国鉄分割民営化と京葉線・東北新幹線の乗り入れとは? わかりやすく解説

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国鉄分割民営化と京葉線・東北新幹線の乗り入れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:03 UTC 版)

東京駅の歴史」の記事における「国鉄分割民営化と京葉線・東北新幹線の乗り入れ」の解説

1987年昭和62年4月1日日本国有鉄道分割民営化されてJRグループ発足した分割方法に関して様々な意見もあったが、結局東海道新幹線東海旅客鉄道JR東海)が一括して営業することになり、東京駅在来線部分引き継ぐ東日本旅客鉄道JR東日本)との間で分割されることになった新幹線財産に関しては、各社収益調整するために設置され新幹線鉄道保有機構帰属することになったが、どの部分をどの会社帰属させるかが問題となった最終的に東海道新幹線使用する線路プラットホームがある範囲の上下の空間土地JR東海帰属させることになった。これは、東海道新幹線設備から雨だれ落ちてくる範囲JR東海帰属するということで「雨だれ方式」と呼ばれた。ただし第7プラットホーム1415番線)については、建設時には東北新幹線用として計画されたという経緯があったためにJR東日本帰属するのが本来であるという考えがある一方当時東北新幹線はまだ東京まで開業しておらず現実には東海道新幹線用に使用されていたことから、様々な議論が行われた末に、土地JR東日本所有する設備新幹線鉄道保有機構帰属し土地無償機構使用できる地上権設定することになった。こうして土地空間JR東日本とJR東海帰属し新幹線専用設備については新幹線鉄道保有機構所有となった。後に1991年平成3年10月新幹線鉄道保有機構からJR各社設備買い取り東京駅設備JR東日本とJR東海所有するようになっている民営化後東京駅では、これまで変わった取り組み始められた。1987年昭和62年7月21日から丸の内北口においてJR東日本東京駅東日本鉄道文化財団主催で「とうきょうエキコン」というコンサートイベント毎週火曜日開催されるようになった。このイベントは、コンサート珍しくなくなったことを理由2000年平成12年11月9日夜の開催最後に打ち切られた。しかし2004年平成16年10月13日から「赤煉瓦コンサート」として、毎年春と秋にコンサートイベント開催されている。2006年からは東京駅保存復原工事に伴い休止となり、上野駅仙台駅において「上野の森コンサート」「杜の都コンサート」と称して開催している。 1987年昭和62年12月17日から23日にかけて、東京駅貴賓通路ギャラリーとして利用する美術イベント開催され守屋多々志による「百人一首」の絵が展示された。これが好評であったことがひとつのきっかけとなり、駅を単なる通過点ではなく文化の場として提供したいという意図に基づき1988年昭和63年4月1日には東京駅丸の内駅舎内に「東京ステーションギャラリー」が開館した2006年平成18年)に東京駅復原工事に伴い休館となるまで105本の展覧会開催された。丸の内駅復原工事完成に伴い2012年平成24年10月1日再開館している。一方1992年平成4年)からは日本赴任した駐日大使信任状捧呈式に際して東京駅貴賓室から馬車によって皇居に向かうようになったこの際には新任大使貴賓室において馬車待ちその間東京ステーションホテル職員日本茶でもてなすことが慣習となっていた。しかしこれも東京駅工事に伴い2007年平成19年4月5日から明治生命館発に変更となっている。 駅の工事もさらに続けられた。京葉線はもともと東京外環状線一環として東京湾岸沿いの貨物線として計画された。しかしオイルショック影響により貨物需要減少し沿線工業用地住宅用地への転用進められ東京ディズニーランドなども立地したことから、沿線自治体要望により旅客転用されることになった。まず西船橋接続京葉線は運転を開始したが、これは総武本線地下鉄東西線への負担が増すことを意味していた。これを抜本的に解決するためには京葉線直接都心乗り入れることが必要とされた。一方で計画されていた成田新幹線沿線住民反対運動のため中止となっていた。そこで、成田新幹線乗り入れ用に計画されていた鍛冶橋架道橋付近地下スペース京葉線乗り入れ転用することが決定された。1983年昭和58年7月5日都心乗り入れ認可運輸大臣から受けて工事進められた。設計に際しては、首都高速既存鉄道高架橋地下鉄丸ノ内線、そして横須賀線地下トンネルどの位置が考慮され将来的皇居方面延長することも可能なように横須賀線トンネルを下に潜る位置選ばれレール面で28.590 mの深さにある。京葉線東京地下駅従来東京駅の約350 m南にあり、旧東京都庁現在の東京国際フォーラム)の前の地下4階京葉地下1 - 4番線の2面4線の設備15編成対応、プラットホーム有効長310 m、最大幅10.5 mで建設された。八重洲側において東京駅南通路との間が改札内結ばれており、また丸の内側では自由通路丸の内地下広場へと通じている。この東京駅南通路と結ぶ連絡通路は、もともと成田新幹線計画に際してその東京乗り入れ駅(通称鍛冶橋駅)との連絡用に、第7プラットホーム東海道新幹線用に転用した際に建設した高架橋連絡通路兼ねるように考慮して用意されいたもので、京葉線建設時転用されたものである1990年平成2年3月10日京葉線東京駅乗り入れ開業した。翌1991年平成3年3月16日ダイヤ改正により、内房線特急さざなみ」および外房線特急わかしお」は総武本線経由から京葉線経由変更され3月19日からは総武本線経由で「成田エクスプレス」の運転が開始されている。また東京駅南口通路はもともと幅が6.9 mしかなかったが、京葉線開業合わせて新し通路建設され供用された。新通路は旧通路北側にあった手小荷物通路スペースを含む長さ74 m、幅15 mに及ぶもので、このため従来南口ドームからまっすぐ東に通路伸びていたのが、新通供用後はやや北に通路位置がずれることになった東北・上越新幹線については、当初工事実施計画では東京駅発着実現することになっており、上野駅計画含まれていなかった。これに対して上野駅周辺住民からは上野駅設置するよう運動が行われていた。しかし上野駅追加する800億円ほど費用余計にかかることから国鉄当局難色示していた。ところが東北新幹線充てるはずであった東京駅第7プラットホーム東海道新幹線用に使用開始されてしまい、東北新幹線用に東京駅第6プラットホームのみの1面2線ではターミナル容量不足することになり、上野にサブターミナルを建設することが現実的考えられるようになった。これにより工事計画変更され1985年昭和60年3月14日上野まで東北新幹線開通した。一旦上野まで新幹線開通すると、その後巨額工事費投じてまで東京駅延長する要はないのではないかという声が国鉄部内からは上がり始め方針決定しないまま国鉄分割民営化迎えることになった民営化後東北地方からの新幹線東京駅乗り入れへの要望が相変わらず強かったこともあり、JR東日本新幹線東京駅乗り入れ1989年平成元年)に決断した神田駅付近では、新たに線路用地入手することは不可であったため、東京上野を結ぶ列車線用地新幹線用転用することになったが、将来的東海道線東北高崎線直通運転可能性を残すためにさらに上に在来線高架載せられる強度新幹線高架橋建設された。こうして1991年平成3年6月20日東京駅東北新幹線乗り入れ、第6プラットホーム12・13番線)が新幹線用供用開始された。

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