ドミトリー・アレクサンドロヴィチとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ドミトリー・アレクサンドロヴィチの意味・解説 

ドミトリー・アレクサンドロヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/04 03:18 UTC 版)

ドミトリー・アレクサンドロヴィチ
Дмитрий Александрович
ウラジーミル大公
在位 1276/7年 - 1281年1283年 - 1285年

出生 1250年頃?
死去 1294年
子女 イヴァン
家名 リューリク家
王朝 リューリク朝
父親 アレクサンドル・ネフスキー
母親 アレクサンドラ・ブリャチスラヴナ
テンプレートを表示

ドミトリー・アレクサンドロヴィチДмитрий Александрович1250年頃? - 1294年)は、アレクサンドル・ネフスキーの次男。母はポロツク公女アレクサンドラ・ブリャチスラヴナペレヤスラヴリ。一時期ノヴゴロド公に就任した後、ウラジーミル大公(1276(或いは1277)年 - 1281年、1283年 - 1285年)。

父の存命中に頭角を現す。1262年には叔父にあたるヤロスラフ3世とともにドイツ騎士団と戦い、ユーリエフ(ドルパト)を攻め落とす。

1277年に、叔父のウラジーミル大公ヴァシーリー・ヤロスラヴィチを継ぎ、大公に就任。1281年以降は弟のアンドレイ・アレクサンドロヴィチ大公位を争った。ドミトリーにはノガイが、アンドレイにはジョチ・ウルスが付き、争いは熾烈を極め、両者は交互に大公位に就いた。1294年に死去。ペレヤスラヴリを彼の息子イヴァンが継ぐが、彼も8年後に父の後を追う。このイヴァンの遺言により、ペレヤスラヴリはドミトリーの弟のダニール・アレクサンドロヴィチに遺贈された。


先代
ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ
ウラジーミル大公
11代
1281年 - 1294年
次代
アンドレイ・アレクサンドロヴィチ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ドミトリー・アレクサンドロヴィチ」の関連用語

ドミトリー・アレクサンドロヴィチのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ドミトリー・アレクサンドロヴィチのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのドミトリー・アレクサンドロヴィチ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS