コールド・スプリング・ハーバー
コールド・スプリング・ハーバー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 03:49 UTC 版)
「バーバラ・マクリントック」の記事における「コールド・スプリング・ハーバー」の解説
マクリントックは長年の友でコロンビア大学教員になっていたマーカス・ローズがコールド・スプリング・ハーバー研究所に畑を持つことを知り、自分もそこで働くことを希望した。マクリントックはここの遺伝部門長ミリスラフ・デメレッツ(英語版)とも知り合いだったので、手紙を書き、就職の世話をしてもらった。コールド・スプリング・ハーバーは元々夏季限定の研究機関であり、冬になるとマクリントックと話ができるような研究者が居なくなってしまうのが難点で、マクリントックはしばらく迷っていたが、1942年にはとりあえず1年契約の臨時雇いの形で就職した:177(ここが結局生涯の職場となる)。当時は第二次世界大戦の影響で食糧やガソリンが不足していた。そのため研究所外との交流は大幅に制限されることになったが、その分、研究には専念できた。マクリントックの研究は進み、そのいくつかが論文として発表された:179。 1944年春(42歳頃)、マクリントックは女性としては史上3人目となる米国科学アカデミーの会員に選ばれた。また、コーネル大学時代からの友人でスタンフォード大学の教授ジョージ・ウェルズ・ビードルに誘われ、同年に短期間、スタンフォードを訪れた。ビードルはマクリントックに当時不明だったアカパンカビの染色体の挙動観察を依頼し、マクリントックはわずか2ヶ月でその仕事を完成させた:182。さらに同年、マクリントックは女性としては初めてアメリカ遺伝学会の会長に選ばれている:188。 マクリントックはコールド・スプリング・ハーバーに戻ると、その後6年をかけて後のノーベル賞受賞理由となる一連の研究に取り組んだ。1944年の夏、19歳年下のエブリン・ウィトキン(英語版)がコールド・スプリング・ハーバーに来ると、マクリントックは彼女を日々の研究成果の話し相手に選んだ。ウィトキンは大腸菌の研究者ではあったが、マクリントックを崇拝し、マクリントックの研究を理解しようと努めた。その結果、マクリントックに「私の研究を理解するただ一人の人間」と認められた。マクリントックは、友人のマーカス・ローズでさえ自分の研究を完全には理解していないと考えていた:213。 1948年、後にDNAを発見するジェームズ・ワトソンが大学院生の立場でコールド・スプリング・ハーバーの夏期講習に参加しており、マクリントックのトウモロコシ畑の隣で野球をしていたと語っている:258。
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