正教会の動向とは? わかりやすく解説

正教会の動向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:13 UTC 版)

日本のキリスト教史」の記事における「正教会の動向」の解説

日本における正教会伝道は、1861年にはロシア正教会ニコライ・カサートキン来日し函館領事館付き修道司祭着任したのが嚆矢である。当初からニコライは「日本人への伝道日本正教会建設」を志して修道司祭となっており、活動領事館付き司祭とどめる考えはなかった。派遣したロシア正教会上層部もまた同様の考えであったその後ニコライは、この基本方針貫いた函館仙台人士初期信徒構成したため、函館東北地方での浸潤がまず始まった日本の正教会だが、1872年神田駿河台土地2300坪を得て宣教拠点とした。1874年5月には布教会議東京開催される1880年にはニコライ主教に叙聖され、この時からロシア正教会から派遣される主教待たず司祭輔祭を叙聖することができるようになり、日本正教会神品増加する環境整った1880年には現存するものの中では日本最古木造教会建築である、石巻ハリストス正教会聖使徒イオアン会堂完成1891年には東京復活大聖堂ニコライ堂)が竣工する。 また出版事業重きを置いたニコライにより、各種祈祷書聖歌譜が日本語活発に翻訳されていった1882年帰国した山下りんにより各地聖堂イコン描かれていった。また日本着任していた修道司祭アナトリイの甥でもありピアノ・チェロの奏者でもあったヤコフ・チハイが同年頃に来日し聖歌教師として聖歌普及努めた正教会急速に教勢拡大していく。 しかし1891年大津事件みられるように日本の対露感情悪化していく中、ロシア正教会から伝道された日本の正教会もまた各地迫害受けていく。1904年にはついに日露戦争開戦される。この時、ニコライ主教日本とどまり、「諸君皇軍為に祈れ」と言い苦難の下にあった日本人正教徒たちを激励し続けたニコライ内面では、度重なるロシア軍敗報苦悩していたが、あくまで日本人指導者日本の正教会主教という姿を貫き通すことになる。同時に日露戦争時日本の正教会日本政府協力し正教徒ロシア人捕虜世話に当たり、「日本正教会」でありかつ「日本人のためだけではない正教会」である姿を両立させることとなった日露戦争終結直後日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂もあわや暴徒襲撃されるところであったということからも、当時日本の正教会置かれ立場垣間見えるこうした逆境にもかかわらず1911年ニコライ大主教昇叙された年には、日本正教会教勢教会265箇所信徒数31,984名、神品41名、聖歌隊指揮者15名、伝教者121名に達した。これは当時日本にあってカトリック教会に次ぐ規模であった明治最後の年1912年ニコライ永眠76であった。この時、明治天皇から恩賜花環与えられた。外国人宣教師永眠に際して花環与えられたのは異例のことであったニコライ伝道その後日本ハリストス正教会結実する

※この「正教会の動向」の解説は、「日本のキリスト教史」の解説の一部です。
「正教会の動向」を含む「日本のキリスト教史」の記事については、「日本のキリスト教史」の概要を参照ください。


正教会の動向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:13 UTC 版)

日本のキリスト教史」の記事における「正教会の動向」の解説

大正以降の正教会の動向については、日露戦争ロシア革命の影響大きく反露感情反共感情広がりと母教会ロシア正教会)に対す共産主義政権による弾圧もあり、他教派とは歴史的に置かれ環境異なるために独特の経緯たどった部分少なく無い。 昭和初期以前明治末から既に日露戦争代表される日露関係悪化から、日本正教会日本において他教派よりも一層厳し立場置かれていた。正教側は、正教ロシア専有宗教ではなく世界の聖公使教会であると主張していたが(これは世界正教会共通する見解)、世間からは「露教」と誤解する向きが根強かった1894年ギリシャ正教会ディオニシオス大主教来日してニコライ主教とともに奉神礼行ったことを、「正教会が蒙っていた冤罪雪ぐべき好機会であった記した三井道郎回想記一節にも、当時日本正教会置かれ状況垣間見える詳細は「日本ハリストス正教会#大正・昭和時代」を参照

※この「正教会の動向」の解説は、「日本のキリスト教史」の解説の一部です。
「正教会の動向」を含む「日本のキリスト教史」の記事については、「日本のキリスト教史」の概要を参照ください。


正教会の動向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:13 UTC 版)

日本のキリスト教史」の記事における「正教会の動向」の解説

戦時下の中で、正教徒外交官である杉原千畝「命のビザ」発行しナチス虐殺からユダヤ人生命危機からを助けたイスラエルの回復を祈るホーリネス系のキリスト者逃れてきたユダヤ人たちを受け入れた旧約神の民のうち、ある人は日本から渡米し、また再建されイスラエル帰還していった1931年大主教ニコライ後継者であるセルギイ・チホミーロフ府主教昇叙された。だが、共産主義政権ソ連)の下で弾圧されその監視下にあるロシア正教会意思・決定忠実なセルギイ対し亡命ロシア人日本人信徒から様々な反発起こったこのような状況下で、セルギイを、その任から解き日本人主教にするよう日本政府から圧力かかった日本正教会抵抗するともなく1940年セルギイ引退余儀なくされ、代わってニコライ小野帰一主教着座した。その後当局監視続き高齢セルギイ1945年特別高等警察逮捕され拷問を受け、約1ヶ月拘留された。釈放後の同年8月10日終戦5日前にセルギイ死去した拷問による衰弱死といわれている。 詳細は「日本ハリストス正教会#母教会との関係戦時下邦人主管問題」を参照

※この「正教会の動向」の解説は、「日本のキリスト教史」の解説の一部です。
「正教会の動向」を含む「日本のキリスト教史」の記事については、「日本のキリスト教史」の概要を参照ください。


正教会の動向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:13 UTC 版)

日本のキリスト教史」の記事における「正教会の動向」の解説

西方教会諸派戦後日本教勢回復する一方で日本正教会戦後迎えてもなお安定することはなかった。第二次世界大戦も他教派同様に正教会にとり苦悩原因であったが、それ以上長期亘る苦悩原因としてソビエト連邦存在があったためである。共産主義諸国弾圧受けており、経済的人的援助ロシア正教会ら行われなかったに拘わらず正教会は「アカ」のレッテルを貼られて各地教勢衰退させた。また、日本正教会内部も、ソビエト連邦による弾圧監視下にあるモスクワ総主教庁意思真正性対す疑問から、母教会たるロシア正教会との関係をどのような形にするのかについてロシア革命直後から戦後しばらくまで様々な立場割れた状態が続いており、これも教勢衰退の原因となった1970年になってモスクワ総主教庁アメリカ正教会日本正教会合意成立し日本正教会ロシア正教会を母教会とする自治教会祝福を得ることで、ようやく教会組織安定得た2000年5月には史上初めモスクワ総主教アレクシイ2世日本訪問した逆に言えば日本正教会ロシア正教会の子教会であるにも拘わらずモスクワ総主教訪日したことが歴史上実に一度無かったことを意味する)。来日時アレクシイ2世日本正教会の首座主教着座式を執り行うとともに天皇とも会見している。また、着座式にはアメリカ正教会からも首座主教出席があった。混乱の時代を経ながらも、日本正教会明治日本語訳による奉神礼守り続けて今日至っている。 詳細は「日本ハリストス正教会#戦後から1970年まで」を参照

※この「正教会の動向」の解説は、「日本のキリスト教史」の解説の一部です。
「正教会の動向」を含む「日本のキリスト教史」の記事については、「日本のキリスト教史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「正教会の動向」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「正教会の動向」の関連用語

正教会の動向のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



正教会の動向のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日本のキリスト教史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS