |
1月2日 1月3日 |
東海大学 | 初優勝 | 22 | 第95回を記念して全22チームで実施。シード校10校と選抜チーム以外の11校を予選会で選考。 日本大学は関東インカレ成績枠として出場。 | |||
第96回 | 2020年 令和2年 |
1月2日 1月3日 |
青山学院大学 | 2年ぶり 5度目 | 20 | 7区間で13選手が区間新記録を樹立。 東京国際大学(総合5位)と創価大学(総合9位)がシード権を獲得。 | |||
第97回 | 2021年 令和3年 |
1月2日 1月3日 |
駒澤大学 | 13年ぶり | 7度目新型コロナウイルス感染拡大防止の為、沿道応援の自粛を要請。 前回大会でシード権を獲得した創価大学が史上19校目の往路優勝・総合2位と大躍進。 | ||||
第98回 | 2022年 令和4年 |
1月2日 1月3日 |
青山学院大学 | 2年ぶり 6度目 | 駿河台大学 | 新型コロナウイルス感染拡大防止の為、前回大会に続き沿道応援の自粛を要請。 大会最多優勝の中央大学が10年振りにシード権を獲得し、古豪復活を印象付ける。 青山学院大学が復路記録・大会記録を更新した。 | |||
第99回 | 2023年 令和5年 |
1月2日 1月3日 |
駒澤大学 | 2年ぶり 8度目 | - | 3年ぶりに沿道での応援が解禁された。観戦者は91万人[87]。 立教大学が史上最長となる55年ぶりの出場。襷を繰り上げスタートで途切れることなく最後まで繋いだ。 関東学生連合の1区・育英大学のランナーがスタート直後、飛び出して話題となる。 駒澤大学が史上5校目の大学駅伝三冠達成。3月に勇退が決まっていた28年駒澤一筋の大八木弘明監督が有終の美を飾った。 前回大会に10年振りのシード権を獲得した中央大学は更に躍進し準優勝、完全復活を果たした。 | |||
第100回 | 2024年 令和6年 |
1月2日 1月3日 |
青山学院大学 | 2年ぶり 7度目 | 23 | 第100回大会を記念して、シード校10校と予選会を通過した13校の23校で実施。 関東学生連合が廃止。 史上最多タイとなる16校が復路一斉スタート。 青山学院大学が完全優勝。往路成績、総合成績で記録更新。 |
注釈
- ^ a b c 読売新聞東京本社は千代田区大手町の社屋建て替えのため、2010年9月から中央区銀座の日産自動車旧本社ビルに一時移転していた(“読売新聞 一時移転のおしらせ”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年8月23日). オリジナルの2010年9月15日時点におけるアーカイブ。)。
- ^ 大学日本一を決める全日本大学駅伝対校選手権大会(同年11月第1日曜日開催。以下「全日本大学駅伝」という)には、同大会のシード校(第50回までは前年上位6位、第51回からは前年上位8位)のほか、関東からは6月に実施される地区選考会で出場校を決定する。
- ^ 2023年度の第100回は関東学連所属校以外にも門戸を開き、関東以外の11校が予選会に出場したが、本大会に出場したのは全て関東学連所属校だった(関東学連所属校以外の最上位は、京都産業大学の27位)。
- ^ 竹石は4年生の第96回大会(2020年)を怪我で欠場。どうしても最後に走りたいという強い希望で内定していた企業への就職を辞退して留年を選び、第97回大会(2021年)に出場した。竹石の出場申込回数は2年生時の第94回大会(2018年)、3年生時の第95回大会(2019年)の2回であったため、参加資格を満たしていた。また、島崎は第98回大会(2022年)を怪我で欠場し、出場申込回数が上限に到達していなかったことから留年を選び、第99回大会(2023年)に出場した。
- ^ 嶋津は3年生の前期となる2020年4月から9月までの半年間休学していたため、本来予定されていた2022年3月に卒業できず留年することになった。この場合は所属大学の卒業時期を半年、最大で1年遅らせることが可能[10]で、なおかつ前述の出場申込資格が4回未満なら出場可能[11]となっていた。なお、嶋津は1年生時の第95回大会予選会(創価大は予選会敗退)[12]並びに本戦にエントリー登録されていなかったことから出場申込資格は第98回大会終了時点で1回残っており、最後の出場となる第99回大会にもエントリー登録され[13]、4区区間8位で箱根駅伝を終えた[14]。卒業後は実業団のGMOインターネットグループ(GMOアスリーツ)で競技を続ける[15][16]。
- ^ 年齢制限に抵触した事例の1つとして、後に駒澤大学総監督となった大八木弘明は、社会人を経て駒澤大学に入学したこともあり、自身が4年生時の大会に出場できなかった。
- ^ 第97回(2021年)大会より。それ以前は往路・復路合わせて最大4名であった。
- ^ 第75回大会に初設定(5000m18分00秒00以内)。その後年々参加標準記録が引き上げられ、第87回大会から「5000m16分30秒00以内もしくは10000m34分00秒00以内」となった。さらに第95回大会から5000mの参加標準が廃止され、10000mのみとなった。
- ^ 2017年(第93回)の第10区で、東京国際大学4年の照井明人が同区で区間賞を取った順天堂大学・作田直也より2秒早い1時間10分58秒でゴールし、「幻の区間賞」となった。ただし、「日本学連選抜」時代は、チームとしての記録は参考記録となったが、個人記録は公認された。(出典:スポーツ報知2017年1月4日付け6面と4面記事から)
- ^ 箱根駅伝に既に出場権を得ている大学以外から選抜され、関東以外の大学(徳山大学・京都産業大学・立命館大学・岡山大学・北海道教育大学旭川校・広島経済大学)からも選抜された。
- ^ 中継所移転後の2019年3月に東京都中央区に移転。現在旧本社には小田原箱根商工会議所が入居。
- ^ 京急空港線内は線内折り返しの普通列車のみ運行されるが、列車の通過にある程度の時間確保が必要なため(片方通過で約1分半、両方通過で約3分)、鶴見中継所と雑色駅付近に京急の社員を配備し、その情報とテレビ中継を基に踏切付近に設置した特設本部で列車の運行と踏切閉鎖を判断していた。
- ^ このため各出場校は、1区から使う正規のタスキと、5区が繰り上げになった場合の予備(その場合、このタスキは6区以降の走者も使用する)、そして10区が繰り上げになった場合の予備という、3本のタスキを同じデザインで作成し、大会本部に提出して許可を受ける必要がある。
- ^ 『箱根駅伝70年史』(1989)には平均タイムが60分を切ったための特例とあるが、この著のベースになったと思われる山本邦夫『箱根駅伝60年』(1978)には16校である理由の記述はない。
- ^ 同一区間内で複数校が途中棄権したのも大会史上初。
- ^ 上武大学の所属選手としては過去に選抜チームの一員として出場経験有り。
- ^ a b 新法人になってからは、ゼッケンの特別協賛のサッポロビールのマークが変わった(サッポロビール→SAPPORO)。
- ^ a b 第91回(2014年度)大会より。BS日テレによる予選会中継にて確認。
- ^ 敷島製パンは第92回までは「協力」としてクレジットされていた。テレビ中継において販路に該当しない地域(県・圏域)の局ではACジャパンの啓発CMに差し替えていたが、2016年(第92回)はACジャパンの啓発CMが流れなかった(※販路に該当しない地域でもPascoのCMは流れた)。
- ^ 敷島製パンは第92回までは「協力」としてクレジットされていた。
- ^ 新聞の報道やNHKの録画VTRなどにも記録されている。
- ^ 総合優勝ではない場合、混雑防止などもあってチーム全員がゴールスペースにいることはほぼないため、チーム全員でお辞儀をすることは出来ない。
- ^ この記念碑について、実際には、石碑の表面に銅版彫のプレートがはめ込まれており、そこには「東京・箱根 往復(”・”の箇所には聖火トーチの図柄)」と「関東大学駅伝競走第35回記念(”第”は略字表記、”回”は「はしご回」表記、”記”の右側は「巳」表記)」の文字が刻み込まれている[110][112]。
- ^ 例えばプロ野球の日本シリーズやオールスターゲーム、サッカーの天皇杯、あるいは中央競馬における東京優駿(日本ダービー)というカテゴリーとして。
- ^ ただし、出雲駅伝において同一大学から複数人の留学生が出場した事例は、2011年の拓殖大学が最後となっている。
- ^ 全日本大学駅伝では1990年代に名古屋商科大学が台湾人留学生を起用した例がある。予選会においては第99回(2022年)で関東学院大学から韓国人留学生が出場したほか、東京大学大学院や防衛大学校からスポーツ留学ではない留学生が出場した例がある。
- ^ 女子陸上長距離は全国に強豪校が点在しているためこの現象が起こっていない。
- ^ 『陸上競技マガジン』及び『月刊陸上競技』。毎年2月号あたりで載せている次年度の主要大会日程表にも、日本陸連が主催又は後援の大会、及びその協力団体の主催大会しか記載されておらず、箱根駅伝の名前はない。
- ^ 箱根駅伝は全日本大学駅伝や出雲駅伝に比べ、区間数や、区間あたりの距離の平均が非常に大きい上、他の学生駅伝には無い「山登り」「山下り」の区間も存在するなど、学生駅伝の中では最も過酷である。
- ^ 1982年までは系列局自体がなかったため、サンテレビジョンにも同時放送され、1983年からはテレビ大阪を皮切りに、メガTONネットワークの各局向けにも放送されていた。番組自体は往路の個所を録画ダイジェストで放送したのち、後半がゴールの個所を軸にした内容を放送した。
- ^ ギタヒ、ワンジル、カロキは世界陸上、オリンピックに母国・ケニア代表として出場経験があり、中でもワンジルは2008年北京オリンピックでマラソン金メダル、カロキも世界陸上、オリンピックの10000mで複数回入賞している。
- ^ このうち、木滑良・宮脇千博・岩田勇治は高校卒業後大学には進学せず実業団に所属。上門大祐は京都産業大学の出身。河合代二は麗澤大学2年時の第88回大会に関東学連選抜のメンバーとして9区にエントリーされたが、当日エントリー変更されている。
- ^ 箱根駅伝未経験の選手は、2019年大会にも出場した上門大祐、橋本崚、河合代二のほか、高校卒業後実業団に進んだ古賀淳紫、丸山文裕、松本稜、広島大学出身の相葉直紀、兵庫県立大学出身の村本一樹、駒澤大学出身だが大学三大駅伝への出場は一度もなかった小山裕太の9人である。
- ^ 正確には「箱根駅伝への出場を制限しない」とする決定である。
- ^ NHKクロニクル(NHKアーカイブス)でさかのぼることができる最古の年。ラジオ番組のデータは1992年4月1日以降のものしか表示できないため。
- ^ 1993年のタイトルは『新春野党インタビュー』。なお翌1994年は箱根駅伝中継終了後に『新春党首インタビュー』と題した番組が放送されている。
- ^ 2014年までは、日本プロ野球(NPB)のクライマックスシリーズと重複した場合にシリーズの試合中継を優先したため、重複する時間には実況音源をインターネット向けに配信。2015年にはクライマックスシリーズとの二元中継を実施したが、2016年からは出雲駅伝の中継を優先している。
- ^ NRN加盟局以外ではCBCラジオでも放送されている。
- ^ かつて一部の局では別番組を放送するため、中継が長時間中断する(11:00飛び降り、12:30(13:00)飛び乗りなど)例があったが、近年は長時間中継を中断する局はみられない。
- ^ 番組の途中には、日本テレビから映像・情報の提供を受けている旨のアナウンスを随時挿入。
- ^ 放送上の名義は「小川真由美アナウンサー」
- ^ 2007年以降は、有期雇用契約扱いの女性アナウンサーが代々担当。担当日に文化放送のみで流れる中継直前番組にも出演する。
- ^ かつては、文化放送の女性アナウンサーが担当していた。
- ^ 実際には中断の間に正時を跨ぐため、最初の2分間をCMに充てた後に、時報をはさんでローカル編成へ移行するネット局が多い。中断の前に文化放送から「ネットスタジオ担当」による中断のアナウンスが入る。
- ^ 沿道の商店・民間施設の敷地を中継所の実況に借用する場合には、当該中継所を紹介する場合に、当該商店・施設に関するPRコメントを中継担当のアナウンサーが入れることがある。
- ^ かつては、菅野詩朗(2012年9月の定年退職後に通過ポイントの実況を毎年担当)や吉田涙子(放送事業局報道スポーツセンター所属の報道記者、2014年までは制作部所属のアナウンサー)が中継所のリポーターを務めた。
- ^ 文化放送時代にもスポーツアナウンサーとして出演
- ^ 放送上の名義は「鬼頭里枝アナウンサー(またはリポーター)」
- ^ 放送上の名義は「小笠原聖アナウンサー」で、2024年から担当。
- ^ STVラジオではない。これは、土曜日の日中に通常番組『ウイークエンドバラエティ 日高晤郎ショー』(2018年春終了)の放送が優先される事情に配慮した措置とされる。
- ^ 文化放送制作の番組では、2018年以降に埼玉西武ライオンズと中日ドラゴンズのセ・パ交流戦を中心に『文化放送ライオンズナイター』と『CBCラジオ ドラゴンズナイター』の相互ネットを実施する年があるものの、定期的な同時ネット番組は箱根駅伝実況中継のみである。放送対象地域の愛知・三重両県内で開催される全日本大学駅伝では、文化放送制作の中継を2019年までZIP-FMが、2020年からTOKAI RADIOが同時ネット。
- ^ 清水次郎(2007年・2008年:東京都・早稲田大学出身) → 山下剛(2009年 - 2011年:神奈川県・早稲田大学出身)→ 高野純一(2012年 - 2015年:千葉県・早稲田大学出身)→ 平岩康佑(2016年 - 2018年:東京都・法政大学出身)
- ^ 往路・復路とも、2007 - 2015年・2017年は平塚中継所、2016年は戸塚中継所を担当。
- ^ 大会開催が平日と重なった場合、『ニュース・パレード』(文化放送制作のNRN向け全国ニュース)を通して、派遣アナウンサーによる実況音源がラジオ大阪から流れることがあった。
- ^ ラジオ日本制作分は関東地方(2012-13年は群馬県と栃木県を除く)と近畿2府4県(兵庫・大阪は2012年から、京都は2018年から、滋賀・奈良・和歌山は2022年から)のみ。
- ^ 2019年まで制作局の文化放送および同局と個別の中継回線でネット受けする一部の局(朝日放送ラジオやNRN非加盟のCBCラジオ)はステレオ放送で、NRN回線での配信をネット受けする局(秋田放送・北海道放送・中国放送など)は回線の都合上モノラル放送だったが、2020年はステレオ放送によるネット局が増加した(北海道放送・北日本放送・RSK山陽放送・西日本放送・中国放送・山口放送など。秋田放送などモノラル放送の局もあり)。
- ^ ラジオ日本は2011〜13年開催分の予選会の、文化放送は2014年以降の全日本大学駅伝(第46回以降)および2015年以降の出雲駅伝(第27回以降)の配信実績がある。
- ^ ただし、公式ガイドブックとなっているものは協力している陸上競技社発行のものであって、共催である読売新聞社のものは公式ではないことに注意。
出典
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- ^ 最長は、山形県縦断駅伝の305.3㎞、次いで佐賀県の郡市対抗県内一周駅伝大会の297.9km、3番目に(男女混合レースの)徳島駅伝の約250㎞、である。
- ^ a b c d e f g h “東京箱根間往復大学駅伝競走における関東学連選抜チームについて”. :関東学生陸上競技連盟. 2014年10月9日閲覧。
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- ^ 1964年の第40回大会に出場した立命館大学・福岡大学の時とは異なり、関西大学の順位は公式に認定されている。箱根駅伝過去の記録(該当の開催年をクリックすると順位が確認できる)
- ^ a b c 『埼玉大学創立60周年を迎えて 埼玉大学同窓会記念誌』[リンク切れ](2010)p.12.
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- ^ 第95回は記念大会のため日本大学(インカレ枠)・明治大学も出場権を獲得している。
- ^ a b c d 第95回東京箱根間往復大学駅伝競走予選会 要項
- ^ 箱根駅伝記録館
- ^ 箱根駅伝の記録
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固有名詞の分類
スポーツ競技大会 |
全米女子プロゴルフ選手権 全国高等専修学校体育大会 東京箱根間往復大学駅伝競走 全日本ビーチバレージュニア男子選手権 全国高等学校総合体育大会なぎなた競技大会 |
NHKの特別番組 |
欽ちゃんのワースト脱出大作戦 全日本アイスホッケー選手権大会 東京箱根間往復大学駅伝競走 全国都道府県対抗女子駅伝競走大会 小渕前首相をしのぶ |
ラジオ日本の番組 |
松本梨香のヨコハマウィークエンド・スタイル! ラジオ日本 交通安全キャンペーン 東京箱根間往復大学駅伝競走 ラジオわたしの物語 まるごとジャイアンツ倶楽部 |
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