昭和時代・戦後
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あらゆる物資が不足した戦後、絹足袋やタフタ足袋などすぐに切れるような質の悪い配給の原反で作った足袋でも買い手がついた。作る前から買い手がついたほどで、「ヤミ足袋屋」と呼ばれるヤミ原反で作る足袋が普及した。「別珍御殿」と呼ばれるような大物商人から、数十足の足袋を担いで縫い場を駆けまわる一作業員まで、ミシンの経験があれば八百屋や魚屋も足袋を縫い、1950年(昭和25年)前後の行田足袋の繁栄は「行田足袋王国」と呼ばれた時代であった。1949年(昭和24年)から1950年(昭和25年)は約2,000万足の正規に生産された足袋に対し1,000万足近いヤミ足袋が出回ったとみられ、ヤミ足袋を含めた行田足袋の生産量は8,000万足とも1億足とも語られている。1950年(昭和25年)に経済統制が解除されたことで、統合されていた足袋業者は再び個々に独立し、新興の足袋業者も多数誕生した。1954年(昭和29年)の足袋製造業者は304社に上り、その大半が行田市域に集中しながらも販路や素材の違いを活かした多彩な商品展開を見せた。行田足袋は核となる主要な商標の他にも市域全体で246の商標が用いられ、関連業者は金融業や印刷業、運送業、旅館・料亭に至るまで多種多様な業種の人々が行田足袋産業に関与していた。商標は1軒1軒がそれぞれに持ち、「高級」「下等」「男」「女」の各種商標に加えて大口の得意先の商標も作られていた。経済は安定し、行田足袋産業は復興したかに見えた。 しかし、高度経済成長期のサラリーマン層の増加や洋装の定着により足袋の需要は次第に減少しており、その衰退傾向は1954年(昭和29年)のナイロン靴下の発売によって決定的なものとなった。 1955年(昭和30年)春にはヤミ足袋商人の在庫が持て余され、資金力の無いヤミ足袋商人は原料代の返済のために加工賃にも満たない価格で足袋を投げ売った。行田足袋の需要は高齢者を中心とした限られたものとなって販路は急速に減少し、1958年(昭和33年)頃を境に、足袋業者の廃業や転業が加速した。 廃業を選んだ者が多い中、転業には足袋生産技術を活かして地下足袋やサンダル、スリッパ、靴下などの製造に転向した者と、戦時統制下での経験を活かして学生服や作業服などの被服製造業に転じた者に二分された。被服の中でも流行性の少ない学生服や作業服の生産へと移行し発展したところに、行田・羽生・加須を中心とした北埼玉の縫製業地帯の特徴がある。戦前からの足袋生産の流れと、東京からやや離れている地理的条件が流行に左右されない被服生産へと舵を切らせたとみられる。個人では東京方面へ働きに出る者が増加し、足袋産業離れが進んだ。足袋作りは、行田を中心とする付近の農村の婦女子の限られた仕事となった。 1958年(昭和33年)の足袋生産額は行田の被服縫製業全体の45.1%で、作業服23.6%、学生服12.9%に対して足袋生産の比率がまだ高くあったが、1964年(昭和39年)には足袋25%、作業服23.6%、学生服25.7%となり、被服の生産割合、特に学生服の生産が増加した。この割合は1973年(昭和48年)には、学生服から婦人服や子供服、紳士服など被服品種が多様化し、需要の変化に対応する中小零細企業の工夫が見られる。 行田は昭和40年代まで全国有数の足袋生産地であり続け、足袋の縫製業者は1972年(昭和47年)時点で組合に加盟していた者が139軒あり40億円を出荷したものの、その出荷額は北埼玉縫製業全体から見ればわずか12.5%に減少し、大部分が行田の企業であった。足袋を専業とした業者は20軒で、その他は靴下や被服製造との兼業であり、行田市域全体から見て足袋生産の割合は減少した。
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昭和時代・戦後
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「丹後ちりめんの女工」の記事における「昭和時代・戦後」の解説
1946年(昭和21年)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の要請でアメリカ向けの洋服地として「丹後クレープ」を輸出していた。西陣から初めて先染織物の出機(賃機)が与謝郡に入り、現在丹後で製織されている織物の起点になっている。これが丹後の女性たちの家内労働の支えとなり、丹後織物の代表的な形態になっている。 この時代の丹後ちりめんの織り手は、ほとんどが賃機と呼ばれる家内工業の女性たちである。1945年(昭和20年)初めまでは機屋に住み込んだ女工たちによって支えられた労力は、労働基準法の実施で1日8時間に制限された。そのため、丹後産地の機業会社では、増産を図るための労力を獲得するために、労働基準法が適用されない下請け家内工業を傘下に設ける必要に迫られた。機業会社は工場から機械を賃機に移すことによって、手持ち労働力の多くを労働基準法による8時間の操業時間制限からはずすことに成功した。親会社は親機、賃機は1反あたりの歩合織り工賃で製織を引き受ける。その関係は親子関係に例えられるが、実際は親機にとって賃機は福利厚生に金を使う心配もない使い捨ての労力であった。「織ったら織っただけ儲かるさかいに」ということで、賃機は手取り額を少しでも増やすために長時間操業を続け、親機はさらに賃機を傘下に増やし、法的に制限のない労力源を形成していった。 丹後産地の事業所は昭和2~20年に175事業所、昭和21〜30年に1302事業所、昭和31〜40年に4599事業所、昭和41〜44年に1056事業所の増加があり、そのほとんどが賃機の増加である。1945年(昭和20年)の事業所総数は465事業所であったのが、1969年(昭和44年)には7422事業所に膨張しており、このうち93.2%が賃機である。賃機の主婦が織り手の主力となっている。丹後の織り手の典型は、地元の中学校を卒業後、機業会社に就職し、同じ会社に勤めていた夫と知り合い、結婚し、身につけた製織技術を生かして下請け賃織り仕事を始める。 昭和36年農業基本法以降、現金収入が少なくなり、牛小屋から牛を追い出し、納屋を改造して機を置いた。1日の労働時間は約13時間。主婦と織り手の1人2役で過労が激しい。5時半起床。朝食の後、午前7時から午後6時まで織機の前で立ち仕事。その間に夫と交代で昼食をかきこむ。夕食後は「ふし取り」という製品の糸のほつれを直す整理作業を行い、午後11時半に就寝。長時間の立ち仕事で足が棒になる。月収約10万円、夫と2人で働いた分としては決して高収入とは言えない。そしてはし織れ(糸が切れたのに気付かず、傷物になった物)を出すと下請け織り仕事の受注先の機業会社から織り工賃がもらえない。ひどいはし織れなら、絹糸の損害を支払わなければならないこともある。大抵は、はし織れを安く売り払って、損害の穴埋めをする。 丹後では女性たちの間に犠牲的に労働に従事することを美徳とする風習が残されている。姑たちは嫁たちによく働くことを見習わせ、嫁は身体を粉にして働くことをあたりまえとするようになった。丹後の女性は、過酷な労働に従事することを誇りとするようにさえなる。寸暇を惜しんで、機を織った女性達のおかげで、当時、丹後地方の家庭にはカラーテレビや電気掃除機など、あらゆる電化製品が他の地方よりそろっていたという。丹後地方に最初に入った電化製品は、電気洗濯機と電気炊飯器だった。
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