太平洋戦争時
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1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が開戦。開戦を意味する暗号「ヒノデハヤマガタ」は、瀬島参謀が考案したものである。開戦後は南東太平洋方面における作戦を担当、1945年(昭和20年)7月に関東軍参謀に転じるまで同職にあって、前線に出される多くの作戦命令を起案した。 ほとんどの期間を、参謀本部部員(作戦課)として陸軍の中枢にいた瀬島は、舅・松尾伝蔵の義兄であり、戦争の早期終結のために動いていた岡田啓介(元首相、海軍大将)と連絡を保った(「岡田啓介#終戦工作」を参照)。1944年(昭和19年)12月から翌年2月まで、「瀬越良三」の変名を用いて、外交伝書使としてモスクワへ出張した。 1945年(昭和20年)1月15日に島村矩康(36期、大佐。大本営陸軍参謀兼聯合艦隊参謀兼中部太平洋方面艦隊参謀であった)が戦死すると、その後任に瀬島が選ばれ、同年2月に聯合艦隊参謀を兼務した。同年3月、同期一選抜の一人として中佐に進級した。菊水作戦(同年4月 - 6月)に際し、南九州に出張して、同地に展開していた第6航空軍を指導した。同年6月末まで、聯合艦隊参謀として同僚である千早正隆(海兵58期)と共に本土決戦準備のため日本各地を調査した。特に、高知県沿岸を決号作戦における米軍の上陸予想地点として、第55軍の作戦指導に熱心に取り組んだ。瀬島は、迫水久常(鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長)と親戚(「岡田啓介#人脈」を参照)であることを千早に打ち明け、迫水を通じて鈴木貫太郎首相に戦局の実情を訴えたという。 1945年(昭和20年)7月1日、関東軍参謀に補され、満州へ赴任。なお、前任者は皇族である竹田宮恒徳王陸軍中佐であった。同年8月15日の日本の降伏後の8月19日、ジャリコーウォでソ連軍と停戦交渉を行う。日本側の参加者は、関東軍総参謀長秦彦三郎中将(陸士24期)、作戦主任瀬島中佐、在ハルビン日本総領事宮川舩夫、ソ連側の参加者は、極東ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥、第一極東方面軍司令官キリル・メレツコフ元帥、同軍司令部軍事会議委員シュチコフ大将であった。 このとき瀬島は軍使として同地を訪れたため、内地に帰還することは可能であったが、同年9月5日、関東軍総司令官山田乙三大将(陸士14期)や総参謀長秦彦三郎中将らとともに捕虜となった。この交渉の際、日本人労力提供について密約が交わされたという説が刊行されたが、瀬島は否定している。
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太平洋戦争時
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1942年(昭和17年)9月に沈没した由良の兵装は、開戦時から変更は無いと思われる。太平洋戦争中の1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)にかけて、艦橋前の機銃は九三式13mm連装機銃1基に換装される(この換装を連装機銃「2基」へとの記述をする文献が見かけられるが、これは誤りで「1基」が正しい)。[要出典]五十鈴は防空巡洋艦に改装された時、この位置(羅針艦橋前)に九六式25mm三連装機銃2基を装備した 阿武隈と長良は1942年から1943年初めに5番主砲を撤去、阿武隈は後部魚雷発射管上部のシェルター甲板に左右1基ずつの25mm3連装機銃を追加装備した。阿武隈は1943年10月から11月、長良は1944年1月から4月の工事で7番主砲を撤去し跡地に12.7cm連装高角砲1基を装備、射出機を撤去して支柱上に25mm三連装機銃1基を装備した。五十鈴・名取・鬼怒の3隻は1943年から翌年にかけて5番砲・7番砲を同時に撤去、対空兵装を前の2隻と同様に強化した。同時期及びそれ以降、艦上の各所に25mm単装機銃や13mm単装機銃が追加装備され、「あ号作戦後の兵装増備状況調査」によると、1944年8月調査の長良の場合で25mm3連装機銃2基、同連装機銃6基、同単装機銃14基、13mm連装機銃1基、同単装機銃8基とされている。 防空巡洋艦兼対潜掃討艦になった五十鈴は14cm砲を全部撤去して12.7cm連装高角砲3基を装備、25mm機銃も増備した。
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太平洋戦争時
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1942年(昭和17年)2月の時点で舷外電路は設置済み。また開戦直前の1941年(昭和16年)12月1日(または12月2日)に迷彩塗装が行われ、1942年6月のキスカ島攻略時には通常の塗装に戻されている。 北方での行動で船体中央付近が損傷し、1941年12月から翌年1月まで横須賀海軍工廠で船体補強工事が行われた。同時に前部マストのトップが短縮され、信号ヤードは1本になった。 1943年(昭和18年)10月27日から12月9日まで横須賀海軍工廠で工事が行われ、5番と7番主砲、射出機、デリックを撤去、7番砲跡に12.7cm連装高角砲1基を搭載した。機銃は25mm3連装機銃4基、同単装6挺を増備、従来の連装機銃2基と合わせて計22挺となる。13mm連装機銃2基も増備。21号電探が前部マスト上、射撃指揮所の上に装備された。 1944年(昭和19年)6月21日から30日の間に横須賀海軍工廠で対空兵装の急速整備が行われ、25mm3連装機銃1基、同連装2基、同単装12挺と13mm単装機銃5挺が増備された。その他に前部マスト上に22号電探1基、艦橋両舷に2式哨信儀が装備された。#JapaneseCruisersによると舷窓の閉鎖もこの時に行われた。また爆雷は18個を搭載した。 「あ号作戦後の兵装装備状況調査」によると1944年(昭和19年)8月20日(横須賀)と8月29日(呉)の調査では以下の兵装とされている。 14cm単装砲5門(5番、7番砲を撤去) 12.7cm連装高角砲1基2門(7番砲跡に装備) 25mm3連装機銃5基、同連装4基、同単装16挺 13mm単装機銃8挺 21号電探1基。(#JapaneseCruisersによると22号電探1基も装備) 哨信儀2基 魚雷兵装変更無し 爆雷投下軌道2条 射出機撤去済み、支柱はそのまま機銃台に転用
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太平洋戦争時
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開戦時の兵装は以下と推定される。 三年式14cm砲4門 三年式8cm高角砲1門 九三式13mm単装機銃2挺 三年式機銃2挺 山ノ内5cm礼砲2門 53cm3連装魚雷発射管2基 六年式改二魚雷12本 八一式爆雷投射機1基(または2基) 爆雷投下台4基 爆雷投下軌道2条 九五式爆雷18個 須式90cm探照灯2基 舷外電路装備 開戦以後の変遷は以下のとおり。 トラック停泊中の1942年(昭和17年)1月3日から13日に爆雷投下台4基を増備と推定。 同年2月19日から28日にトラックで5cm礼砲2門と13mm単装機銃2挺を撤去し、13mm機銃跡に25mm連装機銃2基を装備。 舞鶴海軍工廠で同年5月24日から6月15日に3番煙突直後に25mm連装機銃2基を増備し、短艇の位置を前方に移動。前部マスト短縮。艦橋上の探照灯を1番煙突と2番煙突の間に移設。後部マスト直後の須式探照灯を九三式探照灯に換装。魚雷頭部に防弾板を装備。 舞鶴海軍工廠で1943年(昭和18年)1月19日から3月24日に6.5mm機銃2挺を7.7mm機銃2挺に換装し艦橋上に装備。舷窓閉塞。艦橋測距儀の改造。 1944年(昭和19年)2月10日から20日に播磨造船所で九三式水中聴音機装備。 1943年から1944年に逆探装備。 1944年3月の最終時の兵装は以下と推定される 50口径三年式14cm砲4門 40口径三年式8cm高角砲1門 25mm連装機銃4基 7.7mm機銃2挺 53cm3連装発射管2基 六年式改二魚雷12本 八一式爆雷投射機1基(または2基) 爆雷投下台手動4基、水圧4基 爆雷20個以上 機雷敷設軌道2条 九六式90cm探照灯1基、須式90cm探照灯1基 逆探装備、電探無し 九三式水中聴音機 舷外電路
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太平洋戦争時
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1942年(昭和17年)夏には14cm砲の上に留式7.7mm機銃を装備した。 1943年(昭和18年)10月23日から11月12日にシンガポールの第101工作部で5番14cm砲、射出機と後部マストのデリックを撤去、後部発射管上に左右舷各1基ずつの25mm3連装機銃を装備した。25mm機銃は3連装2基、連装2基となった。
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