ウルリカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルク
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ウルリカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルク Ulrika Eleonora av Danmark |
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スウェーデン王妃 | |
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1686年、エーレンシュトラール画
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在位 | 1680年 - 1693年 |
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出生 | 1656年9月11日![]() |
死去 | 1693年7月26日(36歳没)![]() |
埋葬 | ![]() |
結婚 | 1680年5月6日 |
配偶者 | カール11世 |
子女 | 一覧参照 |
家名 | オルデンブルク家 |
父親 | デンマーク国王フレデリク3世 |
母親 | ゾフィー・アマーリエ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク |
ウルリカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルク(Ulrika Eleonora av Danmark, 1656年9月11日 - 1693年7月26日)は、スウェーデン国王カール11世の王妃。デンマーク国王フレデリク3世の娘で、クリスチャン5世は兄である。
生涯
スコーネ戦争(1675年 - 1679年)後の1679年9月に締結されたルンド条約により、1680年5月6日カール11世と結婚した。戦争勃発以前から婚約の計画があったが、戦争後の両国の和平成立と共に結婚した。この結婚によってデンマーク、スウェーデンは、20年にわたる平和の時代を迎えることになった。
ウルリカ・エレオノーラは、義母ヘートヴィヒ・エレオノーラとの関係に悩まされた。夫カール11世の母への敬愛からウルリカ・エレオノーラは王妃扱いをされなかったが、自身は良き妻であろうとした。カール11世は夫婦仲を公にしない性格であり、周囲からは王妃と不和であると見られたが、実際の夫婦仲は良好であった。ウルリカ・エレオノーラが1693年に没した時のカール11世の衝撃は、周囲から驚きをもって迎えられた。カール11世はその後生気を失い、4年後の1697年にウルリカ・エレオノーラを追うように没した。なお、1693年議会は、ウルリカ・エレオノーラの死をきっかけに招集され、主権宣言という形で決議されたが、これは王権の絶対性、すなわち「絶対君主制」の法制化を宣言するものであったが、その第一項は、崩御した王妃への哀悼の辞によって開始されている。
子女

(画)エーレンシュトラール
カール11世との間に7人の子を産むが、成人したのは3人のみである。
- ヘドヴィグ・ソフィア - ホルシュタイン=ゴットルプ公フレデリク4世妃
- カール12世 - スウェーデン国王
- ウルリカ・エレオノーラ - スウェーデン女王(プファルツ朝最後の君主)
固有名詞の分類
スウェーデンの王妃 |
ルイーゼ・ファン・オラニエ=ナッサウ フィリッパ・オブ・イングランド カタリーナ・フォン・ザクセン=ラウエンブルク ゾフィア・フォン・ナッサウ ウルリカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルク |
デンマークの王族 |
カロリーネ・ア・ダンマーク ヴィルヘルミーネ・カロリーネ・ア・ダンマーク ヴィルヘルミーネ・アーネスティーネ・ア・ダンマーク ウルリカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルク アレクサンドラ・オブ・デンマーク |
オルデンブルク家 |
アンナ・ソフィーエ・ア・ダンマーク カロリーネ・ア・ダンマーク ヴィルヘルミーネ・カロリーネ・ア・ダンマーク ヴィルヘルミーネ・アーネスティーネ・ア・ダンマーク ウルリカ・エレオノーラ・アヴ・ダンマルク |
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