動く遺伝子の再発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 03:49 UTC 版)
「バーバラ・マクリントック」の記事における「動く遺伝子の再発見」の解説
1960年(58歳ごろ)、フランソワ・ジャコブとジャック・モノーは、DNAが単なる塩基配列の集まりではなく、遺伝要素を発現させるために必要な「オペロン」と呼ばれる部分をいくつも持ち、タンパク質の生成には離れたところにある複数のオペロンが関与するのだとする、いわゆるオペロン説を発表した。マクリントックは、この説と自分の研究成果とには非常に多くの類似点があることに気付き、それを論文にしてアメリカン・ナチュラリスト(英語版)誌に投稿し:279、モノーにも写しを送った。しかしモノーですらマクリントックの研究の重要性に気付けず、1961年の総説の中でマクリントックの論文を取り上げていない:222。マクリントックは1965年にもブルックヘブンのシンポジウムで発表しているが、そこでも手ごたえは得られなかった:287。なお、モノーはオペロン説などの業績が認められて1965年にノーベル賞を取っている。 動く遺伝子の反響はほとんどなかったが、それ以外の点が評価されることは多くなってきた。まず1965年(63歳頃)に母校コーネル大学がアンドリュー・ディクソン・ホワイト記念教授(ただし非常勤)の地位を与えた:287。1967年にはコールド・スプリング・ハーバーの功労研究員となり、死の年までこの職を務めている。1970年にはリチャード・ニクソンからアメリカ国家科学賞を得ている(授賞式は翌年)。教授の立場で学生と話すこともあり、ある大学院生が「女の先生というものにはうんざりする」という愚痴をマクリントックにしたため(マクリントックはしばしば女であることを忘れられた)、この学生をたしなめている:128。 その後ようやく、マクリントックの「動く遺伝子」仮説を裏付けるような発見が次々と発表されることになった。1966年、ジョナサン・ベックウィス(英語版)らは、ある種のバクテリオファージが細菌の遺伝子の途中に別の遺伝要素を挿入することができると発表した。これがありえるということになれば、マクリントックの説も奇想天外ではなくなる。さらには、サルモネラの薬剤耐性遺伝子がバクテリオファージによって伝播することも明らかになった。1972年、ピーター・スターリングラーとハインツ・ゼードラーは、本格的な論文としては初めて、マクリントックの研究を支持する見解を発表した。その後、ショウジョウバエでも似た現象が起こることが明らかになるなど、「動く遺伝子」の証拠が続々と見つかった:293。動く遺伝子はトランスポゾンと名付けられた。マクリントック自身も、1978年に遺伝子が環境の変化の影響を受ける仕組みについての発表を行っている:299。
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