統一国家イタリアドイツの成立と政教関係とは? わかりやすく解説

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統一国家イタリア・ドイツの成立と政教関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「統一国家イタリア・ドイツの成立と政教関係」の解説

詳細は「イタリア統一運動」、「ローマ問題」、「ドイツ帝国」、および「文化闘争」を参照 ウィーン体制以降、とくに1830年代以降イタリアでは、政治文学思想科学などいたるところで「イタリア(人)意識高揚がみられ、宗教界でも1846年ローマ教皇即位したピウス9世教会国家の諸改革着手し北イタリアにおけるオーストリア支配現状にも遺憾の意表明してナショナル教皇」という印象あたえた。しかし、1848年革命とそれにつづく第1次イタリア独立戦争イタリア語版英語版)でピウス9世カトリックの長としてオーストリアとの戦争には加われないことを声明すると、イタリア統一を願う人々には失望広がったそれ以降イタリア統一運動主導したのは、憲法議会唯一存続させていたサルディーニャ王国であった首相カミッロ・カヴール自由主義的諸政策によって近代化進めて反教権主義世俗化推進しフランスナポレオン3世協力得てオーストリアからロンバルディアなどを得ることに成功した。さらに、イタリア南部地方も「青年イタリア」のジュゼッペ・ガリバルディナポリ王国征服してサルディーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世献上し、これらをもととして1861年には民族国家イタリア王国発足させた。イタリア王国1870年普仏戦争に際して教皇領をも併合し、ここにイタリア統一完成した1869年から1870年にかけてはローマサン・ピエトロ大聖堂において第1バチカン公会議開かれローマ教皇無謬性教皇不可謬説)と公会議よりも教皇その人優越すること(教皇首位説)とが宣言された。ウルトラモンタニズム方針がこうして打ち出されたものの、教皇領併合によって俗界権力失ったピウス9世は「バチカンの囚人英語版)」を自称しイタリア政府との対決姿勢を崩さなかった。1871年5月にはイタリア政府教皇保障法(英語版)を制定し教皇地位保証年金支給、そしてチッタ・レオニーナ(英語版)(現在のバチカン市国地域)におけるローマ教皇庁統治独立一方的に定めたが、教皇ピウス9世即座に拒絶回勅発した1874年には「ノン・エクスペディト(英語版)」(「ふさわしくない」の意)を宣言しイタリアの全カトリック教徒に対して国政選挙への立候補投票禁じた教皇権力と断絶して世俗主義打ち出したイタリア政府は、教皇へ配慮ぬきにイタリア全土施行した修道院宗教団体廃止法で教会土地没収し売却し、そこから利益得た土地購入者地主層限られ小作農分配されることはなかった。聖俗権力このような断絶は、1929年教皇庁ファシスト政権との間にラテラノ条約締結されるまで50年上続いた。 ドイツでは、統一主導権めぐってプロイセン王国オーストリア帝国対立存在していたが、この対立はすでにドイツ関税同盟結成し経済力優位に立っていたプロイセン側が「小ドイツ主義」を掲げて勝利したプロイセン首相オットー・フォン・ビスマルク指導のもと、普墺戦争と普仏戦争の両戦争オーストリアフランス相次いで破り1871年にはドイツ帝国成立宣言したドイツ帝国大小22国家と3自由都市からなる連邦制で、プロイセン王ドイツ皇帝兼ねたドイツ帝国議会男子普通選挙選出されたが内閣制度採用されなかった。帝国宰相となったビスマルクは「ビスマルク外交」と称される巧妙な外交フランス孤立させて国内的に産業保護して育成し工業化推進したビスマルク政治的に真正保守主義者であったそれ以上現実主義者であり、必要とあれば自由主義者民主主義者とも妥協し提携できる人物であった評されるドイツの政治思潮1870年代後半には自由主義から保守主義転換していくが、それはビスマルク1871年から1876年にかけておこなった文化闘争」と称される反教権主義的・反カトリック的な諸政策と結びついて展開した自由主義者たちと提携したビスマルクは、文化闘争を「カトリック教会の反近代主義迷妄打ち破り国民文化を守るための戦いである」と主張しプロイセン支配抵抗する南ドイツカトリック教徒ポーランド人などの少数派抑えて国民意識育成図ったのである上述たように第一回バチカン公会議1870年ローマ教皇無謬性宣言し自由主義的な政治体制経済体制批判したドイツ国内では、国民自由党ルター主義立場から、急進的自由主義者たちは近代科学主義立場からこれ反発したカトリック教徒のあいだでも意見衝突起こりミュンヘン大学ヨハン・イグナツ・フォン・デリンガー教皇不可謬説批判して教皇から破門され復古カトリック教会合流したオランダ起源のこの教会は、この問題機にスイスオーストリアへも広がったビスマルクカトリック教理については無関心だったが、教会内の内紛聖職者任免問題発展するにおよぶと介入し1871年教壇条例1872年学校監督法によって学校教育におけるカトリック教会監督権排除図った。この時点では、ビスマルクの反教権政策政教分離立場からする防衛戦様相呈していた。 1870年12月ドイツカトリック中央党結成された。中央党は、オーストリア除外されたためにプロテスタント支配的となったドイツ帝国にあって少数派となったカトリック信者利害代表する政党であったが、ビスマルクはこの党を統一ドイツ対す反政府勢力震源地みなして帝国の敵」と呼んだ実際中央党統一主義対す連邦主義、旧プロイセン対す西南ドイツ国民自由党支持母体である大資本対するところの中産階級労働者など広汎多様な勢力引きつけポーランド人、新領土となったエルザス(アルザス)・ロートリンゲンロレーヌ)の人々ヴェルフ派(ハノーファー王朝復辟派)などのマイノリティ中央党との提携図ったビスマルク1873年五月諸法制定し聖職者養成認定カトリック系教育機関管理教会から帝国監督下へ移し帝国内のイエズス会活動禁止したほか、出生・死亡結婚など戸籍事務国家移譲したうえ、不服従の牧師聖職者国外追放などを断行した。これ以降の「文化闘争」は強圧的攻撃的な性格のものとなり、信教良心の自由侵害するものを含んでいたが、ドイツ自由主義者たちはエドゥアルト・ラスカー(ドイツ語版)など少数例外除いてビスマルク反カトリック政策支持ないし追認した。反カトリック諸法抵抗した多く聖職者追放あるいは投獄されたが、このような弾圧はかえって中央党議席飛躍的に伸ばす結果となり、ルター派プロイセン国家結合重んじる保守勢力なかにも反対者生んだビスマルクカトリック指導者ルートヴィヒ・ヴィントホルスト(ドイツ語版)と和解し1879年文化闘争終結したイタリアドイツでは、このようにウルトラモンタニズムとの激し闘争をともなう緊張関係を通じて統一国家形成しそのなかで近代化政教分離図っていったのである

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