冷房電車
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このグループの電車は、1936年に日本で初めて冷房が搭載された「冷房電車」である事が知られている。これは阪和電鉄への対抗サービスの一策として企画されたものであるが、元々南海はこの種のサービスに熱心な会社であり、電7系では特別室および喫茶室限定ではあるが、新造時より扇風機を設置した実績があった。 1936年夏前に、大阪金属工業(現・ダイキン工業)製の電動冷凍機「ミフジレーター」を改造し、重量2.5 tに及ぶ巨大な車載冷房システムを開発した。冷媒として用いられていたメチルクロライド(CH3Cl)は、当時の日本における最新の量産冷媒で、のち大和型戦艦の弾薬庫冷却・艦内冷房用冷凍機にも採用されている。 この試作冷房装置は、クハ2801形2802に搭載されることとなり、1936年6月12日に設計変更認可および特殊設計許可を申請、同年7月21日に竣工した。この特殊設計許可申請は、屋上搭載の機器(エバポレータ)が大型で車両定規をはみ出すために特認を得るべく出されたものであった。 構造的には、4基のエバポレータユニットを屋根上に、コンデンサ、コンプレッサー、冷媒貯液タンク、冷媒用フィルター、そしてそれらを駆動する10馬力電動機を床下にそれぞれ2セットずつ分散搭載するという極めて大規模なシステムで、しかもこの装置は高圧ガス取り扱い免許を要するため、その保守調整に有資格者が専任の検車係を担当せねばならず、現在の冷房装置のように冷媒を完全密封状態で運用できないため、動作状況に応じて膨張弁を一々手動調整する必要があるという、非常に手間のかかるものであった。また、このクハ2802に使用された冷媒のメチルクロライドは貴重品で高価だったため、0.1%のアクロレンを混入してガス漏洩時の検出を容易にした。 これとペアを組む電動車のモハ2001形2002には、重量・スペースの関係で冷房装置の直接搭載が非常に困難であり、代替として灯具と一体化した送風装置が装備された。この送風装置にはシャンデリア類似の形状からこれをもじって「ファンデリア」と命名され、戦後、冷房普及期以前の1950年代から1960年代に私鉄電車に普及した換気装置の始祖となった。 この冷房車を含む2002+2802編成は、南海本線の特急・急行列車に優先的に投入された。しかし、元々大電力消費の200馬力級電動機搭載車に、消費電力の大きな冷房装置を重ねて追加したため、運用してみると電力消費量が異常に大きいという問題が判明した。真偽は不明であるが、あまりの電力喰いに閉口した南海の重役が「これなら難波駅でお客はんみんなにコーヒ(コーヒー)振る舞うた方がマシ」とぼやいた、という逸話も伝えられている。だがこの当時、一般大衆が冷房の恩恵に浴する機会は大都市の百貨店程度に限られていただけに、乗客からは非常な好評を博することになった。 このような大反響に気を良くした南海首脳陣は冷房電車の本格的な増備を決定し、翌1937年夏にはモハ2001形+クハ2801形の編成のうち、前年改造されたモハ2002+クハ2802の再改造を含むモハ2001 - 2004+クハ2801 - 2804の8両4編成に、改良された冷房装置を搭載させた。冷房装置そのものは、前年の物に比して各部の改良が実施されており、これをクハの床下、難波寄り乗務員室、および屋上に搭載した。 前年には冷房が無く苦情が寄せられたモハについては屋上に風洞を設け、相棒のクハから蛇腹風洞で冷風を供給し、貫通路経由で暖まった空気をクハの難波寄り乗務員室に戻すという手法で2両分の冷房化を実現した。このため、本系列は通常2両から5両の範囲で自由に編成を組み替えて運用されていたが、これら冷房改造車に限り、蛇腹風洞の取り付け位置の関係上、ペアを組むモハは風洞の邪魔になるパンタグラフが連結面側に来ない難波寄りに連結され、クハの冷房装置は編成中央となる難波寄りに搭載されており、冷房使用時には難波方からモハ-クハとなる2連単位で固定編成として運用された。 冷房装置の改良点としては、冷凍能力の強化、冷媒へのアクロレン混入廃止、膨張弁の自動調節化、換気回数の増大、空気吹き出し口の増設などが挙げられ、特に冷凍能力は2両分の供給能力が求められたこともあり、1両分で15冷凍トン(=49,800 kcal/h=57.9 kW)から2両で40冷凍トン(=132,800 kcal/h=154.4 kW)へと大幅強化が実現した。 1937年夏の難波駅では、乗客が先行する非冷房車を見送って後発の冷房車に乗り込む光景がしばしば見られ、乗客が殺到した冷房電車の方がかえって暑くなることさえあったという。しかし、おりしも同年7月には日中戦争が勃発、扇風機を装備した電車さえ一般的ではなかった当時の当局の判断として「非常時に冷房電車は贅沢」との指摘がなされ、この1937年のわずか1シーズン限りで冷房使用は停止された。その後、デッドウェイトにしかならない重い冷房機器類は撤去されたが、南海では将来の冷房復活を計画していたらしく、戦後の1940年代まで空襲から生き延びた2001形の元冷房車には、屋上に冷風ダクトを残していた例が複数見られた。 なお、蛇腹風洞による集中冷房方式は、戦後の1957年、近畿日本鉄道が特急電車2250系・6421系を川崎重工業のKM式集中冷房装置を用いて冷房化改造した際に再採用されている。この近鉄電車の冷房化以降、日本では電車の冷房化が広まっていくことになるが、南海での冷房電車の試みは戦前私鉄では唯一であり、しかも特別料金を取らない列車に対するサービスであったという点で先駆的な取り組みとして評価されるものである。 なお、その後2001形に再び冷房が取り付けられることは無く、後述の通り昇圧を機に全廃となった。南海で再び冷房車が登場するのは、1961年(昭和36年)の20000系こうや号を待つことになり、料金不要の車両は1970年(昭和45年)登場の、奇しくも2001形の置き換えも目的の一つとして登場した7100系2次車以降にて復活、皮肉にも同車の引退を以て夏季の急行列車の大半が冷房化することとなった。
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冷房電車
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しかし、当初より都市間高速連絡輸送を企図して線形が決定された典型的な「インターアーバン」であった阪和電鉄に比し、南海本線は明治時代に沿線集客力を重視して、街道沿いに既存集落を縫うように建設された経緯から、曲線や踏切が多く、走行条件ではかなり不利であった。電9形の性能をもってしても、難波 - 和歌山市間所要は60分程度が限界であった(それでも阪和間48分ノンストップと広告した程の高速運転を行って挽回しようとしていた)。 このため南海は、車両のアコモデーション改善を図るなど、主に接客サービス面で阪和に対抗した。その顕著な例としては、1936年に日本の私鉄初の冷房電車試作に挑戦した事例が挙げられる。電動冷凍機を改造した巨大な車載冷房システムを大阪金属工業(現・ダイキン工業)で製造し、クハ2801形2802号車に試験搭載、南海本線の特急・急行列車に投入した。電力消費が膨大という問題はあったが、乗客から大好評を博した。翌1937年夏には2001系電車2両編成4本が冷房装置装備となり、冷房特急・急行の頻発を実現している。冷房車は大人気で、難波駅では先発の冷房なし電車を見送ってまで、後発の冷房電車に乗り込む乗客が続出、非常な混雑となったという。 このような事例に限らず、1930年代を通じて阪和・南海の両社は大阪 - 和歌山間直通の優等列車を頻発させて覇を競ったが、輸送需要に比して過大な供給状態であった。
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