ドミトリー・ミハイロヴィチとは? わかりやすく解説

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ドミトリー・ミハイロヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 14:06 UTC 版)

ドミトリー・ミハイロヴィチ
Дмитрий Михаилович
ウラジーミル大公
モスクワ大公ユーリー3世を殺害するドミトリー公
在位 1322年 - 1326年
別号 トヴェリ大公
在位 1319年 - 1326年

出生 1299年
死去 1326年9月15日
配偶者 マリア・ゲディミナイテ
家名 リューリク家
父親 ウラジーミル大公ミハイル・ヤロスラヴィチ
母親 アンナ・カシンスカヤ
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ドミトリー・ミハイロヴィチロシア語: Дми́трий Миха́йлович, ラテン文字転写: Dmitrii Mikhailovich; 1299年 - 1326年9月15日)は、トヴェリ大公(在位:1319年 - 1326年)、ウラジーミル大公(在位:1322年 - 1326年)父はミハイル・ヤロスラヴィチ、母はロストフ公の娘アンナ・ドミトリエヴナ。モスクワユーリー3世の奸計により殺害された父の敵をサライで討ち、その後ウズベク・ハンにより処刑される。死後、トヴェリ大公位は弟アレクサンドル・ミハイロヴィチが継いだ。

事跡

幼少期から戦いに出撃していた。

  • 1314年に父がハン国に行き留守の際にノヴゴロド人が蜂起を起こすと、それを鎮圧して市長を追する。
  • 1318年には父をサライに連れて行く。彼の帰国後に父がユーリー3世の計略で殺害されることになる。
  • 1319年末に父の死の知らせを受け、トヴェリ公位に就く。
  • 1320年末に、リトアニア大公ゲディミナスの娘マリアと結婚する。
  • 1321年に、ハン国の貴族タヤンチャルがトヴェリ領であったカシンに来て、町を荒廃させる。
  • 1322年に、ユーリー3世が、ルーシからハンに入る収入に手をつけていることをサライ・ベルケに報告する。
  • 1324年には、ハンの許からユーリーに使節が送られた。
  • 1325年にハンの陣営においてユーリーと出会い、ウズベク・ハンを目の前にして、その場でユーリーを殺害する。
  • 1326年にそのまま処刑される。
先代
ミハイル・ヤロスラヴィチ
トヴェリ大公
1319年 - 1326年
次代
アレクサンドル・ミハイロヴィチ
先代
ユーリー3世
ウラジーミル大公
1322年 - 1326年
次代
アレクサンドル・ミハイロヴィチ




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