エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 07:39 UTC 版)
生涯
生い立ち
1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦)、北ドイツ(現在はポーランド領)ポンメルンのシュテッティンで神聖ローマ帝国領邦君主アンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグスト(プロイセン軍少将)の娘として生まれた。キリスト教ルター派の洗礼を受け、ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ(Sophie Auguste Friederike)と名づけられた。
母のヨハンナ・エリーザベトは、デンマーク王家オルデンブルク家の分家でやはり北ドイツの小邦領主であるホルシュタイン=ゴットルプ家出身であったが、次兄アドルフ・フレドリクは後にスウェーデンの王位を継承した。弟が2人で、上の弟は12歳で死亡、下の弟フリードリヒ・アウグストは後にアンハルト=ツェルプスト侯領を継ぐ。
ゾフィーは2歳の時からフランス人ユグノーの家庭教師に育てられ、特に2番目の家庭教師バベ・カルデル嬢にはロシアへ行くまで教えを受けた。その結果、フランス語に堪能で合理的な精神を持った少女に育つ。乗馬も達者だったが、音楽は苦手。美貌と言えるほどの器量の持ち主ではなかったが、生来の優れた頭脳を活かし、知性や教養を磨いて魅力的で美しい女性となる努力を重ねた。本来、家柄的にはとても大国の后妃候補に挙がる身分ではなかったが、母ヨハンナの早世した長兄カール・アウグストがロシア女帝エリザヴェータ・ペトロヴナの若かりし頃の婚約者であった縁もあり、ゾフィーは14歳でロシア皇太子妃候補となる[3]。
結婚
1744年、ロシア帝都サンクト・ペテルブルクに到着。舞踏をランゲに、正教をプスコフ主教(1748年からは大主教)シモン・トドールスキイに、ロシア語を、初めてロシア語を体系化したワーシリィ・アダドゥーロフに習う。ロシア語の勉強に熱中したあまり高熱を発して倒れてしまい、エリザヴェータ女帝やロシア国民の心を動かしたという逸話もある。同年、ロシア正教に改宗し、エカチェリーナ・アレクセーエヴナと改名した。偶然にもエカチェリーナ1世と同じ名を持つことになった。
翌日、エリザヴェータの甥で母方の又従兄にも当たる皇太子のホルシュタイン公ピョートル・フョードロヴィッチ(ピョートル3世)と婚約、翌1745年に結婚し、大公妃(ヴェリーカヤ・クニャージナ)(Великая Княжна)の称号を帯びた。2人ともドイツ育ちのため、ピョートルにとってはとりあえずドイツ語で存分に会話できる相手ではあったらしい。ロシア文化には不慣れであったが、エカチェリーナがロシア語を習得し、ロシア正教にも改宗し、ロシアの貴族や国民に支持される努力を惜しまなかったのに対し、ピョートルはドイツ風にこだわり続け、ドイツ式の兵隊遊びに熱中し、周囲の反感を買い続けた。ピョートルに唯一かなりの才能があったと思われる趣味は音楽だったが、こればかりはエカチェリーナの方に才能が無かった。
不仲により、結婚後も長期間夫婦の関係はなかった。エカチェリーナはセルゲイ・サルトゥイコフ伯爵らの男性と半ば公然と関係を持つようになっていた。エリザヴェータ女帝や周囲が世継ぎ確保の大義名分で黙認したとも、むしろ積極的に勧めたとも言われる。ピョートルの方も大宰相(帝国宰相)ミハイル・ヴォロンツォフの姪エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァを寵愛するようになり、夫婦の関係は完全に破綻する。
出産
- 1754年9月20日(10月1日):男児パーヴェル・ペトロヴィチ大公(後のパーヴェル1世)を出産。公式にはピョートル3世が父親とされているが、実際の父親はセルゲイ・サルトゥイコフ伯爵ともいわれている。
- 1757年12月9日(12月20日):女児アンナを出産。公式にはピョートル3世が父親とされているが、実際の父親はスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)と推測される[1]。
- 1758年:女児ナターリア・アレクセーエヴナを出産。父親はスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)もしくは近衛軍の将校グリゴリー・オルロフ公爵と推測される[4][5]。
- 1761年:女児エリザヴェータ・アレクセーエヴナを出産。父親は近衛軍の将校グリゴリー・オルロフ公爵と推測される[5]。
- 1762年4月11日(4月22日):男児アレクセイを出産。父親は近衛軍の将校グリゴリー・オルロフ公爵。ピョートル3世を火事で陽動しての極秘出産。ビーバー(ロシア語でボーブル)の毛皮に包まれて宮殿から連れ出されたため、ボーブリンスキーの姓を与えられ、後に貴族に叙せられる。子孫は南ロシアでヨーロッパ最大の砂糖製造工場主となる。
- 1775年7月13日(7月24日):女児エリザヴェータ・ポチョムキナ(チョムキナ)を出産。父親は秘密結婚の相手グリゴリー・ポチョムキン(タヴリチェスキー公爵)と推測される。
皇后のクーデター
1761年12月25日(ロシア暦)/1762年1月5日(グレゴリオ暦)にエリザヴェータ女帝が死去すると、夫ピョートルは皇帝(ツァーリ)に即位、エカチェリーナも皇后 (ツァリーツァ)(царица)となった。
ピョートル3世はプロイセン王フリードリヒ2世の信奉者で、皇太子時代からエリザヴェータやロシア貴族と対立していた。七年戦争では、ロシア軍がプロイセン領内に侵攻してフリードリヒ2世を追い詰めていたにもかかわらず、ピョートル3世が即位後にいきなりプロイセンと講和条約を結んだことはロシア軍からの不評を買った[6]。また、皇后エカチェリーナを廃し、寵姫エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァを皇后に据えようとして、彼女の一族であるヴォロンツォフ一門を重用した上、ルター派の信者だったピョートルはロシア正教会にも弾圧を加えた。
軍やロシア正教会によるピョートル3世への怨嗟の声は高まり、エカチェリーナ待望論が巻き起こるが、愛人関係にあったグリゴリー・オルロフとの子供であるアレクセイを妊娠中だったエカチェリーナはすぐには動きがとれなかった。エカチェリーナは4月11日(ロシア暦)/4月22日(グレゴリオ暦)に極秘出産を済ませ、6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦)に近衛軍やロシア正教会の支持を得てクーデターを敢行した。
この時、エカチェリーナはロシア軍伝統の緑色の軍服の男装で自ら馬上で指揮を取ったと伝えられ、その凛々しい姿の肖像画が残されている。オルロフ兄弟やエカテリーナ・ダーシュコワ夫人らの尽力で、近衛連隊を始めとする在ペテルブルクの主要な軍隊や反ピョートル3世派の貴族はことごとくエカチェリーナ側に付き、ピョートル3世側についた重臣たちもその多くがお咎めなしで帰参を許されたこともあり、クーデターはほぼ無血で成功した。
在位6ヶ月のピョートル3世は廃位・幽閉され、間もなく監視役のアレクセイ・オルロフ(グリゴリーの実兄)に暗殺されたという。公式には、「前帝ピョートル3世は持病の痔が悪化して急逝、エカチェリーナ2世はこれを深く悼む」と発表され、エカチェリーナ2世は自身の関与を否定したが、真相は不明である。
エカチェリーナ2世が政務を執る事では一致したものの、ロマノフ家の血統でないエカチェリーナの女帝即位には疑問の声もあり、嗣子パーヴェルを即位させてエカチェリーナは摂政に、という案もあったが、結局はエカチェリーナ自身が正式に女帝として即位することとなり、1762年9月22日(ロシア暦)/10月3日(グレゴリオ暦)にモスクワにあるクレムリンのウスペンスキー大聖堂で戴冠式を行った[7]。
女帝としての治世
エカチェリーナ2世は当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想の崇拝者で、啓蒙君主を自認していた。そのため、ヴォルテール、ディドロなどとも文通を行い、自由経済の促進、宗教的寛容、教育・医療施設の建設、出版文芸の振興といった啓蒙思想に基づいた近代化諸政策に着手した。
その集大成ともいえるのが、各身分の代表が集結して1766年に開催された新法典編纂委員会に提案された「訓令(ナカース)」であった。モンテスキューの『法の精神』やベッカリーアの『犯罪と刑罰』など、西欧の啓蒙思想を盛り込んだ上に、急進的な内容を含んでいた訓令(ナカース)だが、当時のロシア社会は未成熟な状態であり、特筆すべき成果を上げることはなかった。また、新法典編纂委員会もオスマン帝国との戦争が始まったために無期限休会となり、そのまま再開されないままに終わったため、訓令(ナカース)の採択や発効も沙汰止みとなった。
ロシア帝室の血を引かないどころか、生粋のロシア人ですらないエカチェリーナは貴族の支持を必要とし、貴族が反対する大規模な改革は不可能であった。宮廷の実情やクーデターの経緯を知る由もない一般庶民には、ピョートル3世は待望久しい成人男子の皇帝であり、様々な改革をもたらした救世主であったので、その非業の最期に対する同情と「皇位簒奪者」の女帝に対する反感もあり、その死の直後からピョートル3世の僭称者が何人も現れた。
1773年に発生した、ヴォルガ川流域でのドン・コサック、農民、工場労働者、炭鉱夫、少数民族(バシキール人、チュヴァシ人、カルムイク人)による大規模な反乱であるプガチョフの乱はその最大のものであったが、1775年には鎮圧される。また、エカチェリーナ2世の戴冠から2年後、かつての皇帝でエリザヴェータ女帝に幽閉されていたイヴァン6世を救出しようとする試みがあったが失敗して、イヴァン6世は看守に殺害された。
対外政策では、オスマン帝国との2度にわたる露土戦争(1768年-1774年、1787年-1791年)に勝利してウクライナの大部分やクリミア・ハン国を併合(キュチュク・カイナルジ条約)。さらにヤッシーの講和でバルカン半島進出を窺うに至り、黒海での南下政策を進めた。
西方でも第1次、第2次、第3次のポーランド分割を主導し、ポーランド・リトアニアを地図上から消滅させた。かつての愛人でポーランドの最後の国王となった啓蒙思想主義者のスタニスワフ・ポニャトフスキが、即位直後からポーランドを近代民主主義国家にする大改革を断行し、1791年にヨーロッパ初の近代民主憲法(5月3日憲法)を制定した事が原因となった。というのもこの憲法はカトリックの原則の事実上の絶対化により、正教徒の弾圧を正当化したためである。
豪放磊落で派手好みのエカチェリーナ2世は積極的な外交政策を推進した一方で、対外的には啓蒙専制君主と見られることを好み、紛争における仲裁者の役割をしばしば務めようとした。これはそのままロシアの国際的影響力を高めるということでもあった。1780年にはアメリカの独立戦争に際しては、中立国としてアメリカへの輸出を推進し、ヨーロッパ諸国に働きかけて武装中立同盟を結束させた。[要出典]第一次ロシア・スウェーデン戦争でロシア帝国海軍艦隊はフィンランド湾でスウェーデン海軍に敗北こそしたものの(1790年)、イギリスとプロイセンの仲介により講和し、ロシアの国体には何の影響も及ぼさなかった。
1789年のフランス革命には脅威を感じ、晩年には国内を引き締め、自由主義を弾圧した。フランス革命にも関心を示し、1791年のヴァレンヌ事件後にスウェーデン国王グスタフ3世の提唱した「反革命十字軍」の誘いにも前向きであったが(10月には軍事同盟を締結する)、結成は難航し、露土戦争の優先や1792年のグスタフ3世暗殺などで結成は実現化せず、第一次対仏大同盟にも参加しなかった事で、エカチェリーナ2世の治世下ではフランス革命戦争への介入は行われなかった。また、1791年7月当時、神聖ローマ皇帝レオポルト2世のブルボン王家への援助を呼びかけた回状がヨーロッパの君主国に行き渡っており(この呼びかけによりピルニッツ宣言が発せられる)、グスタフ3世の件もあってエカチェリーナ2世自身は反革命に協力的だったが、ちょうど卒中を起こしていて動けなかった。こうした事から、フランス革命に対する関心は個人的には高かったといえるが、当時はロシアと利害の衝突する国の多くがロシアに脅威を感じていた事から、革命に積極的に関与する必要性はロシア国家としては時期的に見出せなかったといえる。[要出典]
晩年
エカチェリーナの人生と治世は成功に満ちていたが、晩年には孫を巡る二つの失敗があった。
親戚のスウェーデン王グスタフ・アドルフが1796年9月に訪れた時、エカチェリーナは孫のアレクサンドラを彼と結婚させてスウェーデン王妃にしようとした。9月11日に舞踏会が開かれ、そこで二人の婚約が発表されるはずであった。スウェーデン王はアレクサンドラに魅かれていたが、アレクサンドラがロシア正教会からルーテル教会に改宗しない事を見通し、舞踏会に出席せずにストックホルムに去った。エカチェリーナは衝撃を受け、健康状態は悪化した。後に回復して、お気に入りの孫アレクサンドルが息子パーヴェルをとばして戴冠するための式典を計画し始めた。だが式典の前、舞踏会から2カ月後に女帝は脳梗塞で崩御することになった。
1796年11月5日(ロシア暦)/11月16日(グレゴリオ暦)の朝、エカチェリーナは早く目が覚めてコーヒーを飲み、いつもの書類仕事を始めた。メイドが良く眠れたかと尋ねると、長い間良く眠ってはいないと答えた。9時過ぎに化粧室に行き、トイレで発作を起こして倒れた。戻らないことを心配したメイドが覗き込むと、エカチェリーナは床に倒れ、顔は紫色で、脈は弱く、呼吸も浅かった。召使たちはベッドルームに運び、45分後に侍医が来て脳梗塞であると診断した。あらゆる努力にもかかわらず、昏睡から覚めることはなく、臨終の儀式を受けてその夜9時45分頃に崩御した。翌日に解剖を受け、死因が確認された。
エカチェリーナの遺言には詳細な指示が記されていた。
「遺体には白いドレスを着せ、洗礼名を彫った黄金の王冠を頭に載せること。喪服を着るのは6か月を超えないこと。短い方がのぞましい。」
遺言に従って遺体は白い絹織物のドレスを着せられ、黄金の冠を載せられた。棺は黄金の織物で覆われ、アントニオ・リナルディが設計・装飾した告別室に置かれた。肖像画家ヴィジェ=ルブランによれば、「棺は6週間安置され、昼も夜も明かりが絶えなかった。女帝はロシアのすべての街の紋章によって取り囲まれたベッドに寝かされていた。顔は覆われず、その手はベッドに置かれていた。すべての婦人たちは順に遺体を訪れ、その手にキスをした」という。
その後、遺体はサンクト・ペテルブルクの首座使徒ペトル・パウェル大聖堂に埋葬された。
後継の玉座には長らく確執のあった息子パーヴェル・ペトロヴィチ大公が就き、パーヴェル1世となった。
- ^ a b ロシア語版のタイトルは「アンナ・ペトロヴナ(エカチェリーナ2世の娘)」とされており「(ピョートル3世の娘)」ではない。Infoboxの父親欄は公式のピョートル3世となっている。実際にはスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)との娘だが、ピョートル3世がエカチェリーナから求められて認知した。
- ^ グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフとの息子。
- ^ 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年、96頁。ISBN 978-4-334-03811-3。
- ^ a b ロシア語版では父親をスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)かグリゴリー・オルロフ公爵のどちらかだとしている。
- ^ a b 英語版では1761年に生まれた、エカチェリーナとオルロフの娘だとされている。
- “They had two illegitimate children, Yelizaveta and Aleksey, who were born in 1761 and 1762"
- ^ なお、プロイセンとの攻守同盟、教会の国有化政策はエカチェリーナの治世でも続けられた。
- ^ しかし、実際にはエカチェリーナ2世は前王朝のリューリク朝のトヴェリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチの直系の子孫の一人であり、彼の父親はロシア正教の聖人であり、「全ルーシ(ロシア)の大公」を自称した最初の人物である。故に、彼女はロマノフ朝の血統ではないものの、ロシアのツァーリの皇統の血を引く人物でもあり、ルーシやロシアの高名な歴史的人物の先祖を多く持つエカチェリーナ2世は全くロシアに関わりの無い人物と言う訳では無い。
- ^ A・ゲルツェン『ロシヤにおける革命思想の発達について』岩波文庫、1950年、99-100頁。
- ^ かなり信憑性の高い史料であるエカチェリーナとポチョムキンが交わした1162通もの往復書簡(モスクワのロシア国立公文書館に所蔵、ソビエト崩壊後の1997年に歴史学者ヴャチェスラフ・ロパーチン博士によって『エカチェリーナ2世とG・A・ポチョムキンの個人往復書簡集』(Екатерина II и Г. А. Потемкин. Личная переписка)として公表されたЕкатерина Вторая и Г. А. Потемкин «Личная переписка 1769-1791» - エカチェリーナとポチョムキンが交わした1162通もの往復書簡の全文を掲載。(PDF版))からもそういう事実があった可能性が窺えるが、今も研究が続いている。
- ^ “若宮丸漂流民の概略”(石巻若宮丸漂流民の会)2021年1月12日閲覧
- ^ a b 「エカテリーナ2世像撤去 帝政ロシア皇帝 オデーサ当局、露に反感」『読売新聞』朝刊2022年12月30日(国際面)2023年1月18日閲覧
- エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)のページへのリンク