第一次シュレージエン戦争とは? わかりやすく解説

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第一次シュレージエン戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:43 UTC 版)

オーストリア継承戦争」の記事における「第一次シュレージエン戦争」の解説

詳細は「第一次シュレージエン戦争」を参照 1740年皇帝カール6世没すると、プロイセン王ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ2世は、皇帝選挙マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン投票することを条件シュレージエンシレジア地方いくつかの領地割譲求めたシュレージエン地方フリードリヒ2世求めた背景としては、まず同地方が経済的に重要なオーデル川有し南部ベーメンボヘミア)・メーレンモラヴィア)との境界軍事的に重要な山脈位置し、さらに侵攻に際して後方連絡線確保比較的に容易であり、加えてオーストリア軍勢力相対的に寡少であると評価したことがあるオーストリア宮廷要求拒否したのに対しプロイセン軍は、バイエルン・フランス・ザクセンなどの支持準備して1740年12月16日オーストリアの不意を突きシュレージエン侵攻したプロイセン軍はいくつかの要塞を除くこの地方大部分占領し、冬を過ごす。マリア・テレジアフリードリヒ2世侵略激怒し主力であるナイペルク兵団転進させてシュレージエン地方奪回作戦企図する。翌1741年3月末にはオーストリア軍プロイセン軍根拠地求めて迂回のために北進し、プロイセン軍防勢となる。 そこでフリードリヒ2世決戦することを決心し1741年4月10日にモルヴィッツでプロイセン軍2万オーストリア軍2万戦い火力に勝るプロイセン軍オーストリア軍撃退された。この敗北ハプスブルク家対す各国介入を招く結果となり、また、新興国であったプロイセンの台頭効果的に印象付けプロイセン軍野戦司令部各国外交使節訪れることとなったこうした経過もあり、同年5月28日ニンフェンブルク条約締結されバイエルンフランススペインの3か国が同盟結んだ。さらに、プロイセンザクセン加わりオーストリア西方包囲される至ったマリア・テレジア6月25日ハンガリー女王として戴冠した議会との折衝経てハンガリー救援得たものの、コトゥジッツの戦い敗北契機に、1742年7月イギリス仲介得てシュレージエン大部分ベーメンの1郡をプロイセン割譲する講和密約ベルリンの和)を締結した

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第一次シュレージエン戦争 (1740年-1742年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:17 UTC 版)

フリードリヒ2世 (プロイセン王)」の記事における「第一次シュレージエン戦争 (1740年-1742年)」の解説

戦役詳細については「第一次シュレージエン戦争」を参照 1740年10月20日神聖ローマ皇帝カール6世急逝した国事詔書によってハプスブルク家領は娘のマリア・テレジア相続したフリードリヒ2世はこれを承認する見返りボヘミア王冠領ハプスブルク帝国構成国)のシュレージエン現在のポーランド南西部からチェコ北東部)の割譲求めたが、マリア・テレジア拒否したフリードリヒ2世1740年12月16日宣戦布告することなしシュレージエン侵攻した(第一次シュレージエン戦争の開始)。先帝カール6世の遺した国事詔書反故にしての進軍だった。シュレージエン急襲成功しプロイセン軍はわずか戦死22人の損害占領成功した。これ以降、かつての婚約者候補だったハプスブルク家当主マリア・テレジアフリードリヒ2世生涯宿敵となった。翌1741年4月10日モルヴィッツの戦いプロイセン圧勝収めプロイセンの台頭各国印象付けることに成功する5月にバイエルン・フランス・スペインがニンフェンブルク条約オーストリア包囲する同盟むすんだフランスプロイセンザクセンとも同盟したザクセン選帝侯ポーランドアウグスト3世ボヘミア継承主張して侵攻した撤退しオーストリア同盟した一方バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトフランスとむすび上オーストリアボヘミア侵攻し1741年12月ボヘミア王として戴冠し、翌1742年には弟のケルン大司教クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルンによって神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠された。しかしハンガリー組んだマリア・テレジア反撃によってバイエルン奪われた。 フリードリヒ2世1742年5月17日コトゥジッツの戦いハプスブルク帝国勝利し1742年7月ベルリン条約シュレージエン割譲認めさせた。 フリードリヒは、士官膝枕仮眠とったり負傷した兵卒の傷の手当てに自らのハンカチ差し出すなど、階級の上下を問わず将兵との交流好み絶大な人気得ていた。

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第一次シュレージエン戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 23:35 UTC 版)

シュレージエン戦争」の記事における「第一次シュレージエン戦争」の解説

詳細は「第一次シュレージエン戦争」を参照 1740年10月20日カール6世死去すると、フリードリヒ2世はすぐに先制攻撃決めて11月8日プロイセン陸軍動員命じ12月11日マリア・テレジア最後通牒突き付けてシュレージエン割譲要求したシュレージエン割譲代償として、フリードリヒ2世それ以外ハプスブルク家領への攻撃を防ぐこと、多額賠償金支払うこと、国事詔書承認することと、神聖ローマ皇帝選挙英語版)でブランデンブルク選帝侯としての票をマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン投じることを提案したフリードリヒ2世返事待たず12月16日プロイセン軍率いて宣戦布告せずに国境越えてシュレージエン侵入した以降1741年1月末までにシュレージエンのほぼ全域占領し、残るグローガウブリークナイセオーストリア3拠点包囲したオーストリア軍3月末にナイセ包囲解いたが、4月10日モルヴィッツの戦いプロイセン本軍敗北したため、プロイセンシュレージエン支配揺るぎないものとなったヨーロッパ諸国オーストリアモルヴィッツの戦い敗れプロイセン軍侵攻阻止できなかったことに勇気づけられ、オーストリアへの攻撃踏み切った。これにより戦争単なるシュレージエンをめぐる紛争とどまらずオーストリア継承戦争発展し以降か月の間、バイエルンザクセンフランスナポリスペイン各地オーストリア領を攻撃するが、フリードリヒ2世イギリス催促仲介もあってマリア・テレジアとの秘密講和交渉開始10月9日クラインシュネレンドルフの密約呼ばれる秘密停戦協定締結した。この密約により、オーストリア講和代償として、来たる講和条約で下シュレージエン英語版)を割譲することに同意したオーストリア自軍を他の敵軍への対処にあて、失地回復し始めると、フリードリヒ2世オーストリア密約履行してシュレージエン割譲応じるつもりがないと判断し協定無効宣言して進軍再開した1741年12月プロイセン軍モラヴィア進軍し首府オルミュッツ占領ボヘミア辺境グラーツ英語版要塞包囲した1742年1月皇帝選挙英語版が行われ、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが(カール7世として)神聖ローマ皇帝当選した2月フリードリヒ2世ザクセン軍とフランス軍とともにモラヴィア経由してウィーンへの進軍はじめたが、フランス軍非協力的態度をとったためウィーンへの進軍計画4月放棄されプロイセン軍ボヘミアと上シュレージエン撤退したオーストリア軍ボヘミアへの反攻試み5月17日コトゥジッツの戦いフリードリヒ2世率いプロイセン軍交戦した敗北した。これによりオーストリア連合軍ボヘミアから追い出す手段持たない状況になり、ブレスラウプロイセンとの講和交渉再開したイギリスからの圧力により、オーストリアシュレージエン大半ボヘミアグラーツ伯領(英語版)の割譲同意シュレージエン南端にあるわずかな領土(クルノフ、オパヴァ英語版)、ヌィサ英語版三公国の一部、およびチェシン公国)のみ維持することとなったまた、プロイセンシュレージエン資産担保にしたオーストリア負債一部肩代わりすることに同意しオーストリア継承戦争における中立維持にも同意した。この合意1742年6月11日ブレスラウ条約採択され7月28日ベルリン条約英語版)で正式に確認された。

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