「魏志倭人伝」の卑弥呼
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「魏志倭人伝」によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。 また、卑弥呼は邪馬台国の王というのは間違いという説がある。この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明だが、魏志倭人伝で「輒灼骨而卜、以占吉凶」(骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う)とあるように卜術をよく行う巫女(シャーマン)であった可能性が高い。ただし中華の史書には、黎明期の中華道教や、儒教的価値観にそぐわない政治体制を鬼道と記している例もある。 本人は人前に姿を現さず、弟だけにしか姿を見せなかった。 福岡県糸島市の平原遺跡から八咫の鏡と同じ直径の大型内行花文鏡5枚を始め大量の玉類や装身具が出土していることから原田大六は被葬者は太陽神を崇める巫女であったとしたが、魏志倭人伝における伊都国の重要な役割から、卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった可能性がある。 既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。 卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当し、約90m)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。塚の大きさが直径で記されているところから、前方後円墳ではなく、円墳ないし丘地形を利用した形状だったと考えられる。
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