仲哀天皇
成務天皇四十八年に立太子し、同天皇崩御に伴って翌々年に即位した。
即位後ほどなく気長足姫尊(おきながたらしひめ「神功皇后」)を妻に迎え皇后とした。
天皇はその後、角鹿・紀伊を巡ったが九州の熊襲が叛いたとの知らせを聞き、長門の豊浦から筑紫の橿日宮に入った。
そこで当時の慣わしとして神功皇后が戦前に吉兆を占った。
ところが神功皇后が発した言葉は意外なものであった。
熊襲征伐に出たはずの軍を宝の国(新羅国)に向けよというものであった。
これに天皇は怒り従来どうりに熊襲を討とうとしたため、武内宿禰のとりなしも虚しく神罰を受け命を落とした。
「日本書紀」によれば仲哀九年52歳で黄泉に旅立ったという。
天皇の死後に神功皇后が新羅に渡ることになるが、この物語は別な機会に譲りたい。
なお、「日本書紀」ではこの神功皇后を「魏志倭人伝」の卑弥呼にみたてているが、どうであろう。
第14代天皇 | |
天皇名 | 仲哀天皇 |
読み方 | ちゆうあいてんのう |
名・諱等 | 足仲彦尊 |
読み方 | たらしなかつひこのみこと |
時代区分 | 神代 |
天皇在位 | 192?年から200?年 |
生年 | 生年不詳 |
没年 | 没年不詳 |
父 | 日本武尊 |
母 | 両道入姫 |
兄弟 | ・・・・・ |
配偶者 | 気長足姫尊 |
皇子女 | 誉田別尊 |
即位宮 | 志賀高穴穂宮 |
天皇陵 | 惠我長野西陵 |
所在地 | 大阪府藤井寺市藤井寺 |
仲哀天皇
(足仲彦尊 から転送)
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仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? - 仲哀天皇9年2月6日)は、日本の第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)。『日本書紀』での名は足仲彦天皇。日本武尊の子で神功皇后の夫。通説では実在性の低い天皇の一人に挙げられる[1][2][3][4][5]。
注釈
出典
- ^ a b c 『国史大辞典9』吉川弘文堂 1988年 467ページ(笹山晴生)
- ^ a b c 『日本史大事典4』 平凡社 1997年 92ページ(春名宏昭)
- ^ 『日本の歴史1』中公文庫 (1986)pp.325-348
- ^ a b 『日本史広辞典』山川図書出版社(1997)
- ^ a b 『新視点日本の歴史2古代編』新人物往来社(1993)白石太一郎pp154-161
- ^ a b 門脇(1979)p.594
- ^ 『日本皇帝系図』続群書類従第5輯上系図部p.49。昭和34年5月15日訂正3版
- ^ a b 『日本書紀(二)』岩波書店 ISBN 9784003000427
- ^ 武光 1997, p. 13.
- ^ a b 『日本の歴史1』中公文庫 (1986)pp.325-348
- ^ a b c d 大津 2010, p. 129-133.
- ^ a b c 武光 1997, p. 104.
- ^ 最新古代史論 学研 P62
- ^ 『近江・大津になぜ都は営まれたのか?』大津市歴史博物館 P53およびP59
- ^ 宝賀寿男「第四章 神武天皇が活動した時代」『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年、200頁。
- ^ 宝賀寿男「第一章 戦後の神武天皇」『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。
- ^ 大津 2010, pp. 133–135.
- ^ 井上他 2003.
- ^ 「御橋悳言著作集 3 『曽我物語注解』」、続群書類従完成会、1986年、168-169頁
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