ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ_(ウラジーミル大公)とは? わかりやすく解説

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ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ (ウラジーミル大公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/10 22:30 UTC 版)

ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ
Василий Ярославич
ウラジーミル大公
在位 1272年 - 1277年

出生 1241年?
死去 1276年
家名 リューリク家
王朝 リューリク朝
父親 ヤロスラフ2世
母親 フェオドシヤ・イーゴレヴナ
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ヴァシーリー・ヤロスラヴィチВасилий Ярославич1241年? - 1276年)は、コストロマー公を経てウラジーミル大公(在位:1272年 - 1277年)。ヤロスラフ2世の末子で、アレクサンドル・ネフスキーヤロスラフ3世の弟に当たる。

生涯

1266年にコストロマーで結婚式を挙げる。1272年の冬、兄ヤロスラフ3世の死去に伴い、モンゴルより後継のウラジーミル大公に任じられる。その際、ノヴゴロドをも直接支配下におこうとしたが、こちらは甥のドミトリー・アレクサンドロヴィチの支配下に入った。ただし、ヴァシーリーはタタール軍を率いてドミトリー及びノヴゴロドを攻撃し、恨みを晴らしている(1272年)。サライからの帰国後、1276年1月に嗣子無くして死去。このため、大公の位は兄アレクサンドルの息子であるドミトリー・アレクサンドロヴィチが継いだ。

ヴァシーリー・ヤロスラヴィチの結婚
先代
ヤロスラフ3世
ウラジーミル大公
10代
1272年 - 1277年
次代
ドミトリー・アレクサンドロヴィチ



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