正教会の動向
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日本における正教会伝道は、1861年にはロシア正教会のニコライ・カサートキンが来日し、函館の領事館付き修道司祭に着任したのが嚆矢である。当初からニコライは「日本人への伝道・日本正教会の建設」を志して修道司祭となっており、活動を領事館付き司祭の枠にとどめる考えはなかった。派遣したロシア正教会上層部もまた同様の考えであった。その後もニコライは、この基本方針を貫いた。 函館・仙台の人士が初期の信徒を構成したため、函館・東北地方での浸潤がまず始まった日本の正教会だが、1872年に神田駿河台の土地2300坪を得て、宣教の拠点とした。1874年5月には布教会議が東京で開催される。1880年にはニコライは主教に叙聖され、この時からロシア正教会から派遣される主教を待たずに司祭・輔祭を叙聖することができるようになり、日本正教会の神品が増加する環境が整った。1880年には現存するものの中では日本最古の木造教会建築である、石巻ハリストス正教会の聖使徒イオアン会堂が完成。1891年には東京復活大聖堂(ニコライ堂)が竣工する。 また出版事業に重きを置いたニコライにより、各種祈祷書・聖歌譜が日本語に活発に翻訳されていった。1882年に帰国した山下りんにより各地の聖堂のイコンが描かれていった。また日本に着任していた修道司祭アナトリイの甥でもありピアノ・チェロの奏者でもあったヤコフ・チハイが同年頃に来日し、聖歌教師として聖歌の普及に努めた。正教会は急速に教勢を拡大していく。 しかし1891年の大津事件にみられるように日本の対露感情が悪化していく中、ロシア正教会から伝道された日本の正教会もまた各地で迫害を受けていく。1904年にはついに日露戦争が開戦される。この時、ニコライ主教は日本にとどまり、「諸君は皇軍の為に祈れ」と言い、苦難の下にあった日本人正教徒たちを激励し続けた。ニコライは内面では、度重なるロシア軍の敗報に苦悩していたが、あくまで日本人の指導者・日本の正教会の主教という姿を貫き通すことになる。同時に日露戦争時、日本の正教会は日本政府と協力し正教徒ロシア人捕虜の世話に当たり、「日本正教会」でありかつ「日本人のためだけではない正教会」である姿を両立させることとなった。 日露戦争終結直後、日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂もあわや暴徒に襲撃されるところであったということからも、当時の日本の正教会が置かれた立場が垣間見える。こうした逆境にもかかわらず、1911年、ニコライが大主教に昇叙された年には、日本正教会の教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝教者121名に達した。これは当時の日本にあって、カトリック教会に次ぐ規模であった。 明治最後の年、1912年にニコライは永眠、76歳であった。この時、明治天皇から恩賜の花環が与えられた。外国人宣教師の永眠に際して花環が与えられたのは異例のことであった。ニコライの伝道はその後、日本ハリストス正教会に結実する。
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正教会の動向
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大正以降の正教会の動向については、日露戦争・ロシア革命の影響が大きく、反露感情・反共感情の広がりと母教会(ロシア正教会)に対する共産主義政権による弾圧もあり、他教派とは歴史的に置かれた環境が異なるために独特の経緯をたどった部分が少なく無い。 昭和初期以前、明治末から既に日露戦争に代表される日露関係の悪化から、日本正教会は日本において他教派よりも一層厳しい立場に置かれていた。正教側は、正教はロシア専有の宗教ではなく世界の聖公使徒教会であると主張していたが(これは世界の正教会と共通する見解)、世間からは「露教」と誤解する向きが根強かった。1894年にギリシャ正教会のディオニシオス大主教が来日してニコライ主教とともに奉神礼を行ったことを、「正教会が蒙っていた冤罪を雪ぐべき好機会」であったと記した三井道郎の回想記の一節にも、当時の日本正教会が置かれた状況が垣間見える。 詳細は「日本ハリストス正教会#大正・昭和時代」を参照
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正教会の動向
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戦時下の中で、正教徒の外交官である杉原千畝は「命のビザ」を発行し、ナチスの虐殺からユダヤ人を生命の危機からを助けた。イスラエルの回復を祈るホーリネス系のキリスト者が逃れてきたユダヤ人たちを受け入れた。旧約の神の民のうち、ある人は日本から渡米し、また再建されたイスラエルに帰還していった。 1931年、大主教ニコライの後継者であるセルギイ・チホミーロフは府主教に昇叙された。だが、共産主義政権(ソ連)の下で弾圧されその監視下にあるロシア正教会の意思・決定に忠実なセルギイに対し、亡命ロシア人や日本人信徒から様々な反発が起こった。 このような状況下で、セルギイを、その任から解き日本人を主教にするよう日本政府から圧力がかかった。日本正教会は抵抗することもなく、1940年、セルギイは引退を余儀なくされ、代わってニコライ小野帰一が主教に着座した。その後も当局の監視は続き、高齢のセルギイは1945年に特別高等警察に逮捕され拷問を受け、約1ヶ月拘留された。釈放後の同年8月10日、終戦の5日前にセルギイは死去した。拷問による衰弱死といわれている。 詳細は「日本ハリストス正教会#母教会との関係と戦時下の邦人主管者問題」を参照
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正教会の動向
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西方教会諸派が戦後に日本で教勢を回復する一方で、日本正教会は戦後を迎えてもなお安定することはなかった。第二次世界大戦も他教派と同様に正教会にとり苦悩の原因であったが、それ以上の長期に亘る苦悩の原因としてソビエト連邦の存在があったためである。共産主義諸国で弾圧を受けており、経済的・人的援助はロシア正教会から行われなかったにも拘わらず、正教会は「アカ」のレッテルを貼られて各地で教勢を衰退させた。また、日本正教会内部も、ソビエト連邦による弾圧・監視下にあるモスクワ総主教庁の意思の真正性に対する疑問から、母教会たるロシア正教会との関係をどのような形にするのかについてロシア革命直後から戦後しばらくまで様々な立場に割れた状態が続いており、これも教勢衰退の原因となった。1970年になってモスクワ総主教庁とアメリカ正教会と日本正教会の合意が成立し、日本正教会はロシア正教会を母教会とする自治教会の祝福を得ることで、ようやく教会組織の安定を得た。2000年5月には史上初めてモスクワ総主教アレクシイ2世が日本を訪問した(逆に言えば日本正教会はロシア正教会の子教会であるにも拘わらず、モスクワ総主教が訪日したことが歴史上実に一度も無かったことを意味する)。来日時、アレクシイ2世は日本正教会の首座主教の着座式を執り行うとともに、天皇とも会見している。また、着座式にはアメリカ正教会からも首座主教の出席があった。混乱の時代を経ながらも、日本正教会は明治の日本語訳による奉神礼を守り続けて今日に至っている。 詳細は「日本ハリストス正教会#戦後から1970年まで」を参照
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