動く電車の博物館
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昭和30 - 40年代には広島電鉄も他の都市の路面電車と同様にモータリゼーションの進展に伴う渋滞の増加で定時運行ができなくなったことから利用客の減少により売り上げが減り、存廃問題に立たされた。一旦は1963年(昭和38年)6月に、軌道敷内への車両乗り入れが許可された。その頃、広島市に地下鉄計画があり、移行しようとしていた節もあった。しかしこの時、広島電鉄の関係者が市や警察局などに説得を続け、同時に広島県警も独自に調査団を当時路面電車が多数残っていたヨーロッパに派遣・調査を行う。そこで見たものは、中心地の渋滞緩和のための方法としての新たな役割を任され、進化した路面電車の姿だった。1971年(昭和46年)2月に広電は『電車を守る』宣言を行い、路面電車存続へ方針転換。この結果、代替交通機関が決まらないまま軌道を廃止したら、中心街のさらなる交通環境の悪化を引き起こすという結論に至り、一時解除されていた軌道内への自動車進入禁止を1971年(昭和46年)12月に再開させることに成功し、市内の全面駐車禁止、電車優先信号設置、右折レーン設置などの施策を実行させた。廃止された事業者から車両の譲渡を受け、二軸単車をボギー車に置き換えることで車両の大型化およびワンマンカー化。さらなる高速化も図られ、1974年(昭和49年)3月に、海岸通付近に初めて電車優先信号を導入、1975年(昭和50年)2月には、皆実町六丁目から宇品五丁目間に延長された。機構改正や合理化などを行い、1969年(昭和44年)には白島線でワンマン運転を開始。1976年(昭和51年)に市内線は、ラッシュ時を除きワンマン運転化した。それらの努力で、辛うじて残すことができた。その中、1971年(昭和46年)に、広島駅から紙屋町を経由して横川駅に向かう、旧7号線が廃止になった。また、広島市中心部は太田川河口部の三角州にあるため、地下水脈や地質などの問題から当時の技術では大規模な地下鉄建設が難しかったことも廃止を免れた一因である。 市内線には、1966年(昭和41年)より大阪市電から750形および900形を、1971年(昭和46年)に神戸市電より570形および1100形・1150形を購入した。それにより広電に残っていた二軸単車を置き換え、1966年(昭和41年)に200形(初代)、1969年(昭和44年)に400形・450形、1971年に150形が全車廃車になり、二軸単車が全車廃車になり、車両の大型化を完了した。またボギー車も、1972年(昭和47年)に600形(初代)が全車廃車。700形(初代)が1972年(昭和47年)までに4両廃車、800形(初代)が1976年(昭和51年)までに9両廃車になった。 宮島線には、1967年(昭和42年)には、1070形を京阪神急行電鉄から購入。1977年(昭和52年)1080形を京阪神急行電鉄から購入。1982年(昭和57年)には、1050形を改造し1090形とした。また、木造車の廃車も進み、1966年(昭和41年)に1020形が全車廃車、1968年(昭和43年)に1010形がすべて廃車になり木造車は全車廃車になった。 直通車の大型化も進行。2000形が1973年から1974年にかけて、端数になる1両を除き8両が2両連結車に改造を行った。 1975年(昭和50年)に千田車庫で火災が発生して一部車両が廃車となり、その補充のために西鉄北九州線より600形を購入し、ほとんど廃車になっていた800形(初代)も1両がワンマン化改造を受けた。1978年(昭和53年)より京都市電から1900形を購入開始するとともに700形(初代)、800形(初代)は全廃、750形も一部が廃車された。 1979年(昭和54年)には、3両連接車3000形の運用を開始。3000形は広電初の3両連接車で従来型と比べ7m長く、定員も180人と従来型と比較して50人増加した。1976年(昭和51年)に廃止になった西鉄福岡市内線より2両連接車1101・1201・1301形を購入・改造したもので、また1301形は一部小改造の上、1976年より1300形として運用していた。 その後、直通車の増備のため、当時は市内線で主に使われていた2両連接車の2500形を1985年(昭和60年)より3両連接車に改造、3100形とした。また広電西広島駅の宮島線用ホーム2本の内1本を直通車用に改良し、直通車用ホームを3本にした。 当初750形が移籍した時は広電色に塗り直されたが、900形等の移籍の時より、経費節減のために移籍前の塗装を塗り替えずに運行。また、大阪市や神戸市からは安価に外装用の塗料など入手できたことより、以前の塗装を維持した。そこから「動く電車の博物館」や「路面電車の博物館」などの異名でファンから呼ばれるようになった。呼ばれた当初は広電はこの名称を嫌い、塗り替え色の公募を行ったが、地元デザイン会議のメンバーの反対により塗り替えを断念している。その反面、乗客へのサービスとして方向幕の大型化、冷房改造などを積極的に行い、原型には必ずしもこだわっていない。 また、移籍車両の側面に1979年(昭和54年)2月20日より、旧在籍事業者・移籍年を記載した「移籍プレート」を取り付けている。 また、日本国外からも車両の導入が行われ、1977年(昭和52年)の開業65年時に日本国外から車両を導入する話が上がり、軌間が1435mmで同一でかつ両方向に運転台が付いていること、さらには路線の地下化で余剰車になったことより、ドイツのドルトムント市の中古車両を導入することになり、1編成に付き車両購入費500万円・輸送費1500万円・改造費2500万円をかけて、1981年(昭和56年)に同市から70形が移籍してきた。その他、広島市とドイツのハノーバー市との姉妹都市提携を記念し、広島市が茶室を送った返礼として、1989年(平成元年)に200形(2代)(通称:ハノーバー電車)が贈られた。広島電鉄から日本国外への車両の寄贈も行われ、1986年(昭和61年)には、578号がサンフランシスコ市に寄贈されている。 1988年(昭和63年)には、3103号が西ドイツの画家ジョー・ブロッケルホフによりスプレー画が描かれ、「ピースバーン号」になった。1992年(平成4年)に塗装の劣化のため全面塗り替えも検討されたが、8月頃に車体の補修のため腰部のみ塗装を残して他の部分はぐりーんらいなー色に変更され、1995年(平成7年)8月に全面的に塗り替えされた。 また1972年(昭和47年)より、「電車接近装置」を電停に順次設置を開始。これを発展させる形で、1980年(昭和55年)に広島駅-己斐間に「電車ロケーションシステム」を試験的に採用。1985年(昭和60年)3月までに全電停に整備された。また電車運行状況を放送する電停案内放送装置や、電停での利用者の安全を確保するため電停に安全柵、屋根、平面安全地帯を島状にするなどの整備などを行った。
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