アンドレイ・アレクサンドロヴィチ (ウラジーミル大公)とは? わかりやすく解説

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アンドレイ・アレクサンドロヴィチ (ウラジーミル大公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 18:11 UTC 版)

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アンドレイ・アレクサンドロヴィチ
Андрей Александрович
ウラジーミル大公
在位 1294年 - 1304年

出生 1255年
死去 1304年
配偶者 ヴァシリサ・ドミトリエヴナ
家名 リューリク家
王朝 リューリク朝
父親 アレクサンドル・ネフスキー
母親 アレクサンドラ・ブリャチスラヴナ
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アンドレイ・アレクサンドロヴィチАндрей Александрович1255年頃 - 1304年)は、アレクサンドル・ネフスキーの三男。母はポロツク公女アレクサンドラブリャチスラフ・ヴァシリコヴィチの娘)。 ゴロジェッツおよびコストロマ。1294年以降ウラジーミル大公

事跡

1277年にカフカースタタールに向けて遠征。

1281年以降、ウラジーミル大公位をめぐり、兄ドミトリー・アレクサンドロヴィチと争う。その際、タタールを唆してこれを味方に付けてドミトリーと戦う場合が多かった(1281年、1285年、1293年デュデンの侵寇)。

1294年にロストフ公ドミトリー・ボリソヴィチの娘ヴァシリサと結婚。この年に兄が死去し、ウラジーミル大公を確保した。

1304年に死去。彼の三人の息子は父親より早くに亡くなっており、ウラジーミル大公位は従兄弟のトヴェリ公ミハイル・ヤロスラヴィチに移る。


先代:
ドミトリー・アレクサンドロヴィチ
ウラジーミル大公
12代
1294年 - 1304年
次代:
ミハイル・ヤロスラヴィチ



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