国鉄分割民営化と京葉線・東北新幹線の乗り入れ
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「東京駅の歴史」の記事における「国鉄分割民営化と京葉線・東北新幹線の乗り入れ」の解説
1987年(昭和62年)4月1日、日本国有鉄道は分割民営化されてJRグループが発足した。分割方法に関しては様々な意見もあったが、結局東海道新幹線は東海旅客鉄道(JR東海)が一括して営業することになり、東京駅は在来線部分を引き継ぐ東日本旅客鉄道(JR東日本)との間で分割されることになった。新幹線の財産に関しては、各社の収益を調整するために設置された新幹線鉄道保有機構に帰属することになったが、どの部分をどの会社に帰属させるかが問題となった。最終的に、東海道新幹線が使用する線路やプラットホームがある範囲の上下の空間と土地はJR東海に帰属させることになった。これは、東海道新幹線の設備から雨だれが落ちてくる範囲はJR東海に帰属する、ということで「雨だれ方式」と呼ばれた。ただし第7プラットホーム(14・15番線)については、建設時には東北新幹線用として計画されたという経緯があったためにJR東日本に帰属するのが本来であるという考えがある一方、当時東北新幹線はまだ東京まで開業しておらず現実には東海道新幹線用に使用されていたことから、様々な議論が行われた末に、土地はJR東日本が所有するが設備は新幹線鉄道保有機構に帰属し、土地を無償で機構が使用できる地上権を設定することになった。こうして土地と空間はJR東日本とJR東海に帰属し、新幹線専用の設備については新幹線鉄道保有機構の所有となった。後に1991年(平成3年)10月に新幹線鉄道保有機構からJR各社が設備を買い取り、東京駅の設備はJR東日本とJR東海が所有するようになっている。 民営化後の東京駅では、これまでと変わった取り組みも始められた。1987年(昭和62年)7月21日から丸の内北口においてJR東日本東京駅と東日本鉄道文化財団の主催で「とうきょうエキコン」というコンサートイベントが毎週火曜日に開催されるようになった。このイベントは、コンサートが珍しくなくなったことを理由に2000年(平成12年)11月9日夜の開催を最後に打ち切られた。しかし2004年(平成16年)10月13日から「赤煉瓦コンサート」として、毎年春と秋にコンサートイベントが開催されている。2006年からは東京駅の保存復原工事に伴い休止となり、上野駅と仙台駅において「上野の森コンサート」「杜の都コンサート」と称して開催している。 1987年(昭和62年)12月17日から23日にかけて、東京駅の貴賓通路をギャラリーとして利用する美術イベントが開催され、守屋多々志による「百人一首」の絵が展示された。これが好評であったことがひとつのきっかけとなり、駅を単なる通過点ではなく文化の場として提供したいという意図に基づき、1988年(昭和63年)4月1日には東京駅丸の内駅舎内に「東京ステーションギャラリー」が開館した。2006年(平成18年)に東京駅復原工事に伴い休館となるまで105本の展覧会が開催された。丸の内駅舎復原工事完成に伴い、2012年(平成24年)10月1日に再開館している。一方、1992年(平成4年)からは日本に赴任した駐日大使の信任状捧呈式に際して、東京駅の貴賓室から馬車によって皇居に向かうようになった。この際には新任大使は貴賓室において馬車を待ち、その間東京ステーションホテルの職員が日本茶でもてなすことが慣習となっていた。しかしこれも東京駅工事に伴い、2007年(平成19年)4月5日から明治生命館発に変更となっている。 駅の工事もさらに続けられた。京葉線はもともと東京外環状線の一環として、東京湾岸沿いの貨物線として計画された。しかしオイルショックの影響により貨物需要は減少し、沿線の工業用地の住宅用地への転用が進められ、東京ディズニーランドなども立地したことから、沿線の自治体の要望により旅客転用されることになった。まず西船橋接続で京葉線は運転を開始したが、これは総武本線や地下鉄東西線への負担が増すことを意味していた。これを抜本的に解決するためには京葉線を直接都心へ乗り入れることが必要とされた。一方で計画されていた成田新幹線は沿線住民の反対運動のため中止となっていた。そこで、成田新幹線乗り入れ用に計画されていた鍛冶橋架道橋付近の地下スペースを京葉線の乗り入れに転用することが決定された。1983年(昭和58年)7月5日に都心乗り入れの認可を運輸大臣から受けて工事が進められた。設計に際しては、首都高速や既存の鉄道高架橋、地下鉄丸ノ内線、そして横須賀線の地下トンネルなどの位置が考慮され、将来的に皇居方面へ延長することも可能なように横須賀線トンネルを下に潜る位置が選ばれ、レール面で28.590 mの深さにある。京葉線東京地下駅は従来の東京駅の約350 m南にあり、旧東京都庁(現在の東京国際フォーラム)の前の地下4階に京葉地下1 - 4番線の2面4線の設備が15両編成対応、プラットホームは有効長310 m、最大幅10.5 mで建設された。八重洲側において東京駅南通路との間が改札内で結ばれており、また丸の内側では自由通路で丸の内地下広場へと通じている。この東京駅南通路と結ぶ連絡通路は、もともと成田新幹線計画に際してその東京乗り入れ駅(通称鍛冶橋駅)との連絡用に、第7プラットホームを東海道新幹線用に転用した際に建設した高架橋が連絡通路を兼ねるように考慮して用意されていたもので、京葉線建設時に転用されたものである。1990年(平成2年)3月10日に京葉線東京駅乗り入れが開業した。翌1991年(平成3年)3月16日のダイヤ改正により、内房線の特急「さざなみ」および外房線の特急「わかしお」は総武本線経由から京葉線経由に変更され、3月19日からは総武本線経由で「成田エクスプレス」の運転が開始されている。また東京駅南口通路はもともと幅が6.9 mしかなかったが、京葉線の開業に合わせて新しい通路が建設されて供用された。新通路は旧通路の北側にあった手小荷物用通路のスペースを含む長さ74 m、幅15 mに及ぶもので、このため従来は南口ドームからまっすぐ東に通路が伸びていたのが、新通路供用後はやや北に通路の位置がずれることになった。 東北・上越新幹線については、当初の工事実施計画では東京駅発着を実現することになっており、上野駅は計画に含まれていなかった。これに対して上野駅周辺住民からは上野駅を設置するよう運動が行われていた。しかし上野駅を追加すると800億円ほど費用が余計にかかることから国鉄当局は難色を示していた。ところが東北新幹線に充てるはずであった東京駅第7プラットホームは東海道新幹線用に使用が開始されてしまい、東北新幹線用に東京駅第6プラットホームのみの1面2線ではターミナル容量が不足することになり、上野にサブターミナルを建設することが現実的と考えられるようになった。これにより工事計画が変更され、1985年(昭和60年)3月14日に上野まで東北新幹線が開通した。一旦上野まで新幹線が開通すると、その後巨額の工事費を投じてまで東京駅へ延長する必要はないのではないかという声が国鉄部内からは上がり始め、方針が決定しないまま国鉄分割民営化を迎えることになった。民営化後、東北地方からの新幹線東京駅乗り入れへの要望が相変わらず強かったこともあり、JR東日本は新幹線の東京駅乗り入れを1989年(平成元年)に決断した。神田駅付近では、新たに線路用地を入手することは不可能であったため、東京と上野を結ぶ列車線の用地を新幹線用に転用することになったが、将来的な東海道線と東北・高崎線の直通運転の可能性を残すためにさらに上に在来線の高架を載せられる強度で新幹線の高架橋が建設された。こうして1991年(平成3年)6月20日に東京駅へ東北新幹線が乗り入れ、第6プラットホーム(12・13番線)が新幹線用に供用開始された。
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