構成と技法
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「カナの婚礼 (ヴェロネーゼ)」の記事における「構成と技法」の解説
17世紀の1630年代半ばに、アンドレア・サッキ(1599年-1661年)の支持者とピエトロ・ダ・コルトーナ(1596年-1669年)の支持者は、再現描写の構成にとっての理想的な人物像の数について多くのことを主張した。サッキはほんのわずかな人数(12人未満)だけが、芸術家が人物の性格を伝えるユニークな身体のポーズや顔の表情を正直に描写できると述べた。一方のダ・コルトーナは、多くの人物像はサブテーマが発展する壮大な主題の中に絵画の一般的なイメージを統合すると述べた。18世紀の『芸術に関する7つの講話』(1769年–1790年)において、肖像画家ジョシュア・レイノルズ(1723年–1792年)は次のように述べている。 絵画の主題においてヴェネツィア派の画家たちは、主に祝祭や、結婚、行列の行進、公開された殉教、あるいは奇跡といった、大人数の人物像を導入する機会を与えられました。ヴェロネーゼはもし尋ねられたなら、少なくとも絵画に40人の人物像が登場するような場合を除いて、歴史画にふさわしい主題というものはないと言うだろうことは容易に想像できます。これより少ない人物では、照明の広がりの配置や管理の巧みさ、人物像のグループ、そしてそれらの豊かな素材に様々な東洋のファッションや人物を導入するといった、芸術作品の構成を示すことができる機会を画家が持つことはほとんどないと彼は主張するでしょう。 マニエリスム様式の物語の絵画として、『カナの婚礼』はヴェネツィア派の色彩(colorito)に重きを置くティツィアーノ・ヴェチェッリオの絵画哲学から、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年-1519年)、ラファエロ・サンツィオ(1483年-1520年)、ミケランジェロ・ブオナローティ(1475年-1564年)の作品で用いられた盛期ルネサンスの構成に関する素描(disegno)までの、様式的および絵画的要素を兼ね備えている。混雑した宴会場面のヴェロネーゼの描写は下から上を見るようになっている。なぜなら絵画の下端は大修道院長のヘッドテーブルの席の背後の上方、食堂の床から2.5メートル離れたところに位置していたからである。 ベネディクト会の契約で規定されていたように、記念碑的な寸法(6.77m x 9.94m)と面積(67.29m2)のキャンバスは飾られる食堂の壁全体を占め、遠近法と建築学に基づく現実的仮想的表現の技術に裏打ちされたヴェロネーゼの芸術的才能は、食堂の空間的拡張として『カナの婚礼』を見るように鑑賞者を促した。
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構成と技法
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「キリスト磔刑と最後の審判」の記事における「構成と技法」の解説
ロベルト・カンピンと次世代のロヒール・ファン・デル・ウェイデンと並んで、ファン・エイクは15世紀半ばの北方ヨーロッパ絵画作品に、自然主義と写実主義をもたらした革新的な画家だった。ファン・エイクは油彩を使いこなした詳細描写の技法に習熟した最初の画家であり、『キリスト磔刑と最後の審判』の人物像にも油彩による高い写実性と複雑な感情表現が描き出されている。とくに「キリスト磔刑」の画面上部に顕著な、それまでに類を見ない画肌の輝くような光沢と深い遠近表現をなしとげた画家だった。 1420年代から1430年代ごろの油彩技法と板絵はまだ初期の段階だった。「最後の審判」を描き出す場合には、支持体である細長い板に適した単純な垂直構成が採用され、画面上部から天界、俗界、地獄が階層化されて描かれていた。一方「キリスト磔刑」を描く作品では水平構成が採用されることが多かった。これに対し『キリスト磔刑と最後の審判』の両翼はどちらも縦に細長い小さな板に描かれている。この小さなスペースに多くのモチーフを詳細に描き出すために、ファン・エイクは革新的ともいえる様々な技法を編み出した。左翼の「キリスト磔刑」では垂直構成で描くために多くのモチーフを見直し、右翼の「最後の晩餐」では多くの場面を一つに凝縮して物語性を高めている。垂直構成の「キリスト磔刑」では、十字架が中空高くに、それまで例のない密集した群衆が中景に、嘆き悲しむ人々が前景に描かれて、壮大な情景を創り上げている。すべてのモチーフが画面下部から画面上部へと向かう上り坂の構図で描かれており、これは中世のタペストリの構図と同じものである。美術史家オットー・ペヒト (en:Otto Pächt) は、「あらゆる世界が一つの絵画作品に描きだされた世界図絵である」としている。 ファン・エイクが左翼の「キリスト磔刑」で用いている手法は、聖書のエピソードを物語風に描きだすための14世紀初頭に見られた伝統的な技法である。美術史家ジェフリー・チップス・スミス (en:Jeffrey Chipps Smith) は、聖書で順を追って発生している出来事がこの作品では「順番ではなく同時に」描かれていると指摘している。ファン・エイクは聖書に記されている、異なる時間に起こった複数のエピソードを一つの場面に凝縮して描きだした。鑑賞者はこの作品を下から上へと見上げていくことによって、実際の時間順通りにエピソードを追いかけることができる。鑑賞者の視線の動きによって時間の経過を意識させるという手法は、ファン・エイクによる複雑に計算された空間描写と遠近法を駆使した奥行き表現によって成し遂げられている。ファン・エイクは左翼の「キリスト磔刑」で、作品の主題たるキリストとの関係性の深さに応じてモチーフの大きさを描き分けている。とくに人物描写に顕著に見られる手法で、前景のキリストの死を嘆き悲しむ人々に比べると、中景に集う兵士や見物人たちは厳密に遠近法を適用した場合のサイズよりもやや大きめに描かれている。右翼の「最後の審判」では、亡者たちが画面下部の中景に描かれているのに対し、聖人や天使たちは画面上部の前景に描かれている。ペヒトはこの「最後の審判」に描かれている場面が「秩序だった一つの空間に同化して」描写されており、大天使が作品空間における天界と地獄とを隔てる役割を果たしているとしている。 『キリスト磔刑と最後の審判』が二枚のパネルから構成されるディプティクなのか、あるいは中央パネルが失われた三連祭壇画の両翼なのかは、美術史家によって意見が分かれている。三連祭壇画の両翼であるという説の美術史家の間でも、失われた中央パネルに何が描かれていたのかに関していくつかの見解がある。「東方三博士の礼拝」が描かれていたという説、「キリスト生誕」が描かれていたという説などである。ただし現在主流となっている学説は、失われたとされる中央パネルはそもそもオリジナルの『キリスト磔刑と最後の審判』には存在していなかったというものである。「東方三博士の礼拝」も「キリスト生誕」も、「キリスト磔刑」と「最後の審判」との組み合わせで描かれることは、1420年代から1430年代に描かれた祭壇画としてはまずありえない。その他唱えられている説として、もともと二枚のパネルで構成されていたディプティクに後世になってから中央パネルが付け加えられたというものや、アルベルト・シャトレの主張のようにもともと存在していた中央パネルが盗まれて散逸したといった説がある。美術史家エルヴィン・パノフスキーは、『キリスト磔刑と最後の審判』がディプティクとして制作されたと考えている。その理由としてパノフスキーは、『キリスト磔刑と最後の審判』が三連祭壇画の両翼だと見なすには「壮麗な表現」に過ぎることを挙げている。他にも、三連祭壇画であれば公共の目に触れさせる目的で、もっと大きなサイズで制作されており、金で箔押しされたフレームに相応な銘が刻まれているはずだという見解もある。さらにこの『キリスト磔刑と最後の審判』のような豪華な素材と表現がなされているのは、三連祭壇画の場合であれば通常は中央パネルのみだとする。これに対して当時のディプティクは個人の祈祷用の小さなもので、フレームに箔押しはされていなかった。いずれにせよ『キリスト磔刑と最後の審判』が三連祭壇画の両翼だったのか、あるいはディプティクだったのかについては確たる証拠は存在していない。しかしながら、技術的な解析から見ると『キリスト磔刑と最後の審判』はディプティクだったという可能性が高い。これに対しペヒトは、三連祭壇画ではないと判断するには、依然として検証が不足していると主張している。
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