日本の軍艦旗・自衛艦旗
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詳細は「旭日旗」および「軍旗#大日本帝国陸軍」を参照 日本の艦尾に掲揚する旗については、江戸幕府が幕府海軍に導入した洋式船の「惣船印」として日の丸を制定していた。明治維新後の日本海軍でも、1870年10月27日(明治3年10月3日)制定の「海軍御旗章国旗章並諸旗章ヲ定ム(明治3年太政官布告第651号)」において、艦尾用の「海軍御国旗」及び船首旗章として白布紅日章が定められ、商船と同じく幕末以来の単純な日の丸を使用していた。 1889年(明治22年)10月7日、海軍旗章条例により帝国海軍の軍艦旗として十六条旭日旗を意匠とする旗が定められた(大日本帝国海軍の旗章も参照)。なお、旭日旗(十六条旭日旗)自体は軍艦旗制定から遡ること19年前の1870年6月13日(明治3年5月15日)、帝国陸軍が太政官布告第355号において「陸軍御国旗(1879年(明治12年)、「軍旗」に改称)」として、日本史上初めてこれを考案し定めていたものである。そのため帝国海軍の軍艦旗は、その遥か以前に考案・制定されていた帝国陸軍の軍旗(陸軍御国旗)を模倣したものにすぎない(旭日旗を参照)。しかしながら帝国陸軍の軍旗をそのままコピーするのではなく、旭日の日章位置が中央の軍旗に対して軍艦旗は旗竿側に寄るものとした。以降、十六条旭日旗は日本の軍艦旗として用いられたが、第二次世界大戦(太平洋戦争、当時呼称:大東亜戦争)の敗戦による海軍解体に伴い廃用となった。 その後、海上保安庁隷下の海上警備隊を経て、1952年8月に保安庁警備隊が発足した。これに伴い、掃海船を伴った海上保安庁の航路啓開部門が警備隊に移管され、警備隊は初めて船舶を保有することとなったが、この船舶に掲げる旗が必要になった。時間的な余裕が乏しかったことから、当初は国際信号旗の数字旗「7」で代用していたが、後に隊内から募集した図案をもとに、中央に赤色の桜花を配し、地は青色の横縞7本及び同幅の白色横縞9本を描いた「警備隊旗」が制定された。 その後、1953年(昭和28年)後半になると自衛隊創設の機運が高まっており、11月ごろから、従来の組織編成や旗章、服装などが見直されるようになっていた。警備隊旗は海上での視認性に問題があったこともあって、警備隊でもこれに代わる新しい旗章の制定を検討しており、部隊では旧軍艦旗を支持する意見が強かった。第二幕僚監部では、四囲の情勢はこれを許す状況にないのではないかとして、二の足を踏んでいたが、次の方針で新しい旗章を考案することとなった。 直線的単色なもので一目瞭然、すっきりした形のものであること。 一見して士気を昂揚し、海上部隊を象徴するに十分なものであること。 海上において視認の利くものであること。海の色と紛らわしい色彩は避けて、赤又は白を用いた明色が望ましい。 当時、第一幕僚監部(後の陸上幕僚監部)でも隊旗の研究を行っていたが、同幕僚監部では東京芸術大学の指導を受けていたことから、第二幕僚監部でも第一幕僚監部を通じて同大学の意見を聞いたところ、「部隊の旗としては、旧海軍の軍艦旗は最上のものであった。国旗との関連、色彩の単純鮮明、海の色との調和、士気の昂揚等、すべての条件を満たしている」との回答があった。また、米内光政海軍大将の親戚に当たる画家の米内穂豊に、旭光を主体とする新しい自衛艦旗の図案を依頼したところ、「旧海軍の軍艦旗は黄金分割によるその形状、日章の大きさ、位置光線の配合など実に素晴らしいもので、これ以上の図案は考えようがない。それで、旧軍艦旗そのままの寸法で1枚書き上げた。お気に召さなければご辞退致します。画家としての良心が許しませんので」との申し出をうけた。 1954年(昭和29年)6月上旬に保安庁で旗章制定の審議が開かれた。旧海軍と同一の旗を用いるか否かに議論が集中したが、最終的には原案支持との結論に達した。6月9日の第5次吉田内閣の閣議で正式に決定され、自衛隊法施行令(昭和29年政令第179号)により帝国海軍と同じ規格の「自衛艦旗」が制定された。制定にあたり、吉田茂首相は「世界中でこの旗を知らない国はない。どこの海にあっても日本の艦(ふね)であることが一目瞭然で誠に結構だ。旧海軍の良い伝統を受け継いで、海国日本の護りをしっかりやってもらいたい」と述べた。 自衛艦旗は引渡式に続いて行われる自衛艦旗授与式により内閣総理大臣から交付され、除籍又は支援船に区分変更される際に返納されることとなっている。自衛艦旗授与式では儀礼曲『海のさきもり』が演奏される。 日本の軍艦旗は、このように日本陸軍旗(連隊旗)と同様に考えられている側面もあるが、陸上で部隊指揮官や司令部(特に連隊長や連隊本部)の所在地を示す軍旗とは異なり、国際法上の船舶の国籍を表示する機能が重要であることから扱いは異なっていた。日本陸軍の軍旗は連隊の象徴として編成時に陸海軍の大元帥たる天皇から親授されるものであったため、再交付は原則として行われなかった。そのため損傷したり褪色しても修理や再染色をしないことが多いどころか、むしろ酷く損傷していればいるほど、数多の激戦を経験して積み上げてきた確固たる伝統の証として、内外ともに広く認証及び珍重されていた。そのため連隊旗は房だけになり、旗自体の識別が困難で標識の体裁をなしていないものも珍しくなかった。これに対して軍艦旗は常時、雨や日光、潮風に晒されるため劣化が早く、あくまで消耗品として割り切られており、艦内には常に複数枚の予備が積み込まれていた(破損した軍艦旗は軍需部で交換された)。これは常に鮮明な旗を掲げることで、海上でも不備なく国籍確認が行われることが重視されていたからである。しかしながら、シンボルとしての軍艦旗は連隊旗程ではなくとも尊崇される存在であり、艦艇の総員退艦・沈没時には軍艦旗降下を経て回収することが求められていた(「瑞鶴」等)。 日本海軍では、長期出動で補充が出来なくなった場合、補修用生地(アルパカ)で信号員が縫製した。この作業のため、信号兵は航海学校教程で、軍艦旗および信号旗等の制作・補修の教練を受けていた。さらに高速で動き回る駆逐艦や潜航・浮上を繰り返す潜水艦の場合は特に消耗が激しいため、降雨時は手製軍艦旗で代用することもあった。通常、軍艦旗の管理は、国旗や信号旗類と共に信号部が担当。公式使用時のみ、御写真の棒持とともに内務科が担当する。軍艦旗には6種類(一幅半、二幅、三幅、四幅、六幅、八幅。一幅36cm)あり、艦種や式典によって掲揚する大きさが指定されていた。 帝国海軍、軍艦旗の使用区分種類使用区分一幅半、二幅短艇、内火艇、小艦艇。小艦艇においては、通常の航海用、戦闘旗にも使用。 三幅駆逐艦、潜水艦、海防艦用。通常の航海用、または戦闘旗として、戦艦、巡洋艦も使用。 四幅巡洋艦用。通常の航海用、または戦闘旗として戦艦に使用。また、小艦艇の礼祭用。 六幅通常の戦艦用。または巡洋艦の儀礼、祝祭、観艦式の公式用。 八幅戦艦の儀礼、祝祭、観艦式の公式用。 なお帝国海軍の「戦闘旗」とは、各艦艇が戦闘の目的で出動する時、後部マストに掲揚した軍艦旗を指す。 海上自衛隊の艦首旗(首艦旗・国籍旗)も帝国海軍と同じく日章旗(日の丸)である。掲揚は港に停泊中に自衛艦旗が掲揚されている間には艦首に、航海中は指揮官が国籍を表示する必要があると認めた場合のみメインマストに掲揚する。また国旗と内閣総理大臣旗等又は指揮官旗とを併揚する際には、国旗は右舷に掲揚する。 陸上自衛隊の自衛隊旗(八条旭日旗)と違い、海上自衛隊の自衛艦旗は国際慣習上「国旗」と同様の扱いがされるため、式典等で観閲台の前を通る際は観閲官(観閲官の指揮官旗含む)は自衛艦旗に対して敬礼を行い、毎日掲揚・降下するも自衛艦旗であるため、日本の国旗は『艦首旗』『日章旗』『日の丸』と呼んで区別することが多い。なお主要艦船部隊以外の部隊(総監部、航空基地など)は陸空と同じく国旗を掲揚しており、単に『国旗』と称している。 海上自衛隊自衛艦旗(旧日本海軍軍艦旗) ? 警備隊旗 信号檣の檣頭に掲げられた軍艦旗は戦闘旗(battle ensign)として用いられる 観兵式で使用される軍艦旗 さわゆき艦尾に掲揚される自衛艦旗 しらせ艦尾に掲揚される自衛艦旗 停泊中のあぶくま艦首に掲揚される艦首旗 潜水艦。写真の艦艇は海上自衛隊のそうりゅう型潜水艦「はくりゅう」。 エアクッション艇1号型の船体に塗装された自衛艦旗 自衛艦旗の様式項目定義縦横比2:3 日章の直径縦の2分の1 日章の中心位置旗の中心から左辺に6分の1寄ったところ 光線の幅・間隔日章の中心から11と4分の1度(11.25度)に開いた広さ 生地麻又はナイロン 彩色地は白色で、日章及び光線は紅色
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