東映ギャング路線とは? わかりやすく解説

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東映ギャング路線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 14:25 UTC 版)

太平洋のGメン」の記事における「東映ギャング路線」の解説

ギャング映画Gangster film)/フィルム・ノワールは、アメリカで1920年代後半から作られ戦後ヨーロッパフランスイタリアなどでも作られた。日本の映画会社もそれを下敷き古くからギャング映画作ってきた。戦後日活大映東宝東映でもその手映画作られたが、日本場合欧米違い、元々ギャング存在しないこともあり、主人公ギャングでなく、麻薬取締官などの警察官或いは私立探偵で、追い詰められる側がギャング場合多く架空性も強くギャングというより〈悪漢団〉と呼んだ方がふさわしい扱いだった。 1961年5月3日に、ニュー東映東京製作され鶴田浩二主演佐伯清監督川内康範原作・脚本による『地獄真紅花が咲く』が封切られた。岡田茂はこのとき、東映京都撮影所(以下、東映京都所長であったが、この作品を観て"ギャング路線"を思いついた。岡田ジャン・ギャバンギャング映画が一番好きだった。この翌月新東宝から東映移籍してきた石井輝男監督の『花と嵐とギャング』(東映東京撮影所、以下、東映東京)が封切られ、この映画売り出し苦労していた高倉健生き生きした姿を見て岡田高倉アクション映画導き自身敷いたギャング路線」に起用し続けた。また高倉岡田指導ギャング映画取り組んだ。「ギャング路線」も「任侠路線」も鶴田浩二高倉健二人主演スターに仕立て上げようと岡田プランしたものだった。当時東映は、東・西の両撮影所所長企画最終決定権持っていた。 1961年9月東映東京所長転任した岡田茂は、「ゼネラル・プロデューサーたる撮影所長は、スタジオにうずを巻かす中心人物なくてはならない」をモットーに、当たる映画が1本もなかった同撮影所再建するため、古手監督一掃して若手スター若手監督脚本家をどんどん起用した。 ただ現代劇製作していた東映東京には、絶対的にお客呼べスター当時はいなかったため、鶴田浩二引き抜きもその一つではあったが、「喜劇路線」なども試行しながら、まず特に売れたスリラーなどの原作母体にした映画製作をやった。壷井栄の『草の実』や小坂慶助二・二六事件 脱出』、『松本清張スリラー 考える葉』、菊村到の『残酷な月』などを企画したが、作品評価される興行振るわず館主にも拒否され営業部宣伝黙って市場に流す状況。つまり対外的にも対内的にも熱が入らず。そこで対内的にまずPR行き届くものを作る決めた石井輝男東映移籍して最初に作った『花と嵐とギャング』は実は孤立した映画で、その後一年近く東映ギャング映画作られなかった。一年後作られ石井監督1962年3月21日封切り『恋と太陽ギャング』も、東映京都制作による大島渚監督天草四郎時貞』と併映だったこともあり不入り終わった当時日活ギャングを含むアクション映画盛んに作っていたため新味もなかったが、岡田は「ウチ独特のアクションものをやろうと考えたとき、日活マネをしてもダメだ大人っぽいアクションをやろう、大人っぽいアクションというとギャングだ。東映現代劇には片岡御大堂々たるアクションものがあるんだから、これを母体にして、鶴田高倉丹波その他のメンバーで、絶対的に面白アクションもの、ギャングものができるという確信持ってギャング路線見出した」と述べている。手始め1962年ゴールデンウイークしょっぱな出した本作太平洋のGメン』がやや弱いキャスティングながらヒットし、これを見てギャング映画」を路線化することを決め、これを「ギャング路線」と名付け1962年下半期からギャング映画量産決めた。「東映ギャング路線」は当たり、平均2億円を稼ぐドル箱シリーズになった。またギャング路線切っ掛け東映現代劇人気作品続出した日活幹部・壺田重三は「アクションはもともとウチお家芸だったんだが、ウチ純情映画吉永小百合ら)に変わったとき、ウチアクションがほとんど東映持っていかれた。われわれが作った渡り鳥シリーズ』なんかと比べても、たいして変わりがない映画だったんだが、その後東映がずっと伸びてきた」などと述べている。 1962年7月13日封切り石井監督の『ギャングギャング』がヒットし、はっきり「ギャング路線」と唄った。『クロニクル東映〕』では「『ギャングギャング』からギャング路線が始まる」と記述されている。或いは8月4日封切り小沢茂弘監督地獄裁きは俺がする』で「ギャング路線」という言葉使用した、「ギャング路線」という言葉活字として登場したのは1962年11月2日封切りの『ギャング対Gメン』のプレスシートとともいわれるこの辺りで「東映ギャング路線新設」と高倉健話し、「会社方針がここ当分はギャング路線なんだから」と鶴田浩二話し、「ギャング路線東映」とはっきり看板掲げた1963年に入ると多く雑誌で「ギャング路線」という言葉使われるようになった映画界で「〇〇路線」という言葉使ったのは岡田最初。「〇〇路線」という言葉当時奇妙な云い方の標語」などといわれた。これ以降他社も「〇〇路線」を打ち出すようになった1963年7月3日の『読売新聞夕刊路線もの映画 そのプラスとマイナス」という記事に、"路線元祖"として岡田紹介されている。岡田は「一会社の作品一定の館に系統的に配給されるブロック・ブッキングの現状では、製作と営業が密接に手を結ばねばならない。一プロデューサー、一監督にしか分からない企画じゃ、営業売りにくい。『五番町夕霧楼』ってなんや。"名作路線"や。この一言で分かっちゃう。第二こういう路線を何本が敷いておくと、それぞれに特色発揮する監督スターが育つという長所もある」「どんな路線が受けるかを見極めるのが難しい。"戦記路線"(『陸軍残虐物語』)なども打ち出す時期をずいぶん前から狙っていたんですよ。それともう一つ、どんな路線でもピークせいぜい半年から一年。その寿命見極める必要があります」などと述べている。日活東映追随し石神日活宣伝部長は「路線というのは元々中国言葉だが、一つ流れリズム感じさせるし、"シリーズ"というより幅が広くてなかなかいい言葉だね。でも売り込むときは実に便利で、弱い作品ならナントカ路線売って平均値まで高まるが、強い作品でこれを謳うとかえって並み作品にとられて損をする。その辺面白いところだね」などと述べた東宝藤本真澄専務吐き捨てるように「路線宣伝文句にすぎんやないか、確実に客を呼べ安定した企画なんて簡単にできるもんじゃないよ。それに一本一本映画路線乗せたって結局それは単線だ。ウチ個々作品をどう組ませて、いかに魅力のある二本立てとするかにもっとも苦心するいうなれば"複線路線"や」、白井昌夫松竹製作本部長は「いい言葉だが、ちょっと一般性がないのでウチでは路線という言葉使いません。でも内輪では便利だし、また幾つかの路線沿って企画立てることは企業信用を増す意味でも必要ですね。あのシリーズなら見て損はないという…」、大映松山英夫常務は「大映なら大映系の映画館に行かなくては見れないもの、それを作るのは"路線"、"シリーズ"、"カラー"と、色々言われているものなんだ。われわれが心しなければならないのは一作ごとにアイデア凝らしキャスト豪華にしていかなければダメだということだ」などと話している。 1962年9月20日の『読売新聞夕刊に「ギャングものの製作方針明らかにした東映は、10月以降来年2月までに九本のギャングものを予定している。月平均二本弱という状態だ(中略)"モダン・ギャング"とでも名づけられるものをはさんでいくというのが東映のねらいで...」、『キネマ旬報1963年1月上旬号の『暗黒街の顔役 十一人のギャング』の作品紹介には「模索続けていた東映現代劇がついに見出した鉱脈"ギャングもの"(中略)これは過去三作以上に激しアクション盛り込み...」などと書かれている。この過去三作がどれを指すのか分からないが、いずれにしても1962年からギャング映画路線化したことが分かる岡田井上梅次呼び寄せて高倉健と組ませたり深作欣二渡邊祐介若手に「ギャング映画」に参加させた。第二東映現代劇育て大きな目的があったが、大失敗終わりギャング路線成功でようやくその悲願達成された。ギャング映画時代劇大作負けない大ヒット記録する至り岡田評価は各段に上がった。 東映ギャング路線で活躍したスターは、東映専属では、鶴田浩二高倉健丹波哲郎佐久間良子三田佳子本間千代子緑魔子梅宮辰夫江原真二郎大村文武南広千葉真一久保菜穂子山本麟一八名信夫室田日出男曾根晴美神田隆三國連太郎らで、他社劇団所属フリー歌手では、待田京介安部徹高英男金子信雄三原葉子内田良平杉浦直樹大木実伊沢一郎佐藤慶天知茂松尾和子山下敬二郎アイ・ジョージらである。 「ギャング路線」を確立した岡田は、任侠映画文芸映画エロティック映画など次々当て東映東京再建させた。深作欣二は「岡田茂氏が1961年春に東京撮影所所長着任すると"大"の字のつくハッタリズムで、たちまちギャング路線、やくざ路線確立した」と話し石井輝男は「当時岡田茂さんが最高潮だったんじゃないでしょうか。だから企画会議ホン検討して決めるというようなスタイルじゃないんですね。もう岡田さん一言で、会議なしって感じだったんです」と述べている。北浦寛之は「岡田並行して人生劇場 飛車角』を第一弾とするヤクザ路線企画していたが、ギャング映画成功してなければやくざ映画当初からの路線化は決行されなかったかもしれない」と述べている。 東映東京撮影所長でありながら東映京都時代劇の後をどうする思案し続けた岡田は、1964年2月東映京都撮影所長として帰還し東映京都刷新の大ナタとして時代劇から比較転換容易な任侠路線」での切換え行ったため、ギャング映画終了した終了にあたり岡田は「ギャングなんていっても日本にはないものだからな。アメリカ模造品みたいなものをいくら作っても、なかなか客は来ねえな」と漏らしていたという。 しかし岡田ギャング映画が好きで、社長に就任して間もない1971年9月インタビューでも「高倉健知名度の高い外人スター組み合わせて本格的な"ギャング映画"を作ってみたい」と話していた。その後時折思い出したようにギャング映画作った

※この「東映ギャング路線」の解説は、「太平洋のGメン」の解説の一部です。
「東映ギャング路線」を含む「太平洋のGメン」の記事については、「太平洋のGメン」の概要を参照ください。

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