第10期:ハーバート家とは? わかりやすく解説

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第10期:ハーバート家(1551年 -)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 07:45 UTC 版)

ペンブルック伯」の記事における「第10期:ハーバート家(1551年 -)」の解説

1551年ペンブルック伯位はサー・ウィリアム・ハーバートに与えられることで復活した父親リチャードペンブルック伯第8期ハーバート家の初代ペンブルック伯ウィリアム非嫡出子に当たる彼はアン・パー(ヘンリー8世の6番目の妃キャサリン・パー姉妹)と結婚し1551年ペンブルック伯叙任されのであるペンブルック伯称号は、現在に至るまでウィリアムの子孫によって継承されている。 ウィリアム・ハーバート (初代ペンブルック伯爵) (1501年 - 1570年ヘンリー・ハーバート (第2代ペンブルック伯爵) (1534年 - 1601年ウィリアム・ハーバート (第3代ペンブルック伯爵)1580年 - 1630年) フィリップ・ハーバート (第4代ペンブルック伯爵および初代モンゴメリー伯爵) (1584年 - 1650年) フィリップ・ハーバート (第5代ペンブルック伯爵および第2代モンゴメリー伯爵) (1621年 - 1669年ウィリアム・ハーバート (第6代ペンブルック伯爵および第3モンゴメリー伯爵) (1642年頃 - 1674年) フィリップ・ハーバート (第7代ペンブルック伯爵および第4代モンゴメリー伯爵) (1652年頃 - 1683年トマス・ハーバート (第8代ペンブルック伯爵および第5代モンゴメリー伯爵) (1656年頃 - 1733年ヘンリー・ハーバート (第9代ペンブルック伯爵および第6代モンゴメリー伯爵) (1693年 - 1750年ヘンリー・ハーバート (第10代ペンブルック伯爵および第7代モンゴメリー伯爵) (1734年 - 1794年) ジョージ・オーガスト・ハーバート (第11ペンブルック伯爵および第8代モンゴメリー伯爵) (1759年 - 1827年) ロバート・ヘンリー・ハーバート (第12代ペンブルック伯爵および第9代モンゴメリー伯爵) (1791年 - 1862年) ジョージ・ロバート・チャールズ・ハーバート (第13代ペンブルック伯爵および第10代モンゴメリー伯爵) (1850年 - 1895年シドニー・ハーバート (第14代ペンブルック伯爵および第11モンゴメリー伯爵) (1853年 - 1913年) レジナルド・ハーバート (第15代ペンブルック伯爵および第12代モンゴメリー伯爵) (1880年 - 1960年) シドニー・チャールズ・ハーバート (第16代ペンブルック伯爵および第13代モンゴメリー伯爵) (1906年 - 1969年) ヘンリー・ジョージ・チャールズ・アレクサンダー・ハーバート (第17代ペンブルック伯爵および第14代モンゴメリー伯爵) (1939年 - 2003年) ウィリアム・アレクサンダー・シドニー・ハーバート (第18ペンブルック伯爵および第15代モンゴメリー伯爵) (1978年 -) 現在、爵位法定推定相続人18代伯の息子のレジナルド・ヘンリー・マイケル・ハーバート(2012年10月21日生まれ)である。 ヘンリー8世遺言執行者にして価値のある領土受取人である初代ペンブルック伯ウィリアム・ハーバートエドワード6世治世下において突出し権勢のあった人物であったまた、サマセット公エドワード・シーモアとその政敵であり、後のノーサンバーランド公爵ジョン・ダドリー庇護者をつとめ、策略使い支援したりもした。ダドリーと共にサマセット公投獄しサマセット公失脚後ウィルトシャー領地爵位を得ることになったが、ジェーン・グレイ戴冠のために画策しと言われている。いずれにせよ、彼はジェーン・クレイの短い統治下において助言者を務めたが、ジェーン支持失われた時、メアリー1世側につくことを宣言したこうした経緯からメアリー1世やその一派から度々ウィリアム忠誠心疑われたが、カレー知事およびウェールズ長官その他の職務をこなし、スペイン王フェリペ2世メアリー1世の夫)の信頼ある程度得ていた。エリザベス1世治世下でも1569年までその地位保持していたが、メアリー・スチュアートノーフォーク公トマス・ハワード結婚させる計画関与したとの疑い持たれしまっている。ウィリアム与えられていた土地にはソーズベリーの近くウィルトンがあり、ここは現在もペンブルック伯住居がある。 爵位継承した長男第2代ペンブルック伯ヘンリー1586年から死ぬまでウェールズ長官務め1577年にヘンリー・シドニー[要曖昧さ回避]とその妻メアリー・ダドリーの3番目の娘メアリー・シドニーと結婚している。妻メアリー・シドニーはペンブルック伯爵夫人として有名であり、兄のフィリップ・シドニーとは生涯通じて深い係わり持ちフィリップ・シドニー1580年の夏で妹と共にウィルトンもしくはアイビーチャーチで過ごし、その付近で彼女の好きな隠遁生活送ったまた、妹の要求にこたえる形で、出版する意図でなくただ彼女を喜ばせることだけを目的として「ペンブルック伯爵夫人アルカディア」(en)の執筆開始した2人詩篇韻律編集行っている。 兄の死にメアリーはひどく悲しむと、自ら兄の遺産管理人就任し未完成アルカディアやその他、1590年から1591年の間に作られた兄の詩を修正したりした。また、兄が保護しようと眼を掛けた詩人たちのパトロンなども行っている。エドマンド・スペンサーは彼女に対して時の廃墟』(The Ruines of Time)を捧げており、『コリン・クラウト故郷帰る』という作品では彼女を「文芸女神」と言及している。また、『アストロエル』において彼女は「クロリンダ」と表記されている。1599年エリザベス1世が客としてウィルトンやってくると、メアリー女王星乙女たたえる詩を製作している。夫が亡くなるとメアリーは主にロンドンのクロスビー・ホールに住み、そこで死去したメアリーは他にフランス人のフィリップ・ド・モルネー(en)の『死と生について』(A Discourse of Life and Death)、ロベール・ガルニエ(en)の悲劇にたいする批評アントニー』などを翻訳したまた、ある学者などはウィリアム・シェイクスピア名義作品真の著者メアリーだったのではないかという推測をしている。ロビン・ウィリアムはアメリカのウィルトン・サークルから『愛しエイボン白鳥』(Sweet Swan of Avon)を出版しているが、以下に述べるような2人の息子と同様、彼女の波乱万丈人生について記載している。 ヘンリーメアリー長男第3ペンブルック伯ウィリアム・ハーバートは、当時の社会およびジェームズ1世宮廷では有名な人物であった何度バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ反対することもあり、アメリカ大陸の植民地化に対して強い関心持っていた。彼は1615年から1625年の間王家宮内庁長官官房務め1626年から1630年の間は侍従務めた1624年にはオックスフォード大学学長になっており、トマス・ディスデル(en)とリチャード・ウィックがブロードゲート・ホールを再建した時はペンブルック伯名誉にちなんでこれをペンブルック・カレッジ名づけている。 あるシェイクスピア研究家からは、トマス・ソープ(en)が出版したウィリアム・シェイクスピアソネット集献辞に「唯一の父親」(the onlie begetter)として言及するW・H氏」がウィリアム同一人物であると考えている。一方で彼の愛人のメアリー・フィットン(en)はソネットにおける「黒の淑女」(dark lady)と同一視される。だが、「唯一の父親」および「黒の淑女」の特定は非常に疑わしいウィリアムと弟のフィリップシェイクスピアの『ファースト・フォリオ』において「比類なき兄弟」(incomparable pair of brethren)として言及されている。なお、フィリップの方はジェームズ1世同性愛相手として寵愛された時期にはたいそう利益得ていた。 1630年4月10日ウィリアム子供儲けことなく死去したクラレンドン伯爵エドワード・ハイド彼について褒め称えているが、実際薄弱自堕落な人物であったというように見える。ガードナーは彼を「英国宮廷ハムレット」というように形容している。また、ウィリアム文学趣味もあり、自身で詩を書いたりしていた。彼の最も親し詩人ジョン・ダンであり、ベン・ジョンソン、マッシンジャー(en)などに対し寛大に接していた。 後を継いだ弟の第4代ペンブルック伯フィリップ魅力的な容姿激し情熱および野外での運動一般能力によって、ある時期においてジェームズ1世寵臣であったジェームズ1世は、1605年フィリップモンゴメリー伯爵およびシューランドのハーバート男爵叙任している。この叙任によりフィリップペンブルック伯領を継承すると、ハーバート家長はペンブルックとモンゴメリー双方伯爵兼任することになったフィリップ喧嘩っ早い性格であったためにしばしばトラブル引き起こしたが、ジェームズ1世からの評価失わず、彼から幾つも領地官職与えられ息子チャールズ1世からも信頼得ている。1626年チャールズ1世から宮内庁長官官房任命された上、しばしばチャールズ1世ウィルトン訪問しているからである。 1639年1640年にはチャールズ1世スコットランドの間で平和をもたらすために尽力したが、チャールズ1世議会との間ので再び不和起きた際、チャールズ1世から侍従官職剥奪される見限り第一党からの信頼得たフィリップワイト島知事任命され幾度も議会の代表1人選ばれている。特に清教徒革命イングランド内戦)の最中1645年アクスブリッジen)と、1648年ニューポートと、1647年スコットランドチャールズ1世身柄引き渡した際の交渉などを担当している。また、1641年から1643年および1647年から1650年の間はオックスフォード大学学長務めている。 フィリップ学長をしていた1648年厳粛な同盟と契約反対する立場重役何人解任している。その際放った罵詈雑言により「罵倒語に能弁な人間には、大学学長よりも精神病院の院長相応しい」との評価招いてしまっている。1649年には貴族だったにもかかわらずバークシャー選挙区英語版)から下院議員として選出されている。この現象王党派著作において「下位の上昇」(ascent downwards)と皮肉られている。なお、フィリップ絵画の収集家であり、建築に対してある程度関心があった。 フィリップ生存している子供のうち最年長だった同名息子フィリップは第5代ペンブルック伯および第2代モンゴメリーとなった。彼は2度の結婚をし、順に3人の息子儲けたが、長男ウィリアム次男フィリップ早世末子トマス第8代ペンブルック伯爵および第5代モンゴメリー伯として継承した第8代になったトマスウィリアム3世アン女王の治世下において著名な人物であった。彼は1690年から1697年の間には海軍卿務め、それから1699年まで王璽尚書務めたが、イングランド大同盟戦争講和条約であるレイスウェイク条約調印する際の全権大使になっているトマス海軍卿をしていた期間に2つ出来事があり、1つ目は彼が枢密院議長en)とアイルランド総督をも兼任していた一方で7度司法卿1人として働いたことである。2つ目は1689年から1690年の間に王立協会理事長をしていたことである。 トマス息子第9代になったヘンリー軍人であったが、むしろ「建築家伯爵」として有名で、ウェストミンスター橋en)の建築について主要責任者であったその後称号受け継いだ同名息子第10代ヘンリー軍人であり、1762年に『馬の調教方法について』(Method of Breaking Horses)という著作書いた。第11伯爵のジョージ・オーガストは1807年ウィーンへの特命大使務めている。 第12代伯のロバート・ヘンリーは子供儲けことなく1862年フランスで死去パリペール・ラシェーズ墓地埋葬された。第13代伯のジョージ・ロバート・チャールズは第10代ヘンリーの孫にして、兄の死によって家族称号全て相続したシドニー1853年生まれ)の次男であるヒューバート・オブ・リー男爵息子にあたる。

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