第10期:ハーバート家(1551年 -)
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「ペンブルック伯」の記事における「第10期:ハーバート家(1551年 -)」の解説
1551年、ペンブルック伯位はサー・ウィリアム・ハーバートに与えられることで復活した。父親のリチャードがペンブルック伯第8期ハーバート家の初代ペンブルック伯ウィリアムの非嫡出子に当たる彼はアン・パー(ヘンリー8世の6番目の妃キャサリン・パーの姉妹)と結婚し、1551年にペンブルック伯に叙任されたのである。ペンブルック伯の称号は、現在に至るまでウィリアムの子孫によって継承されている。 ウィリアム・ハーバート (初代ペンブルック伯爵) (1501年 - 1570年) ヘンリー・ハーバート (第2代ペンブルック伯爵) (1534年 - 1601年) ウィリアム・ハーバート (第3代ペンブルック伯爵) (1580年 - 1630年) フィリップ・ハーバート (第4代ペンブルック伯爵および初代モンゴメリー伯爵) (1584年 - 1650年) フィリップ・ハーバート (第5代ペンブルック伯爵および第2代モンゴメリー伯爵) (1621年 - 1669年) ウィリアム・ハーバート (第6代ペンブルック伯爵および第3代モンゴメリー伯爵) (1642年頃 - 1674年) フィリップ・ハーバート (第7代ペンブルック伯爵および第4代モンゴメリー伯爵) (1652年頃 - 1683年) トマス・ハーバート (第8代ペンブルック伯爵および第5代モンゴメリー伯爵) (1656年頃 - 1733年) ヘンリー・ハーバート (第9代ペンブルック伯爵および第6代モンゴメリー伯爵) (1693年 - 1750年) ヘンリー・ハーバート (第10代ペンブルック伯爵および第7代モンゴメリー伯爵) (1734年 - 1794年) ジョージ・オーガスト・ハーバート (第11代ペンブルック伯爵および第8代モンゴメリー伯爵) (1759年 - 1827年) ロバート・ヘンリー・ハーバート (第12代ペンブルック伯爵および第9代モンゴメリー伯爵) (1791年 - 1862年) ジョージ・ロバート・チャールズ・ハーバート (第13代ペンブルック伯爵および第10代モンゴメリー伯爵) (1850年 - 1895年) シドニー・ハーバート (第14代ペンブルック伯爵および第11代モンゴメリー伯爵) (1853年 - 1913年) レジナルド・ハーバート (第15代ペンブルック伯爵および第12代モンゴメリー伯爵) (1880年 - 1960年) シドニー・チャールズ・ハーバート (第16代ペンブルック伯爵および第13代モンゴメリー伯爵) (1906年 - 1969年) ヘンリー・ジョージ・チャールズ・アレクサンダー・ハーバート (第17代ペンブルック伯爵および第14代モンゴメリー伯爵) (1939年 - 2003年) ウィリアム・アレクサンダー・シドニー・ハーバート (第18代ペンブルック伯爵および第15代モンゴメリー伯爵) (1978年 -) 現在、爵位の法定推定相続人は18代伯の息子のレジナルド・ヘンリー・マイケル・ハーバート(2012年10月21日生まれ)である。 ヘンリー8世の遺言執行者にして価値のある領土の受取人である初代ペンブルック伯ウィリアム・ハーバートはエドワード6世の治世下において突出し、権勢のあった人物であった。また、サマセット公エドワード・シーモアとその政敵であり、後のノーサンバーランド公爵ジョン・ダドリーの庇護者をつとめ、策略を使い支援したりもした。ダドリーと共にサマセット公を投獄し、サマセット公の失脚後はウィルトシャーの領地と爵位を得ることになったが、ジェーン・グレイの戴冠のために画策したと言われている。いずれにせよ、彼はジェーン・クレイの短い統治下において助言者を務めたが、ジェーンの支持が失われた時、メアリー1世側につくことを宣言した。 こうした経緯からメアリー1世やその一派から度々ウィリアムは忠誠心は疑われたが、カレーの知事およびウェールズの長官その他の職務をこなし、スペイン王フェリペ2世(メアリー1世の夫)の信頼もある程度得ていた。エリザベス1世の治世下でも1569年までその地位を保持していたが、メアリー・スチュアートとノーフォーク公トマス・ハワードを結婚させる計画に関与したとの疑いを持たれてしまっている。ウィリアムが与えられていた土地にはソーズベリーの近くのウィルトンがあり、ここは現在もペンブルック伯の住居がある。 爵位を継承した長男の第2代ペンブルック伯ヘンリーは1586年から死ぬまでウェールズの長官を務め、1577年にヘンリー・シドニー[要曖昧さ回避]とその妻メアリー・ダドリーの3番目の娘メアリー・シドニーと結婚している。妻メアリー・シドニーはペンブルック伯爵夫人として有名であり、兄のフィリップ・シドニーとは生涯を通じて深い係わりを持ち、フィリップ・シドニーは1580年の夏で妹と共にウィルトンもしくはアイビーチャーチで過ごし、その付近で彼女の好きな隠遁生活を送った。また、妹の要求にこたえる形で、出版する意図でなくただ彼女を喜ばせることだけを目的として「ペンブルック伯爵夫人のアルカディア」(en)の執筆を開始した。2人は詩篇の韻律の編集も行っている。 兄の死にメアリーはひどく悲しむと、自ら兄の遺産管理人に就任し未完成のアルカディアやその他、1590年から1591年の間に作られた兄の詩を修正したりした。また、兄が保護しようと眼を掛けた詩人たちのパトロンなども行っている。エドマンド・スペンサーは彼女に対して『時の廃墟』(The Ruines of Time)を捧げており、『コリン・クラウト故郷に帰る』という作品では彼女を「文芸の女神」と言及している。また、『アストロエル』において彼女は「クロリンダ」と表記されている。1599年にエリザベス1世が客としてウィルトンにやってくると、メアリーは女王を星乙女とたたえる詩を製作している。夫が亡くなるとメアリーは主にロンドンのクロスビー・ホールに住み、そこで死去した。 メアリーは他にフランス人のフィリップ・ド・モルネー(en)の『死と生について』(A Discourse of Life and Death)、ロベール・ガルニエ(en)の悲劇にたいする批評『アントニー』などを翻訳した。また、ある学者などはウィリアム・シェイクスピア名義の作品の真の著者はメアリーだったのではないかという推測をしている。ロビン・ウィリアムはアメリカのウィルトン・サークルから『愛しきエイボンの白鳥』(Sweet Swan of Avon)を出版しているが、以下に述べるような2人の息子と同様、彼女の波乱万丈の人生について記載している。 ヘンリーとメアリーの長男の第3代ペンブルック伯ウィリアム・ハーバートは、当時の社会およびジェームズ1世の宮廷では有名な人物であった。何度かバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズに反対することもあり、アメリカ大陸の植民地化に対して強い関心を持っていた。彼は1615年から1625年の間王家の宮内庁長官官房を務め、1626年から1630年の間は侍従を務めた。1624年にはオックスフォード大学の学長になっており、トマス・ディスデル(en)とリチャード・ウィックがブロードゲート・ホールを再建した時はペンブルック伯の名誉にちなんでこれをペンブルック・カレッジと名づけている。 あるシェイクスピア研究家からは、トマス・ソープ(en)が出版したウィリアム・シェイクスピアのソネット集の献辞に「唯一の父親」(the onlie begetter)として言及する「W・H氏」がウィリアムと同一人物であると考えている。一方で彼の愛人のメアリー・フィットン(en)はソネットにおける「黒の淑女」(dark lady)と同一視される。だが、「唯一の父親」および「黒の淑女」の特定は非常に疑わしい。ウィリアムと弟のフィリップはシェイクスピアの『ファースト・フォリオ』において「比類なき兄弟」(incomparable pair of brethren)として言及されている。なお、フィリップの方はジェームズ1世の同性愛の相手として寵愛された時期にはたいそう利益を得ていた。 1630年4月10日、ウィリアムは子供を儲けることなく死去した。クラレンドン伯爵エドワード・ハイドは彼について褒め称えているが、実際は薄弱で自堕落な人物であったというように見える。ガードナーは彼を「英国宮廷のハムレット」というように形容している。また、ウィリアムは文学趣味もあり、自身で詩を書いたりしていた。彼の最も親しい詩人はジョン・ダンであり、ベン・ジョンソン、マッシンジャー(en)などに対し寛大に接していた。 後を継いだ弟の第4代ペンブルック伯フィリップは魅力的な容姿と激しい情熱および野外での運動一般の能力によって、ある時期においてジェームズ1世の寵臣であった。ジェームズ1世は、1605年にフィリップをモンゴメリー伯爵およびシューランドのハーバート男爵に叙任している。この叙任によりフィリップがペンブルック伯領を継承すると、ハーバートの家長はペンブルックとモンゴメリーの双方の伯爵を兼任することになった。 フィリップは喧嘩っ早い性格であったためにしばしばトラブルを引き起こしたが、ジェームズ1世からの評価は失わず、彼から幾つも領地や官職を与えられ、息子のチャールズ1世からも信頼を得ている。1626年、チャールズ1世から宮内庁長官官房に任命された上、しばしばチャールズ1世がウィルトンを訪問しているからである。 1639年と1640年にはチャールズ1世とスコットランドの間で平和をもたらすために尽力したが、チャールズ1世と議会との間ので再び不和が起きた際、チャールズ1世から侍従の官職を剥奪されると見限り、第一党からの信頼を得たフィリップはワイト島の知事に任命され、幾度も議会の代表の1人に選ばれている。特に清教徒革命(イングランド内戦)の最中の1645年にアクスブリッジ(en)と、1648年のニューポートと、1647年にスコットランドがチャールズ1世の身柄を引き渡した際の交渉などを担当している。また、1641年から1643年および1647年から1650年の間はオックスフォード大学の学長を務めている。 フィリップが学長をしていた1648年、厳粛な同盟と契約に反対する立場の重役を何人か解任している。その際放った罵詈雑言により「罵倒語に能弁な人間には、大学の学長よりも精神病院の院長に相応しい」との評価を招いてしまっている。1649年には貴族だったにもかかわらず、バークシャー選挙区(英語版)から下院議員として選出されている。この現象は王党派の著作において「下位への上昇」(ascent downwards)と皮肉られている。なお、フィリップは絵画の収集家であり、建築に対してもある程度の関心があった。 フィリップの生存している子供のうち最年長だった同名の息子フィリップは第5代ペンブルック伯および第2代モンゴメリー伯となった。彼は2度の結婚をし、順に3人の息子を儲けたが、長男のウィリアムと次男のフィリップは早世、末子のトマスが第8代ペンブルック伯爵および第5代モンゴメリー伯として継承した。 第8代伯になったトマスはウィリアム3世とアン女王の治世下において著名な人物であった。彼は1690年から1697年の間には海軍卿を務め、それから1699年まで王璽尚書を務めたが、イングランドが大同盟戦争の講和条約であるレイスウェイク条約を調印する際の全権大使になっている。トマスが海軍卿をしていた期間に2つの出来事があり、1つ目は彼が枢密院議長(en)とアイルランド総督をも兼任していた一方で、7度も司法卿の1人として働いたことである。2つ目は1689年から1690年の間に王立協会の理事長をしていたことである。 トマスの息子で第9代伯になったヘンリーは軍人であったが、むしろ「建築家伯爵」として有名で、ウェストミンスター橋(en)の建築について主要責任者であった。その後に称号を受け継いだ同名の息子の第10代伯ヘンリーも軍人であり、1762年に『馬の調教方法について』(Method of Breaking Horses)という著作を書いた。第11代伯爵のジョージ・オーガストは1807年にウィーンへの特命大使を務めている。 第12代伯のロバート・ヘンリーは子供を儲けることなく1862年にフランスで死去、パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。第13代伯のジョージ・ロバート・チャールズは第10代伯ヘンリーの孫にして、兄の死によって家族の称号を全て相続したシドニー(1853年生まれ)の次男であるヒューバート・オブ・リー男爵の息子にあたる。
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