狭山裁判の歴史とは? わかりやすく解説

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狭山裁判の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 23:51 UTC 版)

狭山事件」の記事における「狭山裁判の歴史」の解説

事件・裁判経過年月日事柄1963年 5月1日 下校途中女子高生が行不明になり、自宅身代金要求する脅迫状が届く。 5月2日 脅迫状指定された場所に現金持参するが、犯人現金受け取らず逃走警察犯人逮捕失敗する5月3日 捜査本部発足。この日の朝、養豚場経営者IK自宅警官訪問しIK宅に出入りしている青年らの住所氏名訊く5月4日 女子高生遺体発見される養豚場経営者IK宅に出入りする人々筆跡警察集め始める。 5月10日 このころ石川一雄養豚場経営者IKから事件当日アリバイ血液型尋ねられ、「1日は兄と仕事をしていた。血液型犯人とは違う」と嘘をつく 5月15日 石川一雄が兄から「もしお前だったら男らしく自首して出ろ!」と詰問され「おれじゃない」と答える。この日、『埼玉新聞』が「きょうにも逮捕女高生殺し堀兼青年A」と報じる。このAとは養豚場経営者IKのことだが、事件当日アリバイがあった上、血液型もBではなかったので女高生殺しでは逮捕されなかった(ただし6月4日窃盗容疑逮捕されている)。 5月21日 捜査線上浮かび上がった石川一雄自宅警官訪問を受ける。事件当日は朝から夕方まで兄と共に近所仕事をしていた旨の、虚偽アリバイ申し立てる自筆の上申書を作成。ただし八木澤高明による2019年インタビューには「警察捜査しているなんてまったく気がつかなかった。警察早朝に来た時もパンツ一丁寝ていたんですよ。逮捕容疑友達作業着を返さなかった窃盗だったんです。両親にはすぐ帰って来るからって言って家を出たんです。それから32年ですからね」と答えている。 5月23日 石川恐喝未遂窃盗暴行容疑逮捕される虚偽アリバイ主張維持し犯行否認同日深夜石川の兄が共産党市議のもとに駆けつけ弁護士紹介依頼。このとき石川の兄は「もしかしたら、弟はやったかもしれないが…」と語っていた。当時すでに5月1日事件当日の行動について養豚場経営者や兄や警官からたびたび話を訊かれていたにもかかわらず石川後年2008年5月)のインタビュー逮捕時の心境を「そりゃあびっくりしましたよ。ただね、養豚場にいた頃、ものを盗んだとかしてたから、そういうことでなのかなあ、と」「両親もね、最初養豚場で何か悪いことたんじゃいかって、そう思ってみたいですね」と語っている。 6月4日 養豚場経営者IK元従業員TA16本(2万3000円相当)の窃盗容疑別件逮捕される(のち両人とも狭山事件については潔白判断された)。両人石川共犯可能性疑われたのではなく石川追及突破口として逮捕されたと報じられている。このとき養豚場経営者IKの弟IY逮捕されたとする資料もある一方2審第17回公判で原正(1審担当検事)は「IY逮捕しません」と証言している。当時の新聞報道によるとIY任意出頭求められ取り調べ受けただけであるという。 6月12日 石川警察による取調べで、脅迫状筆跡と自らの筆跡について「同じだと字の先生言って居るそうですが、私も字の先生の言う事は信用します」と供述6月13日 石川窃盗森林窃盗傷害暴行横領の罪で起訴される6月17日 石川保証金5万円で保釈されるも、警察署を出る間もなく15時20分ごろ強盗強姦強盗殺人死体遺棄容疑再逮捕される。 6月20日石川によると6月23日石川、3人共犯自白を行う。それにもかかわらず裁判官勾留質問では被害者について知らないから知りません」と陳述また、6月20日付で留置場壁板被害者への詫び文句を爪書きする。 6月21日 被害者カバン発見される6月23日石川によると6月26日石川単独犯行自白を行う。 6月27日 石川被害者父親詫び状書き自分極刑にしてくれと要求する6月26日 被害者万年筆発見される7月2日 被害者腕時計発見される7月9日 石川強盗強姦強盗殺人死体遺棄および恐喝未遂の罪で追起訴される 同日浦和拘置所移される9月4日 浦和地方裁判所初公判単独犯行自白維持同日浦和地裁により接見禁止解除される昭和38年(わ)第274号)。後年2013年5月1日)、石川一雄は「狭山事件真相を探る現地集会現地調査」にて「私は兄が犯人だと思っていたので自白した接見禁止解けて兄と面会したとき、事件当日確かに遅かったが4か所に集金行っていた。俺は犯人じゃないと言われた」と語っており、「これを機に全面的に否認転じ無実訴え始め」た、と伝えられているが、石川実際に無罪主張転じたのは翌1964年9月10日のことである。 1964年 3月7日 石川知り合い巡査長の関源三に「私は必ず人を殺して反省をしないようでは神様黙ってはおりません 又私はどのようなサバ」きを受けよう決し不服はありません」と書き送る。しかし後年2016年2月27日)になると、石川は「無実感じ取った思われる看守」から「最初に覚えた漢字自分の名前と『私』無実』だった」と主張するようになった3月11日 浦和地方裁判所死刑判決裁判長内田武文)。 3月12日 石川控訴申立てる3月26日 石川知り合い巡査長の関源三に「テレビラジオ新聞ご存知のとうり(ママ)私は死刑判決受けました それも仕方のないこととあきらめております控訴申立の手続だけはしておきましたと書き送る。 4月20日 石川浦和地方裁判所裁判長に「私は狭山女子高校生殺し大罪犯し三月一一日浦和の裁判所死刑言い渡され石川一雄でございます」で始まる上申書を出す。 4月30日 石川浦和拘置所から東京拘置所移される石川によると「浦和にいたときの私は字の読み書きは全く出来ませんでした」という。 8月ごろ 石川初め荻原佑介接見無罪主張転じるよう教唆を受ける。 9月10日 東京高等裁判所控訴審第1回公判石川突如として犯行否認転じる1965年 6月22日 石川、3人共犯自白について「関さんに話したのは関さんから言われたのではなく私か話した」と認め手紙を出す。 1967年ごろ 石川によると、このころから「文字読み書き拘置所の中で、独力ではじめた」という。 1970年 3月13日 部落解放同盟委員長朝田善之助当時)が狭山裁判を「差別裁判」と規定する1974年 10月31日 東京高等裁判所原判決破棄自判)して無期懲役判決裁判長寺尾正二)。 1975年 2月 石川自由法曹団中田直人弁護士たち解任する。これにより、国民救援会狭山裁判から撤退。その理由は、国民救援会によると、「「部落解放同盟」が狭山事件を「差別裁判」と規定し、これを承認しない人々を「差別者」だとして糾弾対象にするにいたり、支援運動大きな混乱おちいった」ことであるという。 5月 部落解放同盟第30回大会にて、石川による中田弁護士たちへの悪罵声明読み上げられる1977年 8月9日 最高裁判所第二小法廷)、上告棄却決定裁判長吉田豊)。 8月16日 最高裁判所異議申し立て却下15日付)。原判決無期懲役が確定8月30日 東京高等裁判所第一次再審請求申し立ておこなわれる9月8日 石川東京拘置所から千葉刑務所下獄後年2016年2月27日石川は「読み書きができなかったけど、刑務所文字覚えた」旨の発言をしている。 1980年 2月7日 東京高等裁判所第1次再審請求棄却裁判長四ッ谷巌)。 1981年 3月25日 東京高等裁判所異議申し立て棄却1985年 5月28日 最高裁判所(第2小法廷)、第1次再審請求特別抗告棄却裁判長大橋進)。 1986年 8月21日 東京高等裁判所第二次再審請求申し立ておこなわれる1994年 12月21日 石川千葉刑務所から仮出獄1999年 7月7日 東京高等裁判所(第4刑事部)、第2次再審請求棄却裁判長高木俊夫)。 2002年 1月23日 東京高等裁判所(第5刑事部)、異議申し立て棄却裁判長高橋省吾)。 2005年 3月16日 最高裁判所(第1小法廷)、第2次再審請求棄却裁判長島田仁郎)。 2006年 5月23日 東京高等裁判所(第4刑事部)に第3次再審請求申し立ておこなわれる。(裁判長仙波厚大野市太郎門野博岡田雄一→小川正持河合健司植村稔後藤眞理子大野勝則)

※この「狭山裁判の歴史」の解説は、「狭山事件」の解説の一部です。
「狭山裁判の歴史」を含む「狭山事件」の記事については、「狭山事件」の概要を参照ください。

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