冷房電車とは? わかりやすく解説

冷房電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 08:32 UTC 版)

南海2001形電車」の記事における「冷房電車」の解説

このグループ電車は、1936年日本初め冷房搭載された「冷房電車」である事が知られている。これは阪和電鉄への対抗サービス一策として企画されたものであるが、元々南海はこの種のサービスに熱心な会社であり、電7系では特別室および喫茶室限定ではあるが、新造時より扇風機設置した実績があった。 1936年前に大阪金属工業(現・ダイキン工業)製の電動冷凍機「ミフジレーター」を改造し重量2.5 tに及ぶ巨大な車載冷房システム開発した冷媒として用いられていたメチルクロライド(CH3Cl)は、当時日本における最新量産冷媒で、のち大和型戦艦弾薬庫冷却艦内冷房冷凍機にも採用されている。 この試作冷房装置は、クハ2801形2802に搭載されることとなり、1936年6月12日設計変更認可および特殊設計許可申請同年7月21日竣工した。この特殊設計許可申請は、屋上搭載機器(エバポレータ)が大型車両定規はみ出すために特認を得るべく出されたものであった構造的には、4基のエバポレータユニットを屋根上に、コンデンサコンプレッサー冷媒貯液タンク冷媒フィルター、そしてそれらを駆動する10馬力電動機床下それぞれ2セットずつ分散搭載するという極めて大規模なシステムで、しかもこの装置高圧ガス取り扱い免許要するため、その保守調整有資格者専任検車係を担当せねばならず、現在の冷房装置のように冷媒を完全密封状態で運用できないため、動作状況に応じて膨張弁一々手動調整する必要があるという、非常に手間のかかるものであったまた、このクハ2802に使用され冷媒メチルクロライド貴重品高価だったため、0.1%のアクロレンを混入してガス漏洩時の検出容易にした。 これとペアを組む電動車モハ20012002には、重量スペースの関係で冷房装置直接搭載が非常に困難であり、代替として灯具一体化した送風装置装備された。この送風装置にはシャンデリア類似の形状からこれをもじって「ファンデリア」と命名され戦後冷房普及期以前1950年代から1960年代私鉄電車普及した換気装置始祖となった。 この冷房車を含む2002+2802編成は、南海本線特急・急行列車優先的に投入された。しかし、元々大電消費200馬力電動機搭載車に、消費電力大きな冷房装置重ねて追加したため、運用してみると電力消費量異常に大きいという問題判明した真偽不明であるが、あまりの電力喰い閉口した南海重役が「これなら難波駅お客はんみんなにコーヒコーヒー振る舞うた方がマシ」とぼやいた、という逸話伝えられている。だがこの当時一般大衆冷房恩恵浴する機会大都市百貨店程度限られいただけに、乗客からは非常な好評を博することになったこのような大反響に気を良くした南海首脳陣は冷房電車の本格的な増備決定し、翌1937年夏にはモハ2001形+クハ2801形の編成のうち、前年改造されモハ2002+クハ2802の再改造を含むモハ2001 - 2004+クハ2801 - 2804の8両4編成に、改良され冷房装置搭載させた。冷房装置そのものは、前年の物に比して各部改良実施されており、これをクハ床下難波寄り乗務員室、および屋上搭載した前年には冷房無く苦情寄せられモハについては屋上風洞設け相棒クハから蛇腹風洞冷風供給し貫通路経由暖まった空気クハ難波寄り乗務員室に戻すという手法で2両分冷房化実現したこのため本系列は通常2両から5両の範囲自由に編成組み替え運用されていたが、これら冷房改造車に限り蛇腹風洞取り付け位置の関係上、ペアを組むモハ風洞の邪魔になるパンタグラフ連結面側に来ない難波寄り連結されクハ冷房装置編成中央となる難波寄り搭載されており、冷房使用時には難波方からモハ-クハとなる2連単位で固定編成として運用された。 冷房装置改良点としては、冷凍能力強化冷媒へのアクロレン混入廃止膨張弁自動調節化、換気回数増大空気吹き出し口増設などが挙げられ、特に冷凍能力は2両分供給能力求められたこともあり、1両分15冷凍トン(=49,800 kcal/h=57.9 kW)から2両で40冷凍トン(=132,800 kcal/h=154.4 kW)へと大幅強化実現した1937年夏の難波駅では、乗客先行する非冷房車見送って後発冷房車乗り込む光景がしばしば見られ乗客殺到した冷房電車の方がかえって暑くなることさえあったという。しかし、おりしも同年7月には日中戦争勃発扇風機装備した電車さえ一般的ではなかった当時当局判断として「非常時に冷房電車は贅沢」との指摘がなされ、この1937年のわずか1シーズン限り冷房使用停止された。その後、デッドウェイトにしかならない重い冷房機器類は撤去されたが、南海では将来冷房復活計画していたらしく、戦後1940年代まで空襲から生き延びた2001形の元冷房車には、屋上冷風ダクト残していた例が複数見られた。 なお、蛇腹風洞による集中冷房方式は、戦後1957年近畿日本鉄道特急電車2250系・6421系を川崎重工業KM集中冷房装置用いて冷房化改造した際に再採用されている。この近鉄電車冷房化以降日本では電車冷房化広まっていくことになるが、南海での冷房電車の試み戦前私鉄では唯一であり、しかも特別料金取らない列車対すサービスであったという点で先駆的な取り組みとして評価されるのである。 なお、その後2001形に再び冷房取り付けられることは無く後述通り昇圧機に全廃となった南海で再び冷房車登場するのは、1961年昭和36年)の20000系こうや号を待つことになり、料金不要車両1970年昭和45年登場の、奇しくも2001形の置き換え目的一つとして登場した7100系2次車以降にて復活皮肉にも同車引退を以て夏季急行列車大半冷房化することとなった

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冷房電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 22:52 UTC 版)

阪和電気鉄道」の記事における「冷房電車」の解説

しかし、当初より都市高速連絡輸送企図して線形決定され典型的なインターアーバンであった阪和電鉄比し南海本線明治時代沿線集客力重視して街道沿いに既存集落を縫うように建設され経緯から、曲線踏切多く走行条件ではかなり不利であった。電9形性能をもってしても、難波 - 和歌山市間所要は60程度限界であった(それでも阪和48ノンストップ広告した程の高速運転を行って挽回しようとしていた)。 このため南海は、車両アコモデーション改善を図るなど、主に接客サービス面で阪和対抗した。その顕著な例としては、1936年日本の私鉄初の冷房電車試作挑戦した事例挙げられる電動冷凍機改造した巨大な車載冷房システム大阪金属工業(現・ダイキン工業)で製造しクハ2801形2802号車試験搭載南海本線特急・急行列車投入した電力消費膨大という問題はあったが、乗客から大好評博した。翌1937年夏には2001電車2両編成4本が冷房装置装備となり、冷房特急・急行頻発実現している。冷房車大人気で、難波駅では先発冷房なし電車見送ってまで、後発の冷房電車に乗り込む乗客続出、非常な混雑となったという。 このような事例限らず1930年代通じて阪和南海両社大阪 - 和歌山間直通優等列車頻発させて覇を競ったが、輸送需要比して過大な供給状態であった

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