動く電車の博物館とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 動く電車の博物館の意味・解説 

動く電車の博物館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:21 UTC 版)

広島電鉄」の記事における「動く電車の博物館」の解説

昭和30 - 40年代には広島電鉄も他の都市路面電車同様にモータリゼーション進展に伴う渋滞増加定時運行ができなくなったことから利用客減少により売り上げ減り存廃問題に立たされた。一旦は1963年昭和38年6月に、軌道敷内への車両乗り入れ許可された。その頃広島市地下鉄計画があり、移行しようとしていた節もあった。しかしこの時、広島電鉄関係者が市や警察局などに説得続け同時に広島県警独自に調査団当時路面電車多数残っていたヨーロッパ派遣調査を行う。そこで見たものは、中心地渋滞緩和のための方法としての新たな役割任され進化した路面電車の姿だった。1971年昭和46年2月広電は『電車を守る』宣言行い路面電車存続方針転換。この結果代替交通機関決まらないまま軌道廃止したら、中心街さらなる交通環境の悪化引き起こすという結論至り一時解除されていた軌道内への自動車進入禁止1971年昭和46年12月再開させることに成功し市内全面駐車禁止電車優先信号設置右折レーン設置などの施策実行させた。廃止され事業者から車両譲渡を受け、二軸単車ボギー車置き換えることで車両大型化およびワンマンカー化。さらなる高速化図られ1974年昭和49年3月に、海岸通付近に初め電車優先信号導入1975年昭和50年2月には、皆実町六丁目から宇品五丁目間に延長された。機構改正合理化などを行い1969年昭和44年)には白島線ワンマン運転開始1976年昭和51年)に市内線は、ラッシュ時除きワンマン運転化した。それらの努力で、辛うじて残すことができた。その中、1971年昭和46年)に、広島駅から紙屋町経由して横川駅に向かう、旧7号線が廃止になったまた、広島市中心部太田川河口部三角州にあるため、地下水脈地質などの問題から当時技術では大規模な地下鉄建設難しかったことも廃止免れた一因である。 市内線には、1966年昭和41年)より大阪市電から750形および900形を、1971年昭和46年)に神戸市電より570形および1100形1150形購入した。それにより広電残っていた二軸単車置き換え1966年昭和41年)に200形初代)1969年昭和44年)に400形450形1971年150形全車廃車になり、二軸単車全車廃車になり、車両大型化完了した。またボギー車も、1972年昭和47年)に600形初代)全車廃車700形初代)1972年昭和47年)までに4両廃車800形初代)1976年昭和51年)までに9両廃車になった宮島線には、1967年昭和42年)には、1070形京阪神急行電鉄から購入1977年昭和52年1080形京阪神急行電鉄から購入1982年昭和57年)には、1050形を改造し1090形とした。また、木造車の廃車進み1966年昭和41年)に1020形全車廃車1968年昭和43年)に1010形がすべて廃車になり木造車は全車廃車になった直通車の大型化進行2000形1973年から1974年にかけて、端数になる1両を除き8両が2両連結車改造行った1975年昭和50年)に千田車庫火災発生して一部車両廃車となり、その補充のために西鉄北九州線より600形購入し、ほとんど廃車になっていた800形初代)も1両がワンマン化改造受けた1978年昭和53年)より京都市電から1900形購入開始するとともに700形初代)800形初代)全廃750形一部廃車された。 1979年昭和54年)には、3両連接車3000形運用開始3000形広電初の3両連接車従来型比べ7m長く定員も180人と従来型比較して50増加した1976年昭和51年)に廃止になった西鉄福岡市内線より2両連接車1101・1201・1301形を購入改造したもので、また1301形は一部改造の上1976年より1300形として運用していた。 その後直通車の増備のため、当時市内線で主に使われていた2両連接車2500形1985年昭和60年)より3両連接車改造3100形とした。また広電西広島駅宮島線ホーム2本の内1本を直通車用に改良し直通車用ホーム3本にした。 当初750形移籍した時は広電色に塗り直されたが、900形等の移籍の時より、経費節減のために移籍前の塗装塗り替えずに運行また、大阪市神戸市からは安価に外装用の塗料など入手できたことより以前塗装維持した。そこから「動く電車の博物館」や「路面電車博物館」などの異名ファンから呼ばれるようになった呼ばれた当初広電はこの名称を嫌い、塗り替え色の公募行ったが、地元デザイン会議メンバー反対により塗り替え断念している。その反面乗客へのサービスとして方向幕大型化冷房改造などを積極的に行い原型には必ずしもこだわっていない。 また、移籍車両側面1979年昭和54年2月20日より、旧在籍事業者移籍年を記載した移籍プレート」を取り付けている。 また、日本国外からも車両導入が行われ、1977年昭和52年)の開業65年時に日本国外から車両導入する話が上がり軌間が1435mmで同一でかつ両方向に運転台付いていること、さらには路線地下化余剰になったことよりドイツドルトムント市の中古車両を導入することになり、1編成付き車両購入500万円輸送1500万円改造2500万円をかけて、1981年昭和56年)に同市から70形移籍してきた。その他、広島市ドイツハノーバー市との姉妹都市提携記念し広島市茶室送った返礼として、1989年平成元年)に200形2代)(通称:ハノーバー電車)が贈られた。広島電鉄から日本国外への車両寄贈行われ1986年昭和61年)には、578号がサンフランシスコ市寄贈されている。 1988年昭和63年)には、3103号が西ドイツ画家ジョー・ブロッケルホフによりスプレー画が描かれ、「ピースバーン号」になった1992年平成4年)に塗装劣化のため全面塗り替え検討されたが、8月頃車体補修のため腰部のみ塗装残して他の部分ぐりーんらいなー色に変更され1995年平成7年8月全面的に塗り替えされた。 また1972年昭和47年)より、「電車接近装置」を電停順次設置開始。これを発展させる形で、1980年昭和55年)に広島駅-己斐間に「電車ロケーションシステム」を試験的に採用1985年昭和60年3月までに全電停整備された。また電車運行状況放送する電停案内放送装置や、電停での利用者の安全を確保するため電停安全柵屋根平面安全地帯を島状にするなどの整備などを行った

※この「動く電車の博物館」の解説は、「広島電鉄」の解説の一部です。
「動く電車の博物館」を含む「広島電鉄」の記事については、「広島電鉄」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「動く電車の博物館」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「動く電車の博物館」の関連用語

動く電車の博物館のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



動く電車の博物館のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの広島電鉄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS