ヴァシーリー・プーキレフとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヴァシーリー・プーキレフの意味・解説 

ヴァシーリー・プーキレフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/24 05:08 UTC 版)

ヴァシーリー・プーキレフ
Василий Пукирев
自画像 (1868年)
生誕 ヴァシーリイ・ヴラディーミロヴィチ・プーキレフ
(1832-12-13) 1832年12月13日
ロシア帝国 トゥーラ県
死没 1890年6月1日(1890-06-01)(57歳没)
ロシア帝国 モスクワ
教育 ロシア帝国美術アカデミー
出身校 モスクワ絵画・彫刻・建築学校
著名な実績 絵画
運動・動向 写実画
テンプレートを表示
不釣合いな結婚 (1863年) 右端の人物がプーキレフの自画像となっている

ヴァシーリイ・ヴラディーミロヴィチ・プーキレフロシア語: Василий Владимирович Пу́кирев, ラテン文字転写: Vasili Vladimirovich Pukirev)またはヴァシーリイ・ウラヅィミラヴィチ・プキラウベラルーシ語: Васіль Уладзіміравіч Пукіраў1832年12月13日ユリウス暦12月1日〉 – 1890年6月13日〈ユリウス暦6月1日〉)は、写実主義による世俗画を専門としたロシア人画家

略歴

農家に生まれ、元々はモギリョフ(現マヒリョウ)のイコン画家の徒弟であった。ちょっとした巡り合わせでモスクワ絵画・彫刻・建築学校へと進学することができ、1847年から1858年までセルゲイ・ザリャーンコとアポローン・モクリーツキーに師事した[1]1850年以降は教員資格を得て美術教師として公立学校に勤めた。

1860年歴史画肖像画の講師になり、母校の近くのアパルトマンに落ち着いて、1873年まで同校の教壇に立った[2]1862年1864年にモスクワ美術愛好家協会の後援で、国外を旅して画廊を見学することができた。1869年にはアレクセイ・サヴラソフと協働で、公立学校で役立てるために図画の科目を整備した。絵画以外にイコンや、ゴーゴリツルゲーネフの著作のための挿し絵も手懸けている[1]

1873年に健康上の不安から教職を断念すると[1]1879年に画家仲間が集って手当を供与したが、プーキレフは1890年に貧困のうちにほぼ忘れられて世を去った[2]

不釣合いな結婚

プーキレフの最も名高い作品が、現在トレチャコフ美術館に展示されている『不釣合いな結婚』である。プーキレフの姿がキャンバスの右端に(おそらくはベストマンとして)描かれており、そのため本作は作者自身の実生活における失恋というエピソードを描いたものだとする話が浮上した[2]1863年にプーキレフは、本作を根拠としてロシア帝国美術アカデミーの名誉教授に任命された。本作は、プーキレフの支持者が、通常の世俗画が懐古趣味や感傷性に走りがちなのに対して、近代生活の中から深刻な主題を取り上げたとして称賛した[2]ことにより、報道機関に熱い論争を引き起こしてもいる。

作品集

脚注

  1. ^ a b c Brief biography @ RusArtNet.
  2. ^ a b c d Brief biography @ Russian Painting.

参考文献

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ヴァシーリー・プーキレフのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

ヴァシーリー・プーキレフのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヴァシーリー・プーキレフのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヴァシーリー・プーキレフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS